(16)『はじまりのない物語』、メロスなら行く、そして涙
【(前章より)さて、読者の皆様に、ここで一つご提案があります。
今まで誰にも読んで貰うことの無かった管理人の書き掛けの小説(この小説は管理室の前を通るネルに読んで貰ったこともありませんでした)を最後に読んであげませんか?
それが管理人には何より嬉しいはずですから。
次に掲げるのは、管理人が書いた書き掛けの小説『はじまりのない物語』の第一章になります。】
『はじまりのない物語』
菅理人
第一章 物語のはじまり
狭い。暗い。黴臭い。身動き一つ出来やしない。そして何より退屈だ。
こんなことならいっそ死んでしまおうか?
そんな良からぬ考えさえ浮かんでこようというものだ。
それで、真上にある丸いスクリーン――それは中央に向かって緩やかに凹んでいる――に断続的に投影される映像を眺めて退屈を紛らわせようと試みる。
映像には見覚えがある。それもそのはず。それは微妙に歪められた過去の記憶なのだから。
この直径7寸の白い陶製の壺の中で出来ることといったらそれ位しかない。
時々、ぼくの所在している壺の隣にいるはずの父や母、祖父母たち――彼等もまた白い陶製の壺の住人だ――と交感することを試みるが、彼らは死んだ様に黙ったままだ。
更にその先の区画の顔も見たことの無い隣人たちと、それぞれの過去の記憶について語り合ってみたいと思うこともあるが、それもまた叶わぬ夢である。
それでまた、ぼくは目の前の湾曲した白いスクリーンに繰り返し投影される古い記憶の断片をなぞることになる。
その映像を見た記憶は、元の記憶の上にトレーシングペーパーのように薄く重なる。
その様にして少しづつデフォルメされた記憶が上書きされてゆく。
果たして元の記憶がどうであったのかなど知る由もない。
この、白い陶製の壺の中にびっしり詰め込まれた骨の破片が自分だとするなら――燃え残った骨の破片がギシギシと壺に押し込まれる音が今でも聞こえてくるようだ――ぼくは、火葬場の職員が白い手袋を嵌めた手で恭しく一番上に置いた、仏像の形をしているという喉仏の骨一つ自分の力で動かすことが出来ないのだ。
もし喉仏の骨を震わせて唸り声など上げることが出来たなら、通り掛かったまだフレッシュな肉を携えて生きている人々を驚かせてやれるのに。
ところで、いったい記憶というものはどこまで遡ることが出来るのだろうか?
勿論、自分という存在の発生の瞬間、すなわち、父親から数時間前に放出された3億個の精子の中で一番活発で、卵子に向かって猪突猛進する気質のより著しかったただ1個の精子と、精子をおびき寄せるフェロモンを放出しながらも、卵子に到達した精鋭・精子達が卵子の中に入ろうとすると、その硬い外殻で侵入を阻むという二律背反を体現しながら、それでも何とか外殻を突き破ろうと奮闘している精子達が「えっ、俺ってもしかして拒まれてる?」という疑心暗鬼に囚われ始めると、吟味したその中の一つを「最初からあなたのことしか見ていなかったのよ」的に受け入れ、その精子をして「君の為なら俺は死ねる!」とまで言わしめる政治的駆け引き能力を持った母親の卵子が、合体した瞬間のことは良く覚えている。
ただそこにある、という感覚。
その発生の瞬間に母親由来の負けず嫌いと父親由来の無鉄砲、あるいは母親由来の性欲過多と父親由来の精力不足という形質を獲得したぼくは、満を持していよいよこの世に生まれ出ようという時に、つまり母親がぼくを出産する時、羊水の中で暇を持て余して弄んでいたへその緒が首に巻き付いて死に掛けたのだった。
しかし、赤十字病院産婦人科医の迅速かつ適切な処置によって、ぼくは一命を取り止めることとなった。
生れいずる直前に死は物凄い勢いでやって来て、肌をかすめて去って行った。
そして、へその緒の呪縛から解き放たれたぼくは人生の荒波に向けて出帆した。
新生児ベッドに敷かれた真っ白なシーツは、風を一杯に張らんだ帆の様に見えなくもない。
ぼくはトラッカーズ・ヒッチでもやわれたロープを鼻歌混じりに解き、遥か遠い水平線を目指した。
頬を打つ向かい風に対してぎりぎり45度まで舳先を向け、クロースホールドで帆船を走らせた。
何度もタッキングを繰り返して、航跡はジグザグを極めていたけれど、ぼくは確かにどこかを目指していた。
平行線の交わる、永遠の先へ。
舳先が切り裂く波の飛沫が顔を打ち、しばしば塩辛かったのではあったけれど。
それにしても、声を出せないというのはなんとももどかしいものだ。
今まさに、目の前のスクリーン――それは取りも直さずこの白い陶製の壺の蓋の内側なのだが、それを言ってしまっては身も蓋もない――に映し出されているのは、父や母から聞いた話の記憶の断片を継ぎ接ぎしたものに違いないのに、その輪郭がぼやけ、陰影が不鮮明だからと云って、細部についてすぐ隣にいるはずの父や母に声を掛けて問うことさえできない。
如何せん、若干の、いや多くの部分を、はたまたほとんど全てを想像で補っていたとしても、他になす術がないのであるから、如何ともし難い。
もっとも、壺の住人たちが、それぞれ勝手にしゃべり始めたとしたら、地上の連中はたまったものではないだろう。ただでさえ暇を持て余している彼ら、いや我々である、おしゃべりの奔流は地下に安置されている壺から溢れ出し、地上の世界を覆いつくす。
さて、今、スクリーンに映し出されているのは精子と卵子の出会いの前年の情景だ。
ぼくの母親の関口瑞江はその年に大学を卒業し出版社に入社した新人編集者だった。
その日瑞江は担当作家の自宅で赤入れしたゲラを受け取ると、出版社に戻る途中でD印刷に立ち寄った。
先輩の編集者に単行本の表紙カバーの試し刷りを取りに行って欲しいと頼まれていたのだ。
D印刷の最寄りの国電の駅に降りた時、レールを捻じ曲げて作った梁からぶら下がっているホームの丸い時計の針は正午を指していた。
それでD印刷に行く前に昼食を取ることにした。
D印刷の近くの古い喫茶店で海老カレーを食べることが瑞江の密かな楽しみだった。
駅から喫茶店に向けて大通りの歩道を歩いていると、8月の太陽が真上から照り付けてきた。
ショートカットの瑞江のうなじに汗が吹き出し、ブラウスの背中は汗を吸って濡れた。
白いブラジャーの肩紐が透けている。
瑞江は紺色のタイトスカートのポケットからレースのハンカチを取り出して真っ黒に日焼けした顔の汗を何度も拭った。
化粧など殆どしたことのない瑞江はファンデーションが落ちるのを気にする必要もないので、練習の合間のテニス部の中学生みたいにごしごしと顔を擦った。
中学生と云えば小柄で童顔の瑞江はよく中学生に間違われた。
後に、ぼくを生んでからも、新聞の集金人に「お母さんいる?」と言われるくらい幼く見えるのだ。
それはさておき、大通りを汗だくで歩いていた瑞江は蕎麦屋の角を曲がり喫茶店のある路地に入った。
蕎麦屋といえば瑞江の父親の関口十一畳(「十一」は11人目の子なので付けられた。「畳」は……ちょっと何言ってるのか分からないです)は豊島区雑司ヶ谷3丁目の鬼子母神の傍で蕎麦屋を営んでおり、大きな海老の天麩羅を二つ乗せた「鬼子母神そば」を看板メニューとしていた。
それはさておき、路地の日陰に入ってほっとした瑞江が何気なく路地の突き当たりに目をやると、そこにあるべき喫茶店が無かった。
無かったと言っては語弊があるが、有ると言っては語弊がある。
すなわち喫茶店は、黒こげの柱と、瓦が崩れ落ちて大きく穴の開いた屋根だけを残して焼失していたのであった。
「海老カレーが……」食べる気満々だった瑞江が、深い失望感に襲われ、手に持っていたハンカチを強く握りしめると、ハンカチに滲み込んでいた汗がぽたぽたと落ち、それはひと夏の思い出のように儚くアスファルトに吸い込まれ、消えた。
ふと横を見るとそこには「蟹カレーの店」という看板の掛かった店があった。
瑞江はふらふらと「蟹カレーの店」に入った。
カウンターに一つだけ席が空いていたので、そこに行って座り、蟹カレーとアイスコーヒーを注文した。
「蟹カレー」と言う時、その発声は瑞江に出っ歯ぎみの前歯と、上下左右の奥歯の銀の詰め物を全部さらけ出すことを強要した。
カウンターの隣の席で一人の男性が原稿用紙を広げていた。
気になってこっそり覗くと『だいこんの話』という表題が目に入った。
原稿用紙に見覚えがあった。
薄緑色の罫線の入っている自社の原稿用紙だった。
左下に小さく社名も入っている。
驚いて男の顔を見た。
男も丁度、瑞江の方に顔を向けた所だった。
「奥屋敷さん!」
「関口さん!」二人は同時に声を上げた。
奥屋敷さとる(後に瑞江に精子を提供した張本人であり取りも直さずぼくの父親となる人物である)は会社で瑞江と机を並べる先輩の編集者であった。
(先輩とは云え、瑞江が新卒の正社員であったのに対し、奥屋敷さとるはこの時点ではまだ中途採用の嘱託社員だった。入社は奥屋敷の方が3年早く、歳は瑞江の11歳上である)
「あー、びっくりした」瑞江は胸を押さえて言った。
「いやー、こっちもびっくりしたよ。関口さんもD印刷?」奥屋敷は原稿用紙を慌てて鞄に仕舞い込みながら言った。
「はい、この後」
「そっか、僕はさっき行って来たところ」
「その原稿はどなたのですか?」瑞江はてっきり誰か作家の原稿だと思ったのだ。
「いや、これは、その……」
「『だいこんの話』。私、見ちゃいました」
「いや、参ったな。実はこれ自分で書いているやつなんだよ。誰にも言わないでよ」
「奥屋敷さん、小説書いているんですか?」
「小説って程でも無いんだけどね」
「エッセイですか?」
「まあその中間位の感じかな」
「凄いですね。私も本当は文章を書きたいんですよ」
「小説?」
「いえ、雑誌に記事を書きたいんです。
今は単行本の編集の配属ですけど、ゆくゆくは雑誌の編集をやりたいんです。
それで、社会的に自立した女性を取材して記事に書くのが夢なんです」
瑞江は唐突に「社会的に自立した女性」などという言葉を発してしまった自分に驚いた。
「社会的に自立か……」
奥屋敷さとるはその言葉を繰り返してみたが、まるで異国の言葉のように、その意味する所の物をイメージすることが出来なかった。
34歳になる今でこそ嘱託社員として働いている奥屋敷だが、大学を卒業して30歳を過ぎるまで定職に就いたことは無かった。
それまでは小説家になりたくてブラブラしていた。
親の脛を齧ることに何の抵抗も無かった奥屋敷には「社会的に自立」などという言葉は、頭の端に過ったことさえ無かったのだった。
瑞江は更に続ける。
「女性はもっと社会の中で活躍出来ると思います。
そうあるべきです。
だって、女性が男性に引けを取っている所なんて少しも無いんですから」
小学校、中学校、高等学校を通じて運動でも、勉強でも少なくとも通信簿の上で男子に負けたことのなかった瑞江がそのような信念を持つに至ったのは必然であったのかもしれない。(因みに大学は女子大であったので男性と張り合うこともなかった)
「女性は男性に養って貰って、家事と子育てだけしてればいいなんて時代は終わったと思います。
そして私自身、自立して生きたいんです。
だから私、漱鴎社に入ったんです」
瑞江はそこまで言ってしまうと、赤い蟹がスーパーリアリズムで描かれたオレンジ色のエプロンを付けた若いウェイトレスの置いて行ったコップの水を一息に飲み干した。
そして、しばしの内省。
――自立した女性になりたいなんて話しは今まで誰にも言ったことが無かったのに。
別に面倒臭い女と思われるのが嫌だったからじゃない。
自分の大切に思っていることを否定されるのが怖かったからだ。
自分をさらけ出さなければ傷つくことも無い。
他人が近づき過ぎないように、他人との距離を一ミリ単位で測りながら私は生きて来たんだ。
それなのに何でこんなことを言ってしまったんだろう?――
瑞江は奥屋敷の顔を改めて見直した。
そこにその答えが隠されているとでも言うように一つ一つのパーツを点検した。
癖があって、あちこちに跳ね上がり、まとまりのない髪。
大きく秀でた額。
間の離れたへの字形の濃い眉。
黒縁眼鏡のいわゆる牛乳瓶の底のような分厚いレンズの奥の少し垂れ下がった大きな目。
その目を縁どる無駄に長いまつ毛。
顔の真ん中で一番存在感を放っている鷲鼻。
薄い唇。
エラの張った顎。
まじまじと見つめる瑞江に気付いた奥屋敷が眉を上げて「ん?」というように瑞江を見返す。
奥屋敷の目の茶色掛かった虹彩、そしてその真ん中の黒い瞳孔が瑞江のすぐ目の前にある。
それは山奥で空を映してただ佇んでいる湖のようだった。
「これだ」瑞江はそう思った。
「この瞳のせいだ」
目の前の物を受け入れるという訳でも無い、勿論否定もしない、ただそこにある物を映しているだけの瞳。
それで私はあんなことを言ってしまったのだ。
瑞江は何か難しい因数分解でも解いたような気分になり満足した。
「ところで『だいこんの話し』って、どんな話なんですか?」瑞江は話題を変えようとして言った。
「聞きたい?」
「はい、是非」
「うん、ある男が志賀高原にスキーに行く話なんだけどね」
奥屋敷はカウンターの上に置いた両手の指を、ピアノでも弾くようにパタパタと細かく動かしながら言った。
「志賀高原?」
「そう、志賀高原。それで麓の湯田中駅からバスでスキー場に向かうのだけどね。
ところで、湯田中って知ってる?
長野駅から長野電鉄に乗って終点なんだけど」
「いえ、知らないです」
「そう? それで、その湯田中から乗ったバスが大雪で途中で止まっちゃうんだよ。
こんな話し聞きたい?」
「はい」
オレンジ色のエプロンのウェイトレスが来て瑞江の前に蟹カレーを置き、奥屋敷の食べ終わった蟹カレーの皿を下げた。
「道に積もった雪が深くて山の途中の丸池っていうバス停より先に進めなくなっちゃうの。
男は終点の熊の湯まで行きたいんだけど、しょうがないからそこで降りて、目の前の土産物屋に入って行くんだ。
バスの運転手も他のバスの客も皆そこにぞろぞろ入って行くんだね。
雪はどんどん降って来るし、バス停の近くにはそこしか開いているところは無かったからね。
運転手は土産物屋の電話を借りてバス会社の人と相談している。
除雪車が来るのを待っていれば先に進めるのか、それともこのまま引き返した方がいいのかというようなことをね。
夕暮れの迫って来る中で他の客は、バスが湯田中に戻るんだったら自分も戻ろうか、それとも折角ここまで来たんだから、この近くに宿が空いてればそこに泊まろうか、でも、待ってれば除雪車が来るんじゃないか、なんて事をぼそぼそ話している訳。
その間も雪はどんどん降ってきて、店がこのまま雪の中にすっぽり埋まってしまうんではないかと思われる位なんだよ。
バス会社の人と電話で相談していたバスの運転手が言うには、湯田中まで引き返すにしても、途中の積雪が深くて立ち往生してしまう危険があると言うんだな。
だから除雪車が除雪してからでないと引き返すことも出来ないと言うんだ。
そこから一歩も動けなくなってしまったんだよ。
ところで、土産物屋の店の真ん中にはストーブがあって、その上におでんの鍋が掛かっていたんだ。
土産物屋ではおでんも出していたんだよ。
壁にはお品書きも貼ってある。『ちくわ』とか『はんぺん』とか『タコ』とか」
「タコ、ですか?」
「うん、タコ」
「何でおでんにタコなんて入ってるんですか?」
「いや、おでんだからタコは入ってるでしょう」
「いや、いや、おでんにタコは無いですって」
「そう? 僕は小さい頃からおでんのタコ好きだったけどね。
うちの実家は京都の錦の傍でさ、子供の頃お小遣い貰うと、銅貨を握り締めて錦のおでん屋さんに良く行ったものだったな。
買い食いは禁止だったんだけどね。
まあ、とにかく、皆はおでん鍋の周りで相談していた訳なんだね。
不安を抱えてね。
で、男はその時、背負っていたリュックの中から、大きなだいこんを一本取り出したんだ。
それで、お店の人に包丁を借りて、器用に大根を切り、皮を剥き、それをおでんの鍋に入れたんだ。
そしてそれを皆で食べたって話しなんだ」
「へー、それで皆はどうなったんですか?」
「話はここまでなんだよ」
奥屋敷は困ったように言った。
「そうなんですね。でも実際はどうなったんです? 奥屋敷さんはスキー場に行けたんですか?」
「いや、これ僕の実話って訳じゃない無いんだけど、って言うか、まあ、実話でもあるんだけど、実際は丸池から湯田中までが除雪されたんで、バスが湯田中まで引き返すことになって、皆それに乗って戻ったんだけどね。
僕は湯田中で一泊して、丸池から先も除雪された次の日、熊の湯まで行ったんだよ」
「そうなんですね。そのことは書かないんですか?」
「書いた方が良いかな?」
「はい、そこの所が凄く気になります。
あと、どうして奥屋敷さんは巨根、じゃなかった大根なんか持っていたんですか?」
「それは、書かない方が面白いかなって思うんだけど」
「でも、実際はどうして?」
「大学のヒュッテが熊の湯にあってね、卒業してからも毎年滑りに行っていたんだけど、そこに手土産として持って行ったんだ。一か月も世話になるからね」
「そうだったんですか。面白い話ですね」
奥屋敷の所にホットコーヒーが運ばれてきた。
奥屋敷は書き掛けの小説の事を話してしまったことを後悔した。
瑞江だったら、この話しの面白さを分かってくれると期待して話し始めたのだったが、それは無理だったようだ。
期待した分、がっかりして気持ちが萎んでいった。
瑞江が蟹カレーに取り掛かり始めた。
ほぐれた蟹の入ったカレーのルーをスプーンでライスに絡め、脇目も振らずにせっせと口に運んでいる。
3口に1回福神漬けを口に放り込むのが瑞江のスタイルのようだった。
奥屋敷はホットコーヒーを啜りながら瑞江の身体を横目でずけずけと見た。
ブラウスの袖から出た筋肉質の二の腕、はち切れんばかりの胸の膨らみ、肉付きの良いヒップ、カウンターの下で、ずり上がった紺のタイトスカートからはみ出ているむちむちした太腿。
溌溂とした気力の漲る瑞江の身体に奥屋敷さとるはムクムクと、いやムラムラとしない訳にはいかなかった。
と、『はじまりのない物語』の第1章はここまでになります。
読んで頂きありがとうございました。
これで管理人も、もう思い残すことはないでしょう。
それでは大蛇の食道の中に話を戻しましょう。
泉で水を飲んでいた管理人はまだ溶け切ってしまっていないでしょうか?
「早くこの蛇玉を持ってオロチの口から外に出なければ。
それしかこのオロチを滅ぼす方法はないのだ」
管理人はそう言って自分を奮い立たせようとしましたが、身体は中々言う事を聞きません。
「もう、どうでもいいかな。
このままここで安らかにじっとしていたいな。
どうせこんなに身体が溶けてしまってはもう無理だろうし」
管理人は泉の脇にぐったりと身体を横たえました。
その時です。
「メロスなら行く」
どこからか声が響いてきました。
管理人は一瞬でも高床式少女(仮)を見捨てようとした自分を恥じました。
また、力が漲ってきました。
管理人は再び食道を出口の方へ向かって進み始めました。
高床式少女(仮)のことだけを思いながら。
しかし、もう身体はほぼ溶けて無くなっていました。
「ちくしょう!」
管理人は最後の力を振り絞って、残っていた頭でオロチの食道の内壁に頭突きを喰らわしました。
するとどうでしょう。
「ぎゅるぎゅるぎゅる」という爆音と共に頭と蛇玉が物凄い勢いで流されて行ったのです。
「ぶりぶりぶりぶり」轟音が外で大蛇を見守っていた村人たちの耳に響きました。
そして、オロチが大量の大便をひりだしたのです。
猛烈な悪臭に村人たちは鼻を摘まみました。
しかしその大便の中に虹色に輝く蛇玉があったのです。
「蛇玉じゃ! 管理人様が蛇玉を持って帰って来てくれたぞ!」村の長老が叫びました。
大蛇の巨大な身体が「プシュー」と空気を抜かれたように萎み始めました。
そして薄い抜け殻の残骸と大量の大便だけが後に残りました。
「管理人さん? 管理人さん?」
高床式少女(仮)が大便を掻き分けて管理人を探しました。
そして、大便の中に最後に残った管理人の二つの眼球を見つけました。
眼球は高床式少女(仮)と目が合うと、嬉しそうに微笑みました。
「管理人さん、ありがとう」
高床式少女(仮)が眼球を見詰めて優しく声を掛けると、眼球から涙が溢れてきました。
熱くて綺麗な涙でした。
そして、そのまま眼球は溶けて無くなりました。
管理人は胃から口に向けて戻っていたつもりだったのですが、どうも肛門の方に向かってしまっていたようでした。
そして、管理人が村を救った英雄「大便侍」として村人たちの間で代々語り継がれることになったという後日談を付け加えることは、それこそ蛇足というものでしょうか?
【つづく】




