(2)ギンダラの西京漬け、ギリでかわして5メートル、そして「ほっぽらかし」
ネルの住んでいるマンションの裏の空き地での出来事です。
すずめの子のすず子が巣から落ちました。
5羽いた他の兄弟姉妹たちが皆次々と巣を飛び立って行ったので、自分も思い切って飛んでみたのでしたが、羽根にはまだ十分に力がなく、巣の掛かっていたキンモクセイから1メートルほど先の水たまりの中にボチャッと落ちたのです。
すず子は空中を飛んでいるつもりだったのに、水の中でジタバタしている自分を発見して大層驚きました。
泥水が目や鼻や口の中に入って来て苦しいし、左の羽根の付け根をぶつけていて痛みます。
幸い水たまりの水深は2センチ程しかなかったので溺れずに済みました。
無我夢中でもがいているとキンモクセイの根元の少し土が盛り上がった所に這い上がることが出来ました。
「危なかったー、死ぬかと思った」すず子はほうほうの体で仰向けに横たわりました。
見上げるとキンモクセイの枝の密集しているずっと上の方にさっきまでいた巣が見えました。
巣には青いビニールの紐が枯草や小枝に混じって縫い込まれていて、その先が垂れ下がって風に揺れていました。
すず子は巣の内側にも飛び出していた青いビニールの紐を突いて遊ぶのが好きでした。
トンと突くと青いビニールの紐は身体を軽く後ろに引きました。
トントンと突くと、まだ柔らかい嘴の先に押されて紐はトントンと後ろにのけぞりました。
トントトンと突くとトントトンとのけぞるし、トントントトンと突くとトントントトンとのけぞるのでした。
トンツクツートンツクトンツチーはトンツクツクトンツクトコツン。 青い紐は少しリズムを変えてすず子に応えました。
トントンツトント・トトトト・ントントにはチクツク・ンツンツ・エサキタヨ。
「えっ、今エサ来たよって言った?」 すず子は驚いて青いビニールの紐を凝視すると、紐は「トン」と言いました。
セッションに夢中になっているうちに、お母さんすずめがミミズを咥えて戻って来ていたのです。
他の5羽のひなたちは巣の入り口の穴からチューインガムみたいに首を伸ばして自分の頭より大きく口を開け、ピーピー鳴きながらエサをねだっています。
「しまった、出遅れちゃった」
すず子は慌てて兄弟たちの身体の間から頭を出そうとしましたが、足で蹴り返されたり、羽根で押さえ付けられたりして中々思うようにいきません。 でもこれは決して兄弟たちが意地悪だったからというのでは無いのです。 皆生きる為に必死なのです。
で、すず子だってやっぱり必死な訳ですから、根性で兄弟たちの間から頭を出しました。
そして、精一杯大きく口を開けました。
あまり大きく嘴を広げたものですから嘴は裏返ってそのまま自分の頭を飲み込んでしまいそうな位でした。
でも、もうお母さんの咥えていたミミズは兄弟たちにすっかり食べ尽くされてしまっていて跡形もありませんでした。 お母さんは悲しそうな目ですず子を見ると「また、すぐ取ってきますよ」と言って飛び立って行きました。
兄弟たちは満足して巣の中に引っ込み、あれだけ大騒ぎしていたさっきまでが嘘のように静かになりました。
薄暗くて狭い巣の中で、兄弟たちの温かい羽毛に包まれていると、お腹は空いていましたが大変心地が良いのでした。
それですず子はいつの間にかウトウトしてしまいました。
すると、頭の上でまたピーピーの大合唱が始まりました。 今度は一瞬で目を見開き、もがきにもがいて巣の外に頭を出しました。
お父さんすずめがミミズを咥えて戻って来ていました。
最後のひと切れが目の前にありました。
すず子は《あー、やっと食べられる》と思ってお父さんが口の中に差し入れてくれたミミズをパクリと食べました。
《やっぱりミミズは美味しいな》
すず子はモグモグしながら同時に幸せも噛みしめたのでした。
ところが、美味しいはずのミミズの味がしないのです。
それに、全然噛み応えがありません。まるで空気を噛んでいるようです。
それもそのはずです。イチロウ兄さんが一瞬の早業ですず子の閉じかけた口の中からミミズをかすめ取ったのです。
すず子が感じた幸せは、その瞬間には間違いのない事実でありましたが、幻でありました。
イチロウ兄さんは嘴に挟まれてグネグネ動いているミミズの切れ端を、イチ子姉さんの頭の上で《ほれ、ほれ、美味しそうだろ》という風にひらひらさせて自慢していました。
でも、すず子に睨まれると、あっという間に飲み込んで《おれ、知らんもーん》とばかりに涼しい顔をしています。
《マジ?》すず子は愕然としました。
「今度はもっと大きなミミズを取って来るよ」お父さんはそう言って飛んで行きました。
《きっとこれは逞しく生き抜くための試練なんだわ》すず子は涙目でそう思ったのでした。
キンモクセイの枝の間から見える空がどこまでも青く透き通っていました。
そんなこんなで、すず子はいつもひもじい思いをしていました。
さて、すずめの兄弟たちはしばらくするともう親と変わらない位大きくなりました。
でも、まだ羽根には茶色と黒と白の綺麗な模様は現れていませんでした。
ぼんやりした灰色っぽい羽根は、まだ空気を掴んで飛べるだけ十分に膨らんではいなくて身体つきはスリムでした。
兄弟たちは入れ替わり立ち替わり巣の入り口に出ては、ぎこちなく羽ばたいて飛ぶ練習をしていました。
すず子も真似をしてみましたが《私はいつまでもこの温かい巣の中にいたいな》というのが本音でした。
その時です。
「カー、カー」世にも恐ろしい鳴き声が聞こえてきました。
すずめの兄弟たち巣の中でブルブルと震えて身を寄せ合いました。
そうです、それは天敵のカラスでした。
カラスも子育てをしている最中で、必死でエサを探しているところでした。
その日はちょうど可燃ごみの日だったので、カラスはマンションのごみ置き場に置いてあった市指定のごみ袋を突いて穴を開け、中のギンダラの西京漬けの残りを頬張っていたところ、あまり髪の毛がフサフサしているとは云えない、言い換えると髪の毛のあまりフサフサしていない管理人に見つかって、猛ダッシュで追い掛けられるわ、箒を投げ付けられるわで散々な目に合っていたのでした。
すずめの巣はキンモクセイの枝が茂った所に外からは見えない様に作られていましたが、お母さんすずめや、お父さんすずめがエサを咥えて戻って来るのをカラスは目敏く見ていました。
「カー、カー」
カラスの声はどんどん近づいて来ます。
イチロウ兄さんは兄弟たちを巣の奥に押し込めると、カラスの嘴が入ってきたら戦うつもりで巣の入り口を見張っています。
カラスの羽根が空を切る音がすぐ近くで聞こえました。すず子は縮み上がって堅く目を閉じました。
その時です。
エサを咥えて戻って来たお母さんすずめが、カラスの背中に体当たりをしました。
そしてそのまま地面にバタリと落ちました。
お母さんは折れ曲がった羽根を広げてジタバタしています。
もう少しで巣のありかを見つけそうになっていたカラスはお母さんすずめに気を取られました。
怪我をしている様なので捕まえるのは簡単そうです。
カラスは巣の中にいるであろうすずめのひなのことはすっかり忘れて、お母さんすずめに飛び付きました。
お母さんすずめ危ない!
でも、お母さんはギリで身をかわすと羽ばたいて5メートル程先にこけて着地しました。
「えーい、こしゃくな」
カラスはジャンプするとたったの2歩でお母さんの所に到達しました。
お母さんはまたギリでかわして5メートル先へ。
「えーい、こしゃくな」ジャンプ2歩。
ギリでかわして5メートル。
「えーい、こしゃくな」ジャンプ2歩。
ギリでかわして5メートル。
それを繰り返しているうちにお母さんすずめとカラスは巣から随分離れた所までやってきました。
すると怪我をしているはずのお母さんすずめが真っ直ぐに空に向かって翔け上がり、あっという間に見えなくなってしまったのです。
そうです。これは巣からカラスを遠ざける為のお母さんの陽動作戦だったのです。
お母さんの機転のおかげで、すず子たちはカラスの襲撃から無事に守られたのでした。
巣の中ではイチロウ兄さんが、弟、妹たちを整列させて演説をしています。
「さすがのカラスも、オレ様が巣の入り口を見張っているのに恐れをなして退散したか。もし、巣の中に頭を突っ込んできたらオレの鋭い嘴でズバババーと切り刻んでやるところだったのにな。みんな、オレのおかげで助かって良かったね。いやー、長男っていうのは色々大変なんすよね。だから人一倍お腹が空くのも無理ないね」
兄弟たちは巣の外でお母さんが取った行動を知らなかったので、イチロウ兄さんが命の恩人だと思っていました。
それで、いつ果てるとも知れないイチロウ兄さんの半分以上自慢話の演説を大人しく聞き入っているのでした。
巣の外では能天気なシジュウカラが元気よく「ツピー、ツピー、ツピー」と囀っていました。
平和な日常がまた戻ってきました。
そしてまた何日か過ぎました。長男のイチロウは今ではずいぶん力強く羽ばたくことが出来るようになりました。
巣の隣りの枝にぴょんと飛び移ると、巣から顔を覗かせているすず子たちを上から目線で見廻しました。
そんなイチロウを見てお父さんすずめが言いました。
「お前はもう十分に飛べるだけの力を持っているよ。思い切って飛んでごらん」。
イチロウは枝の上で力一杯羽ばたいてみました。身体が少し浮いたように思えました。
しかしその時、真下の黒い地面が目に入りました。とたんに足がすくみました。
「無理だよ。ボク出来ないよ」
身体はお父さんと変わらないくらい大きく、茶色と黒と白の模様もくっきりと浮かび上がっていて、見た目はもうすっかり大人なのに、言うことは子供なので、すず子はクスっと笑ってしまいました。
それに気付いたイチロウは末っ子のすず子に笑われたことが悔しくて思わず叫びました。
「よし、オレやっぱり飛ぶよ。見ていてごらん」
イチロウは羽根を猛スピードで羽ばたかせ始めました。
枝を蹴って身体を宙に投げ出しさえすれば空を飛ぶことが出来そうでした。
でも、枝を掴んでいる足の爪に力が入るばかりで、どうしても蹴り出すことが出来ません。
その時、お母さんすずめが10メートルほど先のハナミズキの枝から叫びました。
「イチロウ、ほら、お母さんだけを真っ直ぐ見てここまで飛んで来てごらん。イチロウだったら絶対に出来ますよ」
見るとお母さんはまるまると太った美味しそうなミミズを咥えています。
イチロウのお腹がグーとなりました。
《怖い》という気持ちが《食べたい》という気持ちに押しやられました。
お腹と背中がくっつく位空腹だったのです。
実はこれはお母さんの作戦でした。
お母さんは今日の為に、昨日からイチロウに与えるエサをわざと少なくしていたのです。
イチロウはミミズに目が眩んで思わず枝を蹴りました。
しかし、ミミズを食べることばかり考えていたので、羽ばたくことを忘れていました。
「イチロウ兄さん! 危ない!」
すず子が叫びました。イチロウは落下しながら声のする方に振り返りました。
「えっ、何? 危ないって。お母さんのミミズはオレが貰うからね。外野はちょっと黙ってて」
「いえ、ミミズはイチロウ兄さんが独り占めしていいのよ。私が言っているのは羽ばたかないと地面に激突して大怪我、打ち所が悪ければ昇天してしまうこともあるってことなの」
「あっ、そういうこと。それならそうと最初から言ってくれれば良いのに。よしっ! 分かった! オレは今、羽ばたこうと思う」
そう言うとイチロウは力強く羽ばたき始めました。
そして何とかお母さんのいるハナミズキの枝まで到達しました。
えっ、そんなにのんきに会話している間にとっくに地面に激突してるんじゃないの?
そう思う注意力の高い読者もいるかと思います。
確かに不思議と言えば不思議です。
「イチロウ、よくやったわよ」
お母さんはイチロウのノドの黒い部分を優しく撫でてくれました。
巣から顔を出して見守っていた兄弟姉妹たちもやんやの喝采です。
「イチロウ、がんばったからご褒美をあげるわ」
お母さんはイチロウの口の中にまるまると太ったミミズを押し込みました。
イチロウがミミズをモグモグと噛み締めるとジューシーなミミズ・エキスが口の中一杯に広がり、同時に初飛行の達成感が胸一杯に広がったのでした。
それからまた数日が経ちました。
照り付ける太陽の光がキンモクセイの枝を通して巣の中に網目模様を作っていました。
網目模様は風が吹くたびに広がったり縮んだりしています。
ウトウトしていたすず子は薄目を開けてがらんとした巣の中を見廻しました。
イチロウ兄さんが巣立ちをした次の日、イチロウ兄さんの次の日に卵から孵ったイチ子姉さんが巣から飛び立っていきました。
その次の日はジロウ兄さんでした。
兄弟は一日ごとに1羽1羽少なくなっていきました。
そして今朝はすず子のすぐ上のサブザエモン宗近兄さんが羽ばたいていきました。
残ったのは、すず子だけです。明日はとうとう自分が飛び立つ番です。
それを考えるとまるで胸に大きな鉛の塊を詰め込まれたような鬱屈した気分になります。
でも、そんなグズグズした気分でいたところで明日は確実に来てしまいます。
明日さんが「今日はちょっとお邪魔するのは遠慮しときますわ」などとすず子に忖度してくれることなど期待出来ません。
実はすず子は昨日も今日も怖い夢を見ました。
巣を飛び立ったは良いが、飛べなくて真っ逆さまに地面に墜落してゆく夢です。
夢の事を思い出してすず子は身体を震わせました。
その身体の震えがちょうど左の羽根に触れていた青いビニールの紐に伝わって、その先っぽを細かく震わせました。
すず子は青いビニールの紐を突いて遊んだ遠い幼い頃のことを思い出し、口角を上げて笑顔になりました。
ちなみにすずめが卵から孵って巣立ちするまでの期間は14日から18日位なので「遠い幼い頃」というのは大袈裟さなのではないか? という意見もあるか思いますが、たったそれだけ前のことでもすず子にとってみたら遠い昔なのです。
だって人間の一生だって、宇宙の一生に比べたらほんの一瞬にしか過ぎないのですよ。
何でも人間を基準に考えるというのは如何なものでしょうか?
すず子は口角を上げるとマイナスのスパイラルに入っていた気分がプラスに転じるということに気が付きました。
すず子は無心に青いビニールの紐を突きました。
トン・トン・ントトト・ント・ント・ン・トトト。
リズムがまるで泉の様に身体の奥から溢れ出てきました。
そして次の日のことだったのです。すず子が巣から落ちたのは。
「すずめの子のすず子が巣から落ちました」
タタッ・タタッ・タッ。「す」と「ず」の連打で始まるこのお話の第2章の2行目を覚えていますか?
そうです、ここまで来てこのお話はやっとこの部分に繋がりました。
このお話のこれから先の続きは、第2章の2行目から先に書いてあります。
ですから、すず子はこの後どうなるんだろうな? と興味を持たれた方は、是非もう一度そこに戻ってみてください。
どうしますか? もう一度そこから読んでみますか?
もちろんあなたが「いいえ、結構です」と答えることは分かっていました。
そりゃそうですよね。
また戻って読み直したって、お話はまたここに戻って来るだけですから。グルグルグルグル永遠に回り続けるだけです。
(つまりニーチェの言うところの「永劫回帰」です。いや、違うかもしれません)
そんなことをしていたら、そのうち溶けてバターになっちゃいます。
でも、今、このお話は自分のしっぽを飲み込んでしまったのです。
まるで『星の王子さま』に出てくるへびの絵のように。
さて、この堂々巡りの状況をどうやったら打開出来るでしょうか?
にっちもさっちもいかないこの閉塞状況から脱出する方策などあるのでしょうか?
ここは「どんな困難でも解決する最強のメソッド」を発動するしかないのでしょうか?
そうです。
「ほっぽらかし」の発動です。
いくら考えても解決策が見当たらない時、
あちらを立てればこちらが立たずの|八方塞がりの時、
万策尽きてもう夜逃げするしかないという時、
そんな時こそ、そうです、
「ほっぽらかし」の出番なのです。
つまり問題を一旦視界の外に置いてみるということです。
では、すず子のお話を「ほっぽらかし」にしてみましょう。
【つづく】




