(3)ナルシスの変貌、蜂の巣、そしてパラレルワールド
この日、ネルは放課後のバスケ部の練習をサボって速攻で帰宅しました。
勉強机の引き出しからリキテックス20mlチューブのアクリル絵の具やキャムロン・プロ0号の筆やミューズの3号のアクリルブロックなんかを取り出します。
そして本棚からお小遣いで買ったダリの画集を引き抜いて『欲望の謎、母よ、母よ、母よ』のページを開きました。
アクリルブロックには昨日模写した『欲望の謎、母よ、母よ、母よ』の下絵が4Bの鉛筆で描いてあります。
今日はそこに色を置いていくつもりなのです。
中学校の図書室でたまたまダリの絵を見て虜になってしまったのは半年ほど前のことでした。
柔らかい時計の絵なんかは前にどこかで見たことがあった気がしましたが、それがダリというシュールレアリスムの画家の『記憶の固執』という絵であるということは、その時初めて知りました。
親に連れられて美術館に行ったり、家にあるゴッホやセザンヌやピカソやジャスパー・ジョーンズなんかの画集を見たことはありましたが、ダリの絵ほど惹かれたことはありませんでした。
学校の図書室にあったダリの画集だけでは飽き足らず、市立図書館や隣の駅の大きな本屋さんでダリの画集を探して眺めたりしました。
駅向こうの古本屋さんで現代世界美術全集の『ダリ』とダリの著作『ナルシスの変貌―ダリ芸術論集』を見つけたのはひと月ほど前でした。
どうしても欲しかったのですが二冊買うとお小遣いの2か月分になってしまうのでなかなか手が出せませんでした。
芸術論集の方をパラパラめくって立ち読みした限りでは、ぶっちゃけ内容は全く頭に入ってきませんでした。
例えば冒頭の『腐った驢馬』の章の出だしはこんな感じです。
ある種の倫理的傾向をもつ活動は、混乱を秩序立てようとする激烈に偏執狂的な意思によって引き起こされるだろう。(『ナルシスの変貌―ダリ芸術論集』小海永二・佐藤東洋麿訳 国文社刊より)
何度読んでも「はっ???」です。
ページはシミだらけだし、小さな羽虫みたいのが挟まっていたりして、「ゲー!」なのですが、黄色い外箱が素敵なのと、本の表紙にダリのサインが金箔で捺されていてその伸びやかな筆遣いが格好良いので、こっちもどうしても欲しくなりました。
毎日古本屋に通って、とうとう取っておいたお年玉を崩す決心がついたのは一週間後のことでした。
『欲望の謎、母よ、母よ、母よ』は茫漠とした地平に蜂の巣を扁平にしたような形の黄色い物体が浮かんでいる絵です。
黄色い扁平蜂の巣にはゾウリムシみたいな形の凹みが沢山あって、その凹みの平らな底に〈私の母〉という単語、おそらくスペイン語、が書かれています。
ネルはまず黄色い扁平蜂の巣をカドミウムイエローディープで塗り始めました。
補色のバイオレットを混ぜて影の部分にグラデーションを付けると、ゾウリムシ型凹みの立体感が結構再現されました。
無心で描き続け、ふと時計を見るともう7時です。描き始めてから3時間も経っているではありませんか。
《えっ、マジ? どう考えても1時間位しか経っていないのに。
私、大丈夫? 残りの2時間はどうしちゃったのかしら?
もしかしてパラレルワールドに行って来ちゃったとか?
さっき描きながら、ダリが少年時代を過ごしたカダケスの入り江のことを夢想していたけど、行ってみたいという気持ちが強すぎて、飛んで行っちゃったのかも。
そっちの世界のことは全然覚えていないけど。
何か今のこの部屋の空気の肌触りも、前と違う気がする。
パラレルワールドから戻ってきて、前とは違うパラレルワールドに入り込んじゃったのかしら?
大変! ちょっと考え過ぎかな?
それにしても、行きたいと強く念じたらどこでも行けるんだったらどんなに良いだろう。
お母さんは今、どこにいるのかな?
この前お母さんから来た絵葉書はアラスカのアンカレッジからだった。
ザトウクジラが空高くブリーチングしている写真の絵葉書。
アンカレッジのお客さんはめちゃノリが良いって書いてあったな。
盛り上がってライブ会場にオーロラが掛かったって書いてあったけど、まさかね。
でも、お母さんには見えたのかも。オーロラが見える位だから元気にしているんだろうな。
早く帰って来てくれないかな。
お母さんはバンドやっていた若い頃は結構尖っていたらしいけど、平凡な公務員だったお父さんと出会って、私を妊娠、結婚。
いや、結婚、妊娠だったかな?
バンドからはすっぱり足を洗って専業主婦に収まった。
またバンドをやりたかったけど、妹のココも生まれてそれどころではなくなったみたい。
でも、家族でバンドを組むのが夢で、私にはドラム、ココにはキーボードを習わせた。
お父さんは楽器なんて全く未経験だったけど、ベースの担当になった。
仕事から帰ってきたお父さんにお母さんはベースの教本を押し付けて「今日は〇〇ページを完璧にしておいてね」なんて言ってたけど、お父さん全然上手くならなかったな。
夜中まで泣きべそかきながら練習してたみたいだけどね。
私とココはこう言っちゃなんだけど、メキメキ上達したのに。
私とココにはお母さんの血が流れているけど、お父さんには流れてないものな。
お母さんが若い頃やっていたアイロンズっていうロックバンドは、お母さんが抜けてからもずっと活動を続けていたけど、なんでもお母さんが抜けた後に入ったギタリスト兼ボーカルの男の人が一年前にバンドリーダーの闘四郎の恋人に手を出してバンドを追放されたらしい。
それで、お母さんに戻って来てくれないかという声が掛かったんだ。
でも、この間電話していたお父さんの話では、「駆け落ち」みたいなこと言ってた。
「離婚」なんて言葉も出てた。
どうなっているんだろう?
「離婚」なんて絶対嫌だよ。
お母さん、早く帰って来て。
そして家族でバンドやろうよ。お母さん、お願い》
ネルがそんなことを考えていた時でした。
妹のココが部屋に入って来ました。
「お姉ちゃん、晩御飯食べようよ」
お父さんが出勤前に作っておいてくれた夕食が冷蔵庫に入っているはずです。
毎日それを温めて姉妹二人で夕食を取るのです。
お父さんが帰ってくるのはたぶん9時くらい。
姉妹二人きりの夕食は何か寂しいです。
幸せというものが遠くにあるような気持になってしまいます。
ネルのお腹の中で山鳩がクーと鳴きました。
「うん、食べよう。お腹空いちゃった」
ネルは妹に向かって精一杯明るく答えました。
【つづく】




