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(5)匂宮、楽曲派、そして「ヲタクちょろすぎ」

 二人と二匹が空高く舞い上がると、眼下に街がジオラマのように広がっています。

 ネルはお父さんや妹に何も告げずに旅に出てしまったことを後悔しました。

 急にネルがいなくなってしまったら、きっととても心配するでしょう。

 他人のピノを平気で食べちゃうような、後先考えないで行動するココならともかく、妄想の翼は自由に広げるけれど、

「石橋は渡らない」

 タイプの自分とは思えない行動にネルは自分で自分に驚いていました。

 でも広い空を飛んでいると、気持ちまで大きくなって、気に病むことなんて何もない、というような気分になってきました。

《旅に出たことは後で手紙で知らせれば良いや》


 さて、二人と二匹は、遠くの青い山並みや、都心の高層ビルの突起を眺めたりしているうちに、大きな池があるのを発見しました。池には白鳥が沢山浮かんでいます。

「あ、白鳥なんて珍しい」

 ネルの言葉に促されるように、すず子と、ネルと管理人をぶら下げたカブちゃんは、白鳥のいる池に向けて急降下しました。

 そこは「いのあたま公園」という場所でした。

 上から見て白鳥に見えたのはスワンボートでした。

 それぞれのスワンボートにはカップルが乗っていて、何が楽しいのかキャッキャ言いながらペダルを漕いでいます。

 いのあたま公園でスワンボートに乗ったカップルは必ず別れるという都市伝説を知らないのでしょうか? 

 知っていても、自分たちだけは間違ってもそんなことにはならないと思っているのでしょうか?


 でも、ほら、やっぱり雲行きの怪しいカップルがいますよ。

 

「ねー、アランド、あなたシミ子とまだ別れてないって本当?」


「えっ? 何で?」


「何で? じゃなくて、聞いてるのは私よ」


「や、何でそんなこと言うの?」


「シミ子に聞いた。シミ子は何だかんだ言って幼馴染だから」


「ふーん、そうなんだ」


「そうなんだ、じゃなくて、まだ付き合ってるの?」


「いや」


「シミ子は別れてないって言ってるよ」


「うん、まー、時々会ってるっちゃー、会ってるけど」


「えっ! シミ子とは別れて私と付き合うって言ったじゃない! 嘘付いたのね!」


「いや、徹子のことは大好きだよ。それは嘘じゃない。それは徹子も知ってるじゃないか」


「でも、シミ子とも会ってるんでしょ?」


「それはまた、別の世界だから」


「別の世界?」


「うん、俺は多分パラレルワールドを行き来してるんだと思う」


「二股掛けてたのね!」


「いや、俺は相撲部だから四股(しこ)は踏むけど二股(ふたまた)は掛けないよ。なんちゃって」


「なんちゃって、じゃないわよ!」


「なんか最新の量子力学ではパラレルワールドが実在するって証明されたらしいよ。詳しいことは、よー知らんけど」


「適当なこと言わないでよ!」


「こっちの世界では俺は徹子だけしか見えてない。俺が好きなのは徹子だけだ。

 それは本当の気持ちだ。

 もしこの気持ちが本当じゃないって言うんなら、世の中に本当のことなんて何もないよ」


「なんか訳の分からなこといって煙に巻こうとしてるでしょ! 

 それに自分の気持ちのことしか興味ないのね。

 あなたの浮気で私がどんな気持ちになるかなんてどうでも良いんでしょ。

 分かりました。

 別れます。

 こんな不誠実な男とはもう金輪際会いませんっ!!」


 ただし、ほとんどのカップルは幸せそうにスワンボートに乗っています。

 小舟に乗った恋人たちって、ロマンチックですよね。

 そこは二人だけの別世界。

 周りの「水」は「死」のメタファーかもしれません。

 死と隣り合うことで愛が燃え上がるのでしょうか? 

 『源氏物語』に、匂宮(におうのみや)(かおる)に囲われていた浮舟(うきふね)を連れて小舟で宇治川の対岸に渡るシーンがありますよね。

 プチ愛の逃避行です。

 倫理に(もと)る愛ですけれど。

 そして向こう岸でめっちゃ愛を育む訳です。

 ただれています! 

 ただれ過ぎです! 

 でも、眩暈(めまい)がするほど官能的じゃないですか! 

 すいません。興奮してしまいました。


 さて、二人と二匹は池のほとりに降り立つと池の真ん中に掛けられている浮橋を渡りました。

 そして、そのまま真っ直ぐ行って階段を上り、左手に焼き鳥屋を見ながら路地を歩いていると、背中からカラスみたいな羽根を生やし、ひらひらした黒いミニスカートの衣装を身に付けた女の子がチラシを配っているところに出くわしました。

 チラシを受け取るのが嫌で避けて通る通行人が多い中、女の子を目敏(めざと)く見つけた管理人は年甲斐も無く女の子に駆け寄って行きました。


「あっ、私たちこれからライブやるんで見に来て下さい!」


 女の子はやっとチラシを受け取ってくれる人が現れたので満面の笑顔をほころばせました。

 さあ、若い女の子に愛嬌よく話し掛けられた管理人が舞い上がったこと舞い上がったこと。

 仕事場の築40年以上経つマンションでは、困ったことに話し掛けてくるのは老人ばかりなので、仕方がないといえば仕方がないのかもしれません。


「もちろん、行きますとも!」


 管理人はチラシを受け取るついでに、どさくさに紛れて女の子の手を両手で握ろうとしましたが、女の子は、そこは冷静にチラシだけを渡して指一本触れさせないように素早く手を引きました。

 そして触れられていないにも関わらず無意識にスカートで手を拭きました。

 管理人はネルたちの方に向き直るとチラシを見ながら言います。


「マグマシェルターっていう超有名アイドルグループのワンマンライブですよ! 

 これは行くっきゃないでしょう!」


 管理人はマグマシェルターなんて名前は聞いたこともなかったのですが、とにかくのぼせ上ってしまっていて、ライブにどうしても行きたかったものですから、口から出まかせを言いました。


「え、私、興味無いな」


 ネルは眉をハの字にして言いました。


「私も」


 ネルの肩に止まっていたすず子はチラシを配っていたアイドルの女の子に気兼ねしながら小さくつぶやきました。


「ボクも」


管理人の腕に付いているカブちゃんは管理人を引っ張って行こうとします。


「行こう、行こう、行きましょうよ、だって行くっきゃないでしょう! 行こうよ !行こうよ! 行きましょう!」


 管理人は説得が難しいと見て取ると、行こう行こうの連呼作戦に切り替えたようです。


「えー」


 ネルたちは却下の姿勢を崩しません。


「行こうよ! 行こうよ! 行こうよ! 行こよう! 行こうよ! 行こうよ!」


 管理人は人通りの多い路地の真ん中に寝転がって駄々を()ね始めました。

 ネルたちはとうとう根負けしました。

 二人と二匹はすぐそこのビルに口を開けていたライブハウスへ通じる狭くて急な階段を降りて行くことにしたのでした。


 階段は折れ曲がりながらどこまでも下に続いていました。

 階段の壁は全体が棚になっていて、食器や本がぎっしり並んでいます。

 地図や絵も掛かっていました。

 ネルは「オレンジ・ママレード」というラベルのビンを見つけ、

《これ、どっかで見たか聞いたかしたことのある風景だ》

 と思いました。

(『不思議の国のアリス』のウサギ穴ですよね)そして、更に下に下りて行くと、裸電球が点滅していたり、むき出しの配線やら水道管やらがびっしり天井を伝い水が滴り落ちていたりして、これちょっとスラム街・伏魔殿(ふくまでん)九龍城塞(くーろんじょうさい)っぽくてヤバくない? と思い始めた頃、やっとライブハウスの入り口に辿り着いたのでした。


 受付カウンターの向こう側に長い髪を顔の前に垂らして表情を読み取ることの出来ないお兄さんがいました。

 右の前腕に科学忍者隊ガッチャマンの白鳥のジュン、左の前腕にアグネス・ラム(1970年代のグラビアモデル)の刺青をしています。

 ちなみに着ているTシャツは仮面ライダー・ドライブで婦警役をやっていた時の内田理央でした。

 あまりのちぐはぐさにネルは脳みそがバグりそうになりましたが、ある種一本筋の通った思想を見出すことも不可能ではないような気もしました。

 当然そのことについてそれ以上深く考える気にはなりませんでした。


「一人2000円で別にワンドリンク500円お願いします」


 顔に掛かった長い髪の毛の隙間からネルのことをジロッと見ながらお兄さんはボソッと呟きました。

 ネルは財布から2500円を出してカウンターに置きました。


「スズメは一匹500円です。ドリンクは別で」


 お兄さんはネルの肩に止まっていたすず子の黒いつぶらな瞳と視線を合わせながら言いました。

 ネルは、ぼられているのではないかと(いぶか)りながらも1000円を追加で払ってドリンクチケットを2枚受け取りました。


「ネル、ありがとう」


 すず子はお金を出してくれたネルにお礼を言いながら、やる気なさそうに見えるお兄さんが意外に職務に忠実なので感心しました。

 管理人が2500円を出そうとすると、お兄さんは管理人の上腕に張り付いていたカブちゃんに鋭い一瞥(いちべつ)を投げ掛けました。

 それからカウンターに置いてあった「料金表」と書かれた電話帳位分厚い冊子を捲り始めました。

 中には「アルパカ:1500円、ツードリンク込み」とか「うさぎ:600円、ドリンク代別」とか「金魚:200円、ドリンク代ナシ」とかが、あいうえお順にびっしりと手書きで書き込まれていました。


「オスのカブト虫は一匹150円です。ドリンク代は無しです」


 お兄さんは電話帳から顔を上げて言いました。

 管理人は仕方なく自分とカブちゃんの分の2650円を払ってドリンクチケットを一枚貰いました。


「みなさん! このドリンクチケットは大変失くし易いですから絶対に失くさないところに仕舞っておかなくてはいけませんよ!」


 管理人はそう叫んで、ドリンクチケットを胸ポケットに入れたり、ズボンの尻ポケットに入れ直したり、また心配になって財布のカード入れに差し込んだりした挙句(あげく)、結局靴下の中に押し込んだので、どうせそこに入れたことを忘れて、後で失くした失くしたと騒ぐに決まっているとネルは思いました。


 それからネルは受付の先の重い防音扉の取っ手を「ガチャッ」と下に下ろして、全身の体重を使って手前に開けました。

 中から、モワッっと音楽が溢れてきました。

 薄暗いフロアには40人ばかりの人が立っています。

 皆一様にスマホを覗き込んでいて、画面の灯りが青白い顔を不気味に照らしています。

 ステージは太い鉄パイプの柵の向こう側にあって、奥の壁に「MAGMASHELTER」という黄緑色の文字がブラックライトに照らされて浮かび上がっていました。

 場内にはトランスだかテクノだかそう()った(たぐい)の音楽が低音を強調して流れていました。

 フロアは混んでいる訳ではなかったので、ネルは何となく一番前に行って鉄パイプの柵にもたれていると、後ろから声を掛けられました。


「そこ、ボクの。そのタオル」


 チェックの長袖シャツをジーパンにインしたずんぐりどんぐりの男が鉄パイプに掛かっていた黒いタオルを指差しました。

 銀縁の眼鏡の奥で冷たく光っている男の小さい目を見て、ネルはゾゾゾとしてしまい、思わず2メートルほど退きました。

 男はタオルで場所取りをしていたようです。

 見ると柵には他にも色とりどりのタオルが等間隔で掛かっていました。


「見かけない顔だね。お宅いつから? ボクは餃子フェスだけど」


 男は自慢げにそう言うと、思いっ切りドヤ顔をするのでしたが、ネルにはそれがどれ位凄い事なのか全く分からなかったのでキョトンでした。


「お宅は『ALICE』新規ってところかな? っふっ」


 男は不敵に笑い、「餃子フェスですか?凄いですね。超古参じゃないですか」という最大限の称賛を期待してじっと待っているようでした。

 もちろんネルはただゾゾゾとするだけで何の言葉も出て来ません。

 男は称賛をする様子も無いネルを不思議そうに見つめ、それから露骨に見くだすような視線を送ってから、くるりと背を向けて柵に肘を突いてスマホの画面をスクロールし始めました。

 マグマシェルターがプレデビューした餃子フェスに引っ掛かってこない人間など最古参(さいこいさん)の男にとっては全く興味の対象外すなわち「無」に等しい存在なのでしょう。


 そのうちに舞台の照明が点いてマグマシェルターの5人の女の子たちがサイケデリックトランスの音楽に合わせて歌ったり踊ったりし始めました。

 天井から吊り下がっているミラーボールに照明が当たって、壁や床や天井で無数の光の粒がグルグルと回っていました。

 ネルは海の中で銀色に光る小さな魚の群れに囲まれて泳いでいるみたいな気分になりました。

 低音のリズムが足元から腹に響いて来てきました。

 ネルはリズムに合わせて身体を揺らしました。

 肩に乗ったすず子も気持ち良さそうです。

 フロアのドルヲタ(アイドル・ヲタク)たちは、それぞれの推しの歌うパートで「グァテマラちゃーん!」とか「テオケちゃーん!」とか、推しの名前をあらぬ方向に顔を向けながら片手を口の横に添えて叫んだりしていました。

 自分の推しが歌うパートのところで真っ直ぐ高くジャンプしている人もいました。

(マサイと云うそうです。マサイ族と云うことでしょう)

 主に足腰の丈夫な若いヲタクたちです。

 ネルに話し掛けてきた最古参のヲタクは曲の始まりに

「よっしゃー! 行くぞー! タイガー! ファイヤー! サイバー!  ファイバー! ダイバー! バイバー! ジャージャー!」

 などと意味の分からないことを狂ったように叫んでいます。

(「MIXミックスを打つ」と云うのだそうです)

「言いたいことが、あるんだよ! やっぱりムムちゃん、かわいいよ! 好き好き大好き、やっぱ好き! やっと見つけたお姫様! 俺がー生まれて、来た理由! それはお前に出会うため! 俺と一緒に人生歩もう! 世界で一番愛してる! ア、イ、シ、テ、ル!」

 などと叫んでいるヲタクもいます。ガチ恋口上(こいこうじょう)です。

 羞恥心はどこに行ってしまったのでしょうか? 

 また、多くのヲタクが色とりどりのサイリウムを推しに向かって必死に振っています。

 中には10本くらいのサイリウムを半円形に固定したものを振り回しているのもいます。

 どうしてわざわざそんなことをするのでしょうか? 

 ヲタクの価値観というものは全くの謎です。

 かと思えば、一番後ろの方で足を広げて中腰で踏ん張り、両手に持ったサイリウムをグルグル振り回したり、斜め上に突き出したり、腕がもげてしまう位無闇矢鱈に振り回している者もいます。

 オタ芸を打つ、と云うそうです。

 5,6人で隊列を組んで、腰を折りながら左右の足を交互に蹴り上げるみたいな何とも説明しづらい奇妙な動きを死に物狂いでやっている者もいます。

 ツーステップと云うそうです。

 あっ、フロアの中央でヲタクたちが輪になり始めました。

 輪の中はぽっかり空間が空いています。

 ステージ上でアイドルがサビの部分を歌い始めました。

 それを合図にヲタクたちが腕をブンブン振り回しながら輪の中に突っ込んでいきます。

 良く肩が脱臼しないものです。

 足を蹴り上げたり、他のヲタクに体当たりをする奴もいます。

 完全に肉弾戦です。

 しかし喧嘩をしている訳ではないようです。

 こんなところで怪我をして仕事や学校を休むことになっても良いのでしょうか? 

 それともそうなったらそうなったで、それが本望(ほんもう)なのでしょうか? 

 民度(みんど)が低いとしか云い様がありません。

 遠巻きに見ていたネルたちは思わず眉をしかめました。

 意味不明だし一言でいえばキモイです。

 でも、みんな必死で汗だくで幸せそうでした。


「キモイね」


 ネルは肩に止まっているすず子に言いました。


「キモイ」


 すず子も言いました。


「キモイってキモイね」


「キモイってキモイ」


「でも、キモイっていいね」


「うん、キモイっていいね」


 二人は(うなず)き合いました。


 マグマシェルターの最後の曲が終わり、アンコール、そしてお約束のダブルアンコールが終わると、運営が折り畳み式のテーブルを出して来て、1枚1500円のチェキ券やら、Tシャツやら、CDなんかを販売し始めました。

 既にチェキ券を持っているヲタクは5本の列を作っています。

(中にはチェキ券をトランプの持ち札みたいに開いて見せびらかしているヲタクもいます)

 例の最古参のヲタクは右端の列の一番前で


「今日もグァテマラちゃんの鍵開(かぎあ)けかー(当日の最初にチェキを撮ること)」


 などと言いながら得意げに周りを見回しています。

 最古参はひとしきり自己満足に浸ってから「グァテマラ最後尾」と書かれたA4のボール紙を列の後ろに回していきました。

 最後尾の人はボール紙を頭の上にかざし、次に並んだ人に手渡していくようです。


 そのうちにマグマシェルターの女の子たちが


「物販始めまーす!」


と言いながらフロアに出てきました。

 ステージより気合が入っているメンバーもいるようです。

 5人の女の子たちは5本の列の前にそれぞれ散っていきました。

 そしてチェキ券と引き換えにヲタクとツーショットチェキを撮り始めました。

 ヲタクたちは推しと胸の前でハートマークを作ったり、推しの背後でバンザイをしたり、かめはめ波を推しに放ったり、思い思いのポーズで運営にチェキを撮って貰っています。

 中には自分は入らずに推しのソロチェキを希望するヲタクもいました。


「床にお姫様座りしてくれる?」


 とか図々しい注文を出していますが


「えっ、無理」


 と一蹴(いっしゅう)されています。

 チェキを撮ってそこにアイドルが日付とサインとヲタクの通称(Ⅹのアカウント名だったりします)を書き入れている短い間に、ヲタクは推しのアイドルとしばしお話しが出来る訳ですが、緊張してテンパってしまい、後から何を話したのかが全く思い出せない、ということもままあるようでした。

 そして運営に「テオケちゃんそろそろー」とか(うながさ)されてしまい、しかたなく手を激しく振ってバイバイし、まだ乾ききっていないチェキにフーフー息を吹き掛けながらまた同じ推しのチェキ列の最後尾に並ぶのでした。


「何かいじらしいわね、ヲタクって」


ネルは言いました。


「そうかしら、あれを見て」


 すず子は大きな声で推しのアイドルに向かって説教している巨体のヲタクの方に目配(めくば)せをしました。


「ズンちゃんはさー、愛嬌が足りないんだよね、愛嬌が。歌も踊りもメンバーの中ではピカイチなのに、何でいつもチェキ列が一番短いか分かる? ね、チェキが少なかったらズンちゃんの実入(みい)りもそれだけ少ない訳なんだから、そこんとこもっとしっかり考えた方が良いよ」


 言われたアイドルの女の子は困っています。


「はい、そろそろでーす」


 運営がヲタクをそっと、しかし毅然(きぜん)()がしてくれたおかげで女の子は難を逃れました。


 ふと振り向くとネルの後ろに長いヲタクの列が出来ていました。


「はっ?」


 ネルはびっくりして思わず声を上げました。

 列の一番前にいた「楽曲派(がっきょくは)」の若薄毛(わかうすげ)にニヤッと笑い掛けられてネルは全身に高さ3ミリのサブイボが波立つのを感じました。

 (ちなみに「楽曲派」というのは、ロリータアイドル好きのヲタクが「オレはロリコンなんじゃねー、曲が好きなんだよ!」と弁明したことから付けられた呼称ですが、最近では字義通り楽曲を重視するアイドル、もしくはアイドルファンのことを指す場合も多いようです)


「運営さーん! こっちこっち! 早く!」


 若薄毛が呼ぶと、他でチェキを撮っていた運営が飛んできました。

 若薄毛は運営にチェキ券を手渡し「ツーショットで」と言ってネルの隣りに並ぶではありませんか。

 訳が分からず立ち尽くしているネルと、でれ~とニヤケた若薄毛(しかも「楽曲派」)のツーショットチェキを運営が素早く撮りました。


「私違います!」


 ネルはやっと声を出すことが出来ましたが、ヲタクたちはそんなことにお構いなしに入れ代わり立ち代わりネルの隣に並んでツーショットチェキを撮って貰っています。

 運営も運営で臨時収入のチャンスを逃すまいと必死でチェキのシャッターを切りまくります。

 マグマシェルターの女の子たちは、自分を推しているはずのヲタクがネルとチェキを撮っている様子に眉を(ひそ)めていましたが、この業界ではDD(ディーディー:誰でも大好きの略)は珍しくありません。

 「推し変」される訳ではなく、「推し増し」だったら《まっ、いっか》と寛容な態度で見守ることにしたようです。

 一方ネルは「訴えてやる!」と叫びましたが、運営に1万円札を握り締めさせられたので、《えっ、そんなに貰えるの? だったら、少し我慢するか》と思い直したのでした。

 結局ただボーっと突っ立っていただけで、あっという間に2万円を稼ぐことが出来ました。


「ヲタクちょろすぎ」


 正にネルの仰る通りです。


 ネルは2万円を折り畳んで白いワンピースのポケットに仕舞い一息つきました。

 ふと見ると管理人がさっき地上でチラシを渡してくれたメンバーとチェキを撮ろうとしています。

 管理人が女の子の横に並んでじりじり接近していくので女の子もそれを避けてじりじり横移動をしていきます。

 それでチェキカメラを構えている運営も横移動せざるを得ず、その三人は隣りのチェキ列を越え、更に隣りのチェキ列、そして壁際に移動しながらとうとう後ろのドリンクカウンターのところまで行ってしまいました。


「あっ、そうだ! このカウンターの上に並んで立って撮って貰って良いですか?

 出来るだけローアングルで。私が先に登りますから」


 管理人はそう言ってビールサーバーやらグラスやらおつまみのナッツの小袋なんかが置いてあるカウンターに足を掛けてよじ登ろうとしたものですから、さすがにその時なってやっと例の受付にいた髪の長いお兄さんに


「お客さん、困ります」


 と身体を抱えられライブハウスの外に押し出されそうになったのでした。

 管理人はせっかく大枚1500円でチェキ券を買ったのだからチェキだけは撮らねばと、


「分かりました、分かりました。じゃあ、二人並んで、はいっ、チーズ」


 と厳しい表情のお兄さんを振り切って、女の子の所に戻りチェキを撮り切ったのでした。


「これからもずっと応援するんで頑張ってください!」


 管理人は何事も無かったかのように女の子にそう言うと、チェキのカメラから出て来た生乾きの写真をひったくってネルたちの方に歩いて来ました。


「凄い根性してるね、あの人」


 ネルとすず子は呆れて顔を見合わせました。

 上気した管理人が戻って来ると腕のカブト虫のカブちゃんが言いました。


「めっちゃ踊って、楽しかったー。ライブも終わったし、ボクは*接触には興味ないからもう帰ろうよ」


 カブちゃんも管理人の腕の上で踊っていた様です。


「そうですね。そのようにいたしましょう」


 管理人はカブちゃんにかしずくようにそう言うとライブハウスの重いドアを押して外に出ました。

 マンション管理組合の理事長さんに「これを私だと思って大事にして下さい」と言われてカブちゃんを貰ったことを忘れていないのでしょう。


 長い階段を上って二人と二匹が地上に出ると、辺りは夕闇に包まれていました。針の穴程の天王星が丁度ビルの向こうに隠れるところでした。


注 接触(せっしょく:アイドルヲタク用語:アイドルとチェキを撮ったりお話ししたりする場のこと。「今日オレこの後次の現場あるから接触*干すわ」などの様に使う)


注 干す(ほす:アイドルヲタク用語:お金が無いからとかではなく、あくまで自分の気分、都合でライブやイベントなどに行かない事)


【つづく】



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