定義
存在の定義
自分の価値とは何だろう。そう、思うことが度々ある。人に、自分に価値など求めてもどうにもならないし、価値があるなしに関わらずに人は生きていく。それでも私は常々思ってしまうのだ。そこが他とは毛並みが違うと言われてしまう所以なのか。だが、私とて、何もなければそんなことは思わない。他人と違うわけではない。少しばかり、ずれているとは思いもするが、私は普通だ。世界にはもっと他人とは違う、そう、住む世界が違うような存在が、実在するのだから。多少のずれはあれども、私は所詮、ただの人だ。何も出来なくて、多少変わっていて、卑小な、弱い存在。自分を過小評価しているわけでも、過大評価しているわけでも、ましてや贔屓に見ているわけでもない。正当に、自分を評価している。
そもそも、普通と言うのが自分には分からない。一般的な定義としては、わかる。だが、人は何かしら、特徴があり、それぞれの意志があり、それぞれの意見を持つ。それは個人の固体として人は成り立つわけなのだから当たり前と言えば当たり前だ。では、それを普通とは違うと言うのは果たして正しいのであろうか。それは人格否定にも等しいと私は思う。だが、それをとても酷なことだと思うのは、私だけなのであろう。
大して人生も歩んでいない、世を知らない私がこんなことを言うのはすごく不自然であるし、何も知らずに語るのはただの無責任だ。だが、昔から言うように、子供は世を顕す。何も知らないからこそ、その心は顕著に世を映し出す。
そして自分もまだ子供の部類に入る。では、この心も世を映し出し、このような不毛なことを考えているのか。それは分からない。少なくとも、この心は他のものとは違う。このような考えにいたるのは自分だけなのだから。
そして思考はまたずれる。自分は今、生きているのだろうか。確かに、生命活動を停止していない時点で『生きている』。だが、私の言う生きているとは『活きている』のことである。喜怒哀楽はある。別に仮面をつけているわけでもない。だが、感情が持続しない。いや、そもそも自分がそんな感情を持っているのかどうかでさえ怪しい。自分が感情を持ったという感覚もなく、表情は勝手に映し出す。それは感情が表に出やすいだけなのだろうか、だが、笑っているからといって楽しいと思わない。嬉しいとも思わない。
自分は周り曰く単純だそうだ。確かに自分は単純だ。そして果てしなく馬鹿で、愚かである。愚図だし、鈍いし、非力だし、体力も、意志も、何もかもだ弱く、劣っている。だが、それは事実ではあるが真実ではない。事実、私は何もできない。しかし、真実できるだろう。『できない』ということは、他人より『劣っている』ということは、『できる』可能性を持つ。人は皆、同じように可能性と実力を持つ。実行しようと思わないからできない。そうしようとする意思が足りないからそうならないだけだ。人によって、意志の強さが同じでも能力は変わるが。だが、そうだとしても意志の強さが等しいかどうかなど分からないのでなんとも言えない。
自分はひどく単純である。だが、単純だからといって、何も考えていないわけでもない。それはまったくもって違う。深く追求するほどの関心を持っていないだけである。私は他人に遠慮するということがあまりない。関心を持たないから考えない。
そして、自分は何なのか。そのことに私の疑問の答えは終結するのだろう。最初の疑問、自分の価値。二つ目の疑問、生きているのか。二つは最後の疑問、自分は何なのか。それから派生したものだからである。
私は人間である。そんな分かりきった事実を答えとして私は望んでいない。私自体の、そう、本質とでも言えばいいか、その本質をより正確に知りたい。
自分のことは自分がよく分かる。だが、分からないことも多くあり、だからこそ人は自分のことが一番分からないのだろう。その言葉は、自分自身のことと、人間自体のこと両方に対しての意味であるのだろうが。人とは奥深いものである。だが、それゆえに単純なところが多い生物でもある。より複雑なもののためにより単純なものであるのだ。
私のこの考え方は多くの人には理解できないのかもしれない。だが、私は私の中で確かにその考えが確信として存在するのも事実だ。だが、人の心は移ろいやすい。今現在、それは確かに『ある』だが、いつそれが覆されるかも分からないものである。
確信でも確実ではない。この世には不確かなもので溢れている。いや、確かなものなどなく、不確かなものしかないと言ったほうがより正確か。それでも、それを真実と、事実と捉えて信じられるのが生物である。そして、私も同じなのである。だが、皆これを考えない。いや、そんなこと考えようとしない。確かに不毛であるし、意味などない。だからといって、不毛で意味などなくもと考えることは幾らでもあるし、その方向が私の場合これになったというだけだ。
いや、人が考えようともしないことを考えているのだから、やはり私は毛並みが違うのかもしれない。これを特徴や個人と言う枠で括るのもしっくりと来ないのだから。人は、どうだっていいのだ。たいてい自分に関さなければ、何だっていいのだ。今ある定義のすべてが間違っていたとしても、その間違った定義の中で生きなければならないのならば、間違ったままでもいいのだ。本当、なんて必要ではない。だからこそ、疑問を持たない。
だが、初めからこのようなことを考えていたわけではない。きっかけがあった。そのきっかけがなくなるまでは私は考えるのだろう。そう思うことが当たり前のように。疑問を持つことが当たり前のように。
子供の頃からあったソレ。だぶるのだ。現実と夢と。そして、感覚が。夢で見たことのあることが、似たようなことが起こる。何か、事前に知っている。大体は、ソレを実際に体験してから思い出すようなものでも、たまに『やっぱり』と思うようなことが起こる。私は本を読むことが多い。だから、その内容と現実が混じっているのかもしれないとも思った。だが、それにしてもかぶりすぎるのだ。似たようなことが、同じようなことが。そして私は本の記憶が混じることなどほとんどない。全くないとは言い切れないが、興味のあるものにはのめりこむ性質であるし心配性なので、勘違いはよくあれど、記憶違いなどあまりない。そもそも、自分に関係のないことは忘れるが、必要なことはちゃんと正確に覚える記憶力が私には備わっている。
加え、最近の私は、感情の起伏が激しく、だが物事に動じることが少なくなったように思える。表の感情がより出やすく、それでいて奥のほうではなんとも思わない。そして、言葉も感情も環境に適する。何も思わない。考えないで言葉を出す。だから、自分の発言に責任が取れない。それでも、それを繰り返す。何も考えずに言葉は溢れてくる。本心は隠したまま、何も考えていないのに勝手に。
これは、身体に染み付いた行動なのではないかと思うほどに。勝手に身体が動くわけではない。自分の感情を置いてきぼりにして、身体は動くのだ。感情が付属しない。現実感に乏しいわけでも、周りに合わせているわけでもない。
たまに、呼吸の仕方を忘れそうになることがある。たまに、歩き方を忘れそうになることがある。そして、現実と非現実との区別が、境が分からなくなることがある。ストレスなど感じてなくとも次々に現れるストレス性の不調。自分の意思を主張しないのは、しなくても大丈夫だと、どうにかなると安心しているから。不安になるときは、いつも自分にとって良くないことが起こる時。
よく思うことがある。自分は、今、この人生を生きているのか。現在というのは、前にあったことを繰り返しているのではないのか。この考え方は漫画や小説などに偏りすぎた考えなのかもしれない。だが、確かに、自分はしたことのないことを知っていたりするのだ。だが、この考えも認識でさえも、自分が作り出した幻想かもしれないと。そう思わずにはいれない。それでも思わずにはいられない。これは『現実ではないのかもしれない』『繰り返しの世界ではないのか』と。
何が本当で、何が真実か分からない。それでも、自分とは何かを探して、何かを知るために知識を知ろうとして、そんな繰り返しの人生を送りながら、私は・・・・・・。