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(1) ベーコンエッグチーズトースト、ぺしゃんこの蛙、そしてアイロンズ

「っったっっ」


 寝返りを打ったとたんに壁を思い切り蹴飛ばしてしまい、ネルは激痛と共に目を覚ましました。


「うるさい!」


 二段ベッドの下から部活の怖い先輩みたいな声が飛んで来ます。


「すいません」


 ネルは思わずそう言ってしまってから《しまった!》と舌打ちしました。


 下で寝ているのはもちろん先輩などではありません。

 妹のココです。

 妹ごときに『すいません』なんて下手に出たら、また付け上がるに決まっていますし、昨日のピノの件だってまだ腹の虫が収まっていないのです。

 後で食べようと思って冷凍庫に大事に仕舞っておいた最後の一個のピノ。

『もう食べないのかと思った』って、私がピノを食べないなんてこと有る訳ないでしょ! 

 食べる気になっている口が、ピノが無いことを知った時のショック、あなたにどんなものだか分かる? 

 目の前にあるものは何でもバクバク食べ尽くしちゃうあなたには永遠に分からないでしょうけどね!


 ネルはジンジンする足の小指の痛みと、再燃するピノの恨みを抑えながら、ベッドの柵から頭を出して下を覗き込みました。

 マンションの東向きの部屋にはカーテンの隙間から黄金色の朝日がキラキラ流れ込んでいて、枕に半分埋まった妹の横顔を照らしています。

 妹は寝息をスースー立ながら微動だにしていません。

 これはどう見ても熟睡しています。妹の『うるさい!』は夢と現の間を漂いながら発した寝言だったのでしょう。

 ネルは少しほっとしました。ネルの『すいません』のことは覚えていないに違いありません。


 枕元の目覚まし時計を見ると、まだ7時です。あと30分寝られます。

 もうひと眠りしようと目をつむり、心地良い眠りの沼の底に沈んで行き掛けた時、ベーコンを焼く美味しそうな匂いが漂ってきて、またぽっかりと水面に浮かび上がってしまいました。

 お腹がグーと鳴り、よだれが口一杯に溢れてきます。

 お父さんが出勤前にネルたちの朝食を作ってくれているのです。

《やった! 今日はベーコンエッグチーズトーストだ!》

 こんがり焼いた厚切りトーストの上にジューシーなベーコンと二種類のチーズと絶妙の半熟度の目玉焼きが乗っています。

 そこにマヨネーズとケチャップそしてウスターソースを少し加えたオーロラソースを掛けて食べるのです。

 よだれが口からこぼれそうになって慌てて手の甲で拭いました。

 肉の脂の焦げる臭いは、狩猟生活を送っていた太古の人類の本能を呼び覚ますという話を聞いたことがあります。

 ネルは原始人の自分が獲物のイノシシを丸焼きにしているところを夢想しました。

 肉汁が焚火に落ちて「ジュッ」という音が響きます。

 焦げた脂の臭いが鼻孔に突き刺さり、飢えていた身体の細胞一つ一つが待ち切れなくて騒ぎ立てます。

《ヤバイ、またよだれが出てきた》

「美味しい」

 下の段からまた妹の声です。今度こそ寝言にしては口調がはっきりとし過ぎています。

 ネルはもう騙されないぞと思いながら、どうしても気になってまた下を覗き込みました。

 何かこっそり食べているのかもしれません。

 下ではパジャマ姿の妹が布団を蹴とばし、お腹を踏みつけられてぺしゃんこになった蛙みたいな恰好で寝ています。

 そんな恰好のままスースーという穏やかな寝息のリズムは変わっていません。

 やっぱり熟睡しています。

 でも微かに開いた瞼の隙間から黒目がこっちを見ているような気がします。

 《起きてるのかな?》

 しばらくネルはそのまま妹と睨み合いました。

 ぺしゃんこの蛙はふてぶてしいまでに視線を外そうとしません。

 まるで日頃ネルがお姉さん風を吹かせて妹に使い走りをさせたり、ゲームのやり過ぎだと言って任天堂スイッチを取り上げたりするのを恨んでいるような目付きです。

 ネルも負けじと睨み返します。

 ピノの恨みです。

 でも、妹の長いまつ毛や富士山型の唇を見ているとお母さんを思い出してしまって、気が緩んだ隙に間の抜けたような顔になってしまっているのが自分でも分かりました。

 気のせいかぺしゃんこの蛙がニヤッと笑ったように見えました。

 でも、もう、むかつくとか、そんな気分じゃありません。

《お母さん、どうしてるかな? いつ帰って来るんだろう? もう帰って来ないなんてこと無いよね?》

 ネルはゆるゆると布団に戻りました。そして頭から布団を被って、真っ暗な殻の中に閉じ籠りました。

 しぼんだ胸の内に悲しみが滲みだして来ました。

 手の甲を濡らしたのは、よだれじゃなくて涙でした。

 お母さんが家を出て行ってからもう一年が経ちます。

 アイロンズというロックバンドの、ボーカル兼ギタリストとしてワールドツアーに行ってしまったのでした。

 アイロンズというのはお母さんが結婚前にいたバンドで、そこに久しぶりに復活したのです。

 最初は2か月で帰るはずだったのだけれど、半年、一年経ってもまだ帰って来ません。

 時々届くお母さんからの手紙には、「予想外の人気が出てしまって」と書いてあったけど、ネルはこの間お父さんが電話で誰かと話しているのを聞いてしまいました。


「アイロンズのベースの闘四郎(とうしろう)は詩織の元カレだからね」

 詩織と言うのはお母さんの名前です。

「だから焼け木杭(やけぼっくい)に火が付いた実質駆け落ちなんじゃないかなんて言う奴もいるんだ。

 でももちろん子供たちにはそんなこと言えないよ。

 俺がもうちょっとベースが上手かったら、詩織もアイロンズじゃなくて家族のバンドで夢を追おうとしたかもしれない。

 家族バンドでステージに立ちたいって詩織はいつも言っていたからね。

 でも俺、不器用でベース全然上手くならないし、平凡な公務員だし。

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 でも、アイロンズのツアー生活にも闘四郎にもそのうち飽きて戻って来てくれるって俺は信じてる。

 そりゃ、許せないよ、あんな女たらしの最低男にくっついて行ってしまったんだからね。

 離婚だって考えないでもない。

 でも、詩織が無邪気に笑っているところを思い出すと……まだ好きなんだよ。

 それに子供たちにとっては良い母親だからね」

 お母さんがワールドツアーに行ってしまった更に一年程前、専業主婦だったお母さんはまた音楽に関わりたくてライブハウスで音響の仕事を始めたのでした。

 仕事から帰って来るのはいつも真夜中で、その時間にはもうネルとココはとっくに寝ています。

 そして、ネルたちが学校に行く時間にはまだお母さんは寝ているので休日以外はいつもすれ違いでした。

 だから時々ネルは学校に行く前にお母さんの寝顔を見にこっそり寝室に忍び込んでいました。

 お母さんの寝顔はとても可愛いのです。

 ですから、さっき「時々」と云いましたが実はほぼ毎日見に行っていました。

 いや、「ほぼ」も要りません。

 そして思わず頬ずりをしたくなるのを、ぐっと我慢していたのです。

 だって、疲れて寝ているお母さんを起こしてしまったら可哀そうじゃないですか。

 それなのに妹のココは毎朝2回も3回もお母さんの寝顔を見に行くのです。

 しかも頬ずり迄しているのをネルは知っていました。

 お母さんが寝ぼけ眼で妹の頭をゴシゴシ撫でまわしているのをネルは何回も目撃しているのです。

 そうして貰いたくてわざと強く頬ずりしているのです。


 そういうところだよ!


 ネルは本当に妹が信じられません。


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