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(8)体育座り、スポーツブラ、そして「河童!」

 どれくらいの時間が経ったのでしょうか。


 船着き場で大声を上げている人がいます。


 ネルが食堂の時計を見るともうボートの出航の時間です。


 ネルたちは慌てて船着き場に降りて行きました。


 大声を上げていた若い男の人がネルたちに

「クアラタハン?」

と聞いてきたので

「イエース!」

と三人は声を揃えて答えました。


 ネルはさっきの食堂で買ったクアラタハンまでのボートのチケットを男に手渡しました。


 男はサソリの刺青をした右手を伸ばしてチケットを受け取ると、直ぐに手のひらの中でムニムニ(むにむに)と小さく潰し、後ろ手で茶色く濁った河に捨てました。


 そして足元にもやいである粗末な板づくりの細長いボートを指差しました。


 ボートは一人座るのがやっとの幅しかありません。


「えーっ、これー?」ネルが不安気な声を出しました。


「大丈夫? 転覆したりしないかしら」心配性のすず子が心配そうに言います。


「こっちの、しっかりした方に乗れないのかな?」カブちゃんが隣にもやいであった、やはり細長い形ではありますが、2人が座れる幅の椅子が何列かあって、日よけの屋根も付いているボートを指差しました。


 船頭の男はネルたちの言葉は無視して、桟橋からボートの舳先(へさき)にひらりと飛び移ると、細長いボートの船尾に向けてトットットッとまるで綱渡りでもするように走って行きました。


 そして船尾に到着すると桟橋のネルたちに向かって「乗れ!」と合図します。


 ネルたちは、まあ仕方ないか、と思ったものの、ゆらゆら揺れているボートに飛び乗るのが怖くて躊躇(ちゅうちょ)していました。


 すると川べりの木陰でしゃがんで煙草を吸っていたおじさんがやって来ました。


 年輪の刻まれた顔という表現は良くありますが、そのおじさんの顔は目と目の中間を中心として、薄い肌色と濃い肌色が年輪の様に同心円状(どうしんえんじょう)に模様を(えが)いていた為、言葉そのままの意味として年輪の刻まれた顔をしていました。


 で、おじさんは煙草を口の横にずらして(くわ)え直すと、ボートの舳先を桟橋から押さえてくれました。


 それでもまだボートは川波に揺れていましたが、もしここで足を踏み外して溺れる様な事があったら、このお話はここで頓挫(とんざ)してしまい、小松菜奈(こまつなな)と共演するという筆者の夢は(もろ)くも消え去ってしまう訳ですから、いくらなんでもそんなことにはなるまいと思い、すず子を肩に止まらせたネルとカブちゃんは意を決してボートに飛び移りました。


「サンキュー!」ネルたちはボートを押さえてくれていた年輪おじさんにお礼を言いました。


 おじさんは当たり前のことをしたまでだ、といった感じで元の木陰に戻り、またしゃがんで咥え直した煙草をふかし始めました。


 切り株の様に見える顔から一筋の煙草の煙が、熱帯のアンニュイな空気の中を、(なま)めかしく身をくねらせながら立ち上っていきました。


 カブちゃんは甲冑(かっちゅう)をガチャガチャ言わせながらボートの中央に体育座りで腰を下ろし、ネルは船首に近い所にこれまた体育座りで腰を下ろしました。


 すずめの子のすず子はネルの右肩に止まっています。


 客はネルたちだけだったので、船頭の男は直ぐにエンジンのスターターの紐を思いっ切り引っ張ってエンジンを始動させました。


 エンジンは黒い煙を一吐きすると腸をえぐるような音を立ててアイドリングを始めました。


 このエンジンというのは直径50センチ長さ80センチ程の円筒形の代物(しろもの)で、そこから2メートルもある長いステンレスの棒が真っ直ぐ伸びているのでした。


 棒の先にはスクリューが付いています。


 巨大なハンドブレンダーを想像して頂ければ良いでしょうか。


 その巨大ハンドブレンダーを船頭は水平よりも15度位下の角度で水面に差し入れました。


 長い棒の先のスクリューが水の下に隠れます。


 船頭はエンジンからボート側に伸びているバーを握ってスクリューの向きを変え、ボートを操るのでした。


 バーを右に向けるとスクリューは左に向き、ボートは左に曲がり、バーを左に向けるとスクリューは右に向き、ボートは右に曲がるといった具合です。


 舵は付いていません。


 バーの握りを回転させることでエンジンの出力を調節出来るようでした。


 エンジンを左右に向けながらゆるゆるとボートを河の真ん中に出した船頭は、そこでいきなりエンジンをフルスロットルでふかしました。


 船着き場にいた人たちが一斉に振り向くほどの爆音を上げてボートは急発進しました。


「うわっ!」


 反動で二人は後ろにひっくり返りそうになりましたが、咄嗟(とっさ)に両脇の舟縁(ふなべり)に掴まってどうにかひっくり返ることだけは免れました。


 すず子も足の爪をネルの肩に食い込ませて目を白黒させています。


 しかし、船頭はそんなことにはお構いなしにどんどん加速していきます。


 二人は態勢を真っ直ぐに立て直すことが出来ず、のけぞったまま両手で舟縁を掴み、後ろにでんぐり返らないように両足を外側に大きく開いて舟板に押し付けているしかありませんでした。


「大丈夫?!」


 船首からネルが叫びました。ほとんど悲鳴に近いものでした。


 しかし、エンジン音が半端ない上、耳元の風を切る音が激しくて、カブちゃんには聞こえません。


「大丈夫?!」


 カブちゃんも後ろからネルに向かって(といっても体勢は斜めに上を向いているので実際は空に向かってということになりますが)叫びましたが、ネルにも全然聞こえませんでした。


 それに大丈夫じゃないことは誰の目にも明らかです。


 船首のネルは波の飛沫(ひまつ)をもろに受けて、顔や白いワンピースがびしょびしょに濡れそぼっています。


 すず子はとにかく我武者羅(がむしゃら)にネルの肩にしがみ付いていました。


 さて、しばらくしてやっと体勢を立て直すことが出来た二人でしたが、ネルのビショビショの白いワンピースが透けて、カルバンクラインのスポーツブラのロゴがバッチリ見えるので、カブちゃんはそんな大変な状況下であるにもかかわらず


カルバンクライン(かるばんくらいん)も良いけどボクはヴィクトリアシーク(びぃくとりあしーく)レット(れっと)派なんだよな》


と思わずにはいられませんでした。


 それはともかく(本当にそう)、ボートは河の流れに沿って猛スピードで左右にカーブするので、二人は振り落とされないようにしがみ付いているだけで精一杯です。


 舟縁の高さは座った二人の腰より少し高い位しかありません。


 カーブでボートが傾くとすぐ顔の下に波でうねる水面が迫ってきます。


 船頭の頭にはスピードを落とすなんて考えがよぎることは無さそうでしたので、とにかく歯を食いしばって災難の通り過ぎるのを待つしかありませんでした。


 しかしそのうち二人も船頭の暴走運転に慣れてきました。


 カーブのタイミングに合わせて体重を左右に移動をさせる余裕迄出てきました。


 船首のネルが体重を移動させるのを見て取って、船頭がボートの向きを変えるということさえ、いつのまにかやっていました。


 船首にいるネルの方が船尾にいる船頭よりも一瞬早く川筋を読むことが出来たのです。


 阿吽(あうん)の呼吸とは正にこのことを言うのでしょう。


 ()てはボートがカーブで膨らみ過ぎるとカブちゃんが「ちっ!」と舌打ちさえするようになっていました。


 そうこうしながら河を遡って行ったボートは途中の桟橋に辿り着きました。


「あなた、どういうつもりなの? 河にお客さんが落ちたらどうするのよ!」ネルが船頭に食って掛かりました。


「落ちたら直ぐ引き返すから大丈夫ね」船頭は涼しい顔をしています。

 

 そして、桟橋にいたお兄ちゃんを相手に熱心に何かを語り始めました。


 ボートのエンジンの部品を指差したり、ボートがカーブを描いて疾走する様子を手のひらで表したりしています。


 ターボがどうしたこうしたなんていう言葉も聞こえてきます。


 エンジンの性能や走行テクニックについて一席(いっせき)ぶっているのでしょう。


 周りには同じ様な()()()()エンジンを積んだボートが何隻(なんせき)()()()()あり、この桟橋は暴走族のたまり場といったところなのかもしれません。


 船頭には客を乗せて運ぶという意識は毛頭無(もうとうな)く、頭にあったのは、いかに速くボートを走らせるかということのみだったようです。


 そんな船頭をネルは《滅茶苦茶だな》と思いましたが、一方で、ボートに乗ってまた爆走するのが楽しみでもありました。


 カブちゃんなどはもう99パーセントが楽しみに傾いていました。


 ただ、すず子は恐怖心から微かに小さな身体を震わせていました。


 ひとしきりエンジン談議に花を咲かせると、船頭はまたエンジンを始動させました。


 エンジンのグリップを握ると目がマジになりました。


 最短のラインを通って1秒、0.1秒を削り出すことしか考えていないことがひしひしと伝わってきました。


 クアラテンベリンのあたりでは茶色く濁っていた河の水も上流のここではだいぶ澄んで深緑色をしています。


 両岸のジャングルは河に覆い被さるように迫っています。


 ネルはワニとかピラニアが河面(かわも)の下に生息しているところを想像して、ちょっと()()()そうになりました。


 しかし、ギリ大丈夫でした。


 それともちびらせちゃいましょうか?



 エンジンの爆音と共に再びボートは疾走し始めました。


 風を切る爽快感とカーブのスリルにネルは「サイコー!」と叫びたくなる程でした。


 カブちゃんは実際「ホー!」と大声で叫んでいました。


 ネルの肩に止まったすず子もようやくスピードに慣れ、走行を楽しむようになっていました。


 しばらくすると遠くの右岸に小さな集落が見えてきました。


 洗濯をする女の人や、河に突き出た樹から河に飛び込んで遊ぶ子供たちなどが視界に入りました。


 集落を通過する時は、さすがの暴走船頭も減速します。


 船頭が減速を開始しようとしたその矢先のことでした。


 河の真ん中に子供が泳いでいたのです。


 流されたゴムボールを拾いに下流まで泳いで来ていたようです。


 船頭は子供を避けて急にボートの向きを変えました。


 ボートは間一髪で子供を避けましたが、反動でネルの肩に止まっていたすず子が河に振り落とされ、沈んでしまったのです。


「すず子!」


 ネルとカブちゃんが叫びました。


 船頭も直ぐにそれに気付きUターンしてすず子の落ちた辺りを探し始めました。


 しかしすず子の姿は見当たりません。


「すず子!」


「すず子!」


 ネルとカブちゃんが必死で河に向かって呼び掛けます。


 早く助けなければ溺れてしまいます。


 二人は気ばかり焦りますが、むなしく時間が過ぎてゆきます。


 すずめが泳げるという話は聞いたことがありません。


 溺れてしまったのかも、そんな弱気が頭をもたげてきます。


「ゲット・バック!」


 カブト虫のカブちゃんが顔をマッカにして船上でシャウトしました。


 すると河の中央で水柱が上がり、その中からゴボゴボと河童が現れたではありませんか。


 いえ、それは河童ではありませんでした。


 よく見るとそれは烏天狗(からすてんぐ)でした。


 (くちばし)があるところは河童に似ていますが、頭に乗っているのは皿ではなく山伏の被る|頭巾(ときん)でした。鈴懸(すずかけ)という修験装束を着て、丸くて白いふわふわしたものが胸のあたりに4つ付いている結袈裟(ゆいげさ)最多角念珠(いらたかねんじゅ)という数珠、手甲、脚絆(きゃはん)八目草鞋(やつめわらじ)なども身に着けていました。


 背中には羽根が生え、手には錫杖(しゃくじょう)を持っています。


 嘴はありますが、可憐な少女の容貌でした。


「ごめん、心配掛けた?」烏天狗の少女が言いました。


「すず子? あなたすず子なの?」ネルが叫びました。


「うん、私もこんな姿に変身しちゃったみたい」


「烏天狗だよね?」カブちゃんが恐る恐る尋ねます。


「に見えるよね? でも、よく見て。この嘴のところ烏天狗にしては小さくない?」すず子が可愛らしい嘴を撫でながら言いました。


「確かに。それにすずめなのに烏天狗っていうのも、何かおかしな話よね」ネルはすず子の姿を繁々と眺め廻しています。


 すると、暴走船頭が《閃いた!》とでも云ったように手を叩いて


「河童!」


 と叫びました。


「いやいや、河童じゃねーし!」


 すず子は思わずぞんざいな口調になった自分に恥じ入りながら、再びか弱いキャラに戻って言葉を継ぎます。


「あの、これ、雀天狗(すずめてんぐ)のつもりなのだけれど、どうかしら?」


「雀天狗かー。なるへそー」カブちゃんが昭和生まれの様な言葉使いをします。


「雀天狗ね、うん、言い()(みょう)だわ」ネルは納得して頷きました。


「河童!」暴走船頭がまた大きな声で叫びました。


「だから河童じゃねーし!」


 今度は三人で声を合わせて見事なツッコミが決まりました。


 すず子は水を(したたら)らせながらボートに乗り込み、ネルとカブちゃんの間に体育座りで腰を下ろしました。


 一行は再び暴走船頭の操る爆走ボートでジャングルを縫うタハン川を遡行しました。


 すず子の嘴はじっと見ていても分からない位のスピードで少しずつ小さくなり、いつの間にか可愛らしい人間の少女の唇になりました、とさ。


【つづく】

  


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