(10)フェロモン、山手線ゲーム、そしてちょっと数えるのが面倒なくらい沢山の同位角、錯角、対頂角
さて、朝食前に殺人事件を朝飯前に解決したネルたちは、遅い朝食をとると、ネルのおじいちゃんの情報を得るために、ホテルの敷地の少し先にあるキャンプ場に向かいました。
ここにはバックパッカーたちが世界中から口コミで集まって来ていました。
フロントマンのスキンヘッドが言っていたようにこの場所に魅せられて長期で滞在している者も多いのでした。
ホテルからジャングルの中の道を通って少し歩くとすぐにキャンプ場が現れました。
カーキ色のテントが縦横に整然と並んでいます。
七十八というのがその正確な数字でした。
テントの間を、ネルとすず子とカブちゃんは縫うようにして歩いて行きました。
焚火に掛けたフライパンからバターが焦げる良い匂いが漂ってきます。
フレンチトーストを焼いているその男はNo.164と刻印された白いホーローのマグカップからコーヒーをすすっています。
ビーチチェアに寝そべってトマス・ピンチョンの『重力の虹』を読んでいる白人男性もいます。
その男の特徴的な出っ歯はピンチョンその人ではないかと思わずにはいられなくなります。
こんなところにいたらノーベル賞受賞を知らせる電話が掛かって来ても気づくことは出来ないでしょう。
三々五々集まってヨガや太極拳をしているグループもあります。
ギターを爪弾いていたり、イーゼルに掛けたキャンバスにジャングルの絵を描いている人もいました。
かと思うと、鼻毛の抜き方について議論している人や、ケツ毛に櫛を入れている人もいます。
皆、自由な時間を思い思いに過ごしているようでした。
三人がキャンプ場の一番奥に到達すると、ジャングルの樹の陰にオランウータンみたいな動物が見え隠れしているので、三人は腰を抜かしそうになりました。でも、動いている様子はありません。
恐る恐る近づくとそれは麻袋のような素材で作った立体作品でした。彩色もされていてリアルです。
それが木の幹に掴まったり木の枝にぶらさがったりしているのです。
近くのテントの前で白髪の白人老女が丁度同じような立体作品を作っているところでした。
「こんにちはー」ネルは老女に明るく声を掛けました。
「あら、こんにちは。珍しいわね、こんなに若い女の子が来るなんて」老女は制作の手を休めて言いました。
「私たち日本人の探検家を探しに来たんです。私のおじいちゃんなんですけど」ネルが言いました。
「探検家が探されてる訳ね。で、日本人の探検家って私が知ってる人じゃないかな。もしかしてこんな顔じゃない?」老女はそう言って作っていた立体作品の顔をネルの方に向けました。
二重瞼の大きな目がどことなくネルに似ている男性の顔がそこにありました。
でも、額から上の頭骨は小さめで、ホモ・エレクトスだったかホモ・ネアンデルターレンシスだったかホモ・フローレシエンスだったか、とにかく昔何かの本で見た原始人のような風貌をしていました。
「これ、おじいちゃん!」ネルが叫びました。
「やっぱり。あなた、サムさんのお孫さんなのね。これはサムさんにモデルになってもらったのよ」老女は言います。
「サム? おじいちゃんってサムって呼ばれてるの?」
「サムって呼んでくれって言ってたけど、本名は違うのかしら?」
「本名は狭筵修って言うんだけど。
おじいちゃんがサムなんてバタ臭い名前で呼ばれているなんてなんか変だけど、まあいいか。
それで、おじいちゃんは今どこにいるんでしょうか?」
ネルは近くのテントに視線を送りました。もしかしたらそこにいるんじゃないかと思って。
「サム! ちょっと来てくれる?」
老女がそのテントに向かって呼び掛けたのでネルはビックリしました。《こんなに早くおじいちゃんに会えるなんて》
でも、テントから出て来たのは金髪長身の若い白人でした。筋骨隆々の身体に白い褌一丁しか付けていません。
「アレキサンドラ1世、呼んだかい?」
サムと呼ばれた若者は老女に優しく微笑みかけ、近づくと熱烈にハグと接吻をしました。
その様子はまるでカップルみたいだったのでネルは驚きました。
だって、二人は70歳過ぎの老女と二十歳そこそこの若者だったのですから。
「こちらサミュエル・チートス。
サムって呼んであげてね。
あなたのおじいちゃんと偶然同じ名前ね。
サム、この子、探検家のサムさんのお孫さんなの。
おじいちゃんのサムさんのことを探しているんだって。
サムさんがふらっとここに来たのは一か月位前のことだったかしら?
皆でセッションして一晩踊り明かしたじゃない。
それからまたサムさんがジャングルに帰って行っちゃった時、あなた途中まで付いて行ったわよね。
あなた、サムさんが今どこに居るか分かる?」
アレキサンドラ1世と呼ばれた老女が言いました。
「サムさんかい? 僕は途中で帰って来ちゃったからなー。
ジャングルには野生のトラもいるし、それにオランウータン人間っていう野人がいて人間をさらっていくって言う伝説がこの辺りにはあるしね」サムが言いました。
「私どうしてもおじいちゃんに会いたくてわざわざ日本から来たんです。
途中まででも良いので連れて行ってくれませんか?」ネルは熱心にサムにお願いしました。
「いいけど、トラが出てくるかもよ」と、サム。
「トラが出てきたらボクが退治するよ」カブちゃんが腰の義元左文字を抜いて白刃をキラリとさせました。
「それに、サソリやヒルもいるんだぜ」
「邪悪な虫を寄せ付けない妖術なら私に任せてください」すず子が錫杖をシャンシャンと鳴らしました。
「サム、あなたジャングルを案内してあげなさいよ」アレキサンドラ1世が言います。
「でも、その間にまた、他の男がアレキサンドラ1世のテントに潜り込むってことにはならないかな?
僕はそれが心配だよ」
「恐らく、そういうことになるでしょうね」
そう言うと老女は周りを見回しました。
いつの間にか、老女を中心にして、遠からず近からずの辺りを、こちらを見ている様な、見ていない様な若者たちが、ウロウロとしているのでした。
老女の着ている生成りの短いムームーの裾から出た白いふくらはぎが、艶めかしく光っていました。
「じゃあ、やっぱり僕はここを離れたくないよ」
サムは心配そうにウロウロ連中を見回しながら言いました。
「この女の人、歳は取っててもモテモテね」
ネルが皆に聞こえないように小声で隣のすず子に耳打ちしました。
「女性が圧倒的に少ないからかしら?」すず子も小声でそっと返しました。
「そういう問題ではないんだよ!
いくら歳を取っても人間的な魅力って云うのは輝きを失うことはないんだ!」
サムが地獄耳を発動してネルたちに食って掛かりました。
「サム、あなた今、『いくら歳を取っても』って言ったわね?
私、そんなに歳寄りかしら?」
老女アレキサンドラ1世が豊満な胸を揺らしてブチ切れました。
「いや、僕はそんなつもりで言ったんじゃ……」
サムはうろたえ、慌ててアレキサンドラ1世の前に跪きました。
「あなた、そんな風に思っていたのね。
少しジャングルで頭を冷やしてきた方が良いみたいね。
さあ、この子たちを案内しておあげ!
お仕置きよ!」
アレキサンドラ1世はサムを四つん這いにさせると、腰に差してあった先が何本にも分かれた黒い革製の短い鞭を振り上げ、褌一丁のサムのナマッチロい尻に思いっきり振り下ろしました。
「ヒュー」鞭が空気を切り裂く音が響き、「ビチッ」鞭が尻に食い込む音が続いて響きました。
サムは棍棒で殴られたようにドスンと地べたに平らに伸びました。
先の一本一本は紐のように細い鞭でしたが、それが数本集まると、棍棒で殴った位の威力があるのです。(これは打たれたことのある人でないと分からないと思います)
サムの尻には6本の平行線がミミズ腫れとなって残りました。
それを見た遠巻きのウロウロ連中が、一斉にアレキサンドラ1世の周りに殺到しました。
若者たちはアレキサンドラ1世の前で両腕をひらひらさせて踊ったり、急にジャンプをしてハイキックをしたり、はたまたバク転をしたかと思ったらトカゲのように素早く地面を這い廻ったりと、思い思いの求愛行動でアレキサンドラ1世にアッピールをし始めました。
アレキサンドラ1世も鞭をまた腰に差す動作にかこつけて、ムームーの裾を捲り上げ、その滑らかな太腿の内側や薄いシルクの下着をあざとくチラ見せさせました。
加齢に勝てずに弛んでいる腹回りは見せないように十分な注意も怠りません。
「夜目遠目スカートの内」ということわざにもあるとおり、これは求愛行動中の若者たちに絶大なる効果を発揮しました。
若者たちは更にヒートアップし、オスのフェロモンが辺り一帯に臭い立ちました。
それに反応したアレキサンドラ1世の秘めた花弁が開いて、饐えたチーズの様な、かと言ってどこか甘さを含んだ様なメスのフェロモンが大量放出されました。
それは若者たちの鼻孔から大脳を経由しないで直接延髄に突き刺さりました。
獣と化した若者たちがパッツンパッツンにいきり立った一物を振り回しながらアレキサンドラ1世に迫りました。
さて、興奮した身体を火照らせながら、同時に冷静な頭脳を保っていたアレキサンドラ1世は一頻り若者たちを吟味してから、空手の型のアーナンダイでアッピールしていた一人の屈強な白人の若者を指差しました。
それから、マイケル・ジャクソンの『スリラー』を完コピしていた黒人の細マッチョを手招きしました。
二人はアレキサンドラ1世の前に進み出ます。そして、まるで格闘技の試合でも始めるかのように腕を前に構えて間合いを図り始めました。
「ちょっと待って。あなた達の肉体美、パフォーマンス能力はもう十分に分かったわ。今日はあなたたちの教養と知性をテストします」
「ポカン?」
「ポカン?」
二人の若者はポカン顔でアレキサンドラ1世を見ました。
「山手線ゲームで勝負を付けて貰うわ。お題は画家の名前。ハイ、あなたから」アレキサンドラ1世は空手白人を指差しました。
「モネ」白人は慌てて言いました。
「バスキア」黒人が余裕で言いました。
「ダビンチ」白人。
「ベラスケス」黒人。
「ボッティチェリ」白人。
「レンブラント」黒人。
「ゴヤ」白人。
「マネ」黒人。
「ウォーホール」白人。
「キーファー」黒人。
「ラウシェンバーグ」白人。
「大竹伸朗」黒人。
「エゴン・シーレ」白人。
「今井麗」黒人。
「ガウディー」白人。
「ガウディー? ガウディーは建築家ね。画家ではないわ。あなたの負けね。そして、あなたが勝者よ」
スリラー黒人が前に出て跪き、目の前に差し出されたアレキサンドラ1世の白い足の甲に分厚い唇を当てました。
負けた空手白人は頭を垂れてアレキサンドラ1世の前からトボトボと立ち去りました。
サムが未練がましくアレキサンドラ1世に近寄って来ました。
ビチッ!
アレキサンドラ1世の鞭の音が再びジャングルに響動もしました。
サムの尻の赤い6本の平行線の上に、斜め35度の角度で新たな6本の平行線が重なりました。
その瞬間ちょっと数えるのが面倒なくらい沢山の同位角、錯角、対頂角がこの世に出現しました。
だからなんなんだ?
というような話ですけれど。
「この子たちを連れて早くジャングルへお行き!」アレキサンドラ1世が吠えました。
「はい! ご主人様」
鞭を入れられたサムは、キャンキャン言いながらジャングルに入って行きました。
ネルとすず子とカブちゃんは慌ててサムの後を追います。
スリラー黒人は鎖付きの首輪を付けられて、アレキサンドラ1世に引かれてテントの中に入って行きました。
キャンプ場に静かな平和が戻りました。正確にはジャングルから聞こえてくるカニクイザルの遠吠えに、アレキサンドラ1世がテントの中で上げる叫喚が混じるいつもの日常がキャンプ場に戻ったのでした。
【つづく】




