源義経と弁慶……北陸道を下る、冬の匂いがした朝
あれは、冬の匂いがした朝だった。
整備の整わない山道には雪が降りはじめ、足元には白い雪がうっすらと降り積もる。
ここは、北陸道の山道。この道を私……源義経をはじめとした一行は山伏に姿を変え、北へと下る。
後白河上皇が文治四年二月に出した『義経追討の院宣』。これにより、私は全国より追われる立場となってしまったのだ。
行先は、羽黒山と見せかけ、奥州へ。奥州は……私が青春時代を過ごした場所。頼れる場所が、もう、ここしか残っていない。
「弁慶」
「殿。どうされましたか」
「この先、小矢部川があろう。そこは渡し舟を使う必要があるのではなかったか」
「そう……ですね。そこは私が先導を切るので殿は一番後ろからおいで下さい」
「……皆には苦労を掛けてしまうな」
その言葉に、一行は皆顔を見合わせる。
「何をおっしゃいます。今までずっとこうして一緒に逃げ延びてきたではありませぬか」
「えぇ、そうですよ。どこまでもお供いたしますよ、殿!」
そんな一行の言葉に、思わず言葉を失う。良い者共に恵まれたなぁと、胸の裡が温まるのを感じていた。
そうして……見えてくるは冷たく薄鈍色に流れる小矢部川。冬も間近となった今の季節のこの川は、遠目に見ても冷たさがひんやりと伝わってくるようでもあり、やはりここは渡し舟を使う他方法がないように思われる。
「権守殿。こちらの船で対岸へ渡してもらいたいのだが」
「ははぁ……山伏の御一行様ですか。少々お待ちくださいね、今全国で源九郎義経が追討令で追われていることはご存じであろう。」
「……えぇ、まぁ」
「その九郎義経が山伏に姿を変えて全国を逃げ回っているという話でな。確認のため、少々待たれよ」
「……」
権守はしばし此方を向いては怪しむような視線を送ってくる。
私は皆の後ろに隠れ、このまま見えなくなることができれば、どれほど良いだろうかと考えていた。……が、実在する人間にそのようなことは不可能である。
「……そこの一番後ろの者。面をあげよ」
「……」
「……聞こえぬのか。お主だ」
その権守は完全に私の方を向き、鋭い言葉をかけてくる。
最早、ここまでか……と思った、その時。弁慶が皆の前にずいと進み出でて、権守に物申す。
「権守殿。そんなにも怪しまれるのであれば、我々のうち誰が九郎判官義経であるのか、はっきりと仰ってくだされ」
「先達殿。……では申し上げますが。間違いなくあの山伏こそが、九郎義経でしょう」
権守はほぼ確信めいた言葉でそう断言し、私を指さす。私はじっと目を伏せるも、最早これまでであろう。自分の鼓動の高鳴りを感じながら口を開きかけると、弁慶はぐるりとこちらを振り返り、ずんずんと私の方へと歩いてくる。
「……っ!?」
「こやつは白山から連れてきた坊主であるが……」
そういう弁慶の顔は強張り、言葉が震えていた。そうして弁慶は私の腕をぐいと掴むと、強引に張り倒す。
「年が若く、九郎義経と見間違われてこの先に進めないのでは誠に残念だ。……致し方あるまい、こやつにはここで白山へ引き返し願おう」
そういうなり、弁慶は容赦なく私を扇で殴り倒す。何度も、何度もその扇を打ち付けて。
「お前のせいで……お前のせいでっ! 帰れ! 今すぐに、ここから帰れ!」
咄嗟のことに驚くと共に、バシバシと殴られる私は身を堅くして耐えることしかできない。……体も痛いが、心も、痛い。
だが……私にはわかっていた。これが、弁慶の優しさなのだと。こうする以外にここを乗り越える道はない。
「わかった、よぉく、わかった! 先達殿、その扇をしまいなされ! これ以上やってはその山伏が可哀そうであろう」
「……」
「もう良いと言うておるであろう!!」
そうして打ち付けるのをやめた弁慶は、私を見遣った後すっと権守を見る。
「……では」
「あぁ、良い。一行まとめて向こうまで送ってやる」
「ははぁ、では有難くそうさせて頂こう」
「……そこの若い山伏よ。すまんかったなぁ、これでは私のせいのようではないか。お気の毒に」
権守はそう言うと私の手をとり、船を近づけて乗せてくれた。
「道中、お気をつけて」
「……」
きっと、あの者は私の正体をわかっている。
だが……今回は弁慶とあの者に救われた。私はこうして、色んなものに生かされているのだろう。
「……殿…………」
小さく呟く弁慶の言葉を、私は聞き逃さない。
「ありがとう、先達殿」
こうして私たち一行は対岸まで無事に送り届けられた。




