密談
――時は少し遡る。
パーティ前日の夜。ロンドン市内の高級ホテルの一室。豪奢な内装でリビングと寝室が二つある部屋だ。リビングの真ん中には落ち着いたソファセットが置かれており、ガラステーブルを挟んで向かい合うように二人の男が据わっている。一人は恰幅の良い男で、もう一人は痩せぎすで眼光の鋭い男だ。対照的なそれぞれの男の背後には数名の男がいて、緊張した面持ちで二人の男を見守っている。
「約束の品はこちらに」
恰幅の良い男がそう言ってテーブルの上にアルミのアタッシュケースを置いた。慎重な手つきで鍵を開け、蓋を開けると中には白い粉が袋に詰められて入っている。
「アメリカで最近開発された新種の薬で、少ない量で効果が長続きして依存性も高い。しかもまだ規制が掛かっていないから警察の介入もない」
「素晴らしい。この薬があればあっという間に市場を独占することができる」
痩せぎすの男が舌なめずりをしそうな声音で言って笑う。その目には野心が色濃く宿っていてギラギラと輝いている。
「アメリカでもこの薬は限られた販路でしか出回っていない。今のところイギリスに販路を持っているのは私だけだ。私が卸して貴方が売りさばくことで利益を独占できる」
「しかし、よろしいので?ブラックウルフが販路を独占するのではなく、我々に任せていただいて」
「ブラックウルフはまだイギリス国内では新参者だ。どんなに良い薬でも新参者の我々では信用して買ってもらえない。貴方のファミリーと協力することで少しでも販路を広げたいと思っているところだ」
「我々と手を組めば対抗できる組織はそうそうなかろう」
「今の市場はスワロウテイルが仕切っている。この薬を使ってスワロウテイルの牙城を崩したい」
「この薬と我々の力があればスワロウテイルなど簡単に過去の組織にしてやれるだろう。貴方は正しい選択をした、Mr.ブラウン」
男の言葉にディノはニヤリと笑った。
男はイギリスのとあるマフィアのボスだ。クレイグ=ハントと言う名でハンターファミリーという組織を率いている。イギリスに古くからあるマフィアでスワロウテイルと肩を並べる組織である。表立ってスワロウテイルと対立することは無くお互いに棲み分けが出来ていた。
そんな組織を狙ってディノは接触した。ハンターファミリーと手を組んでブラックウルフの勢力を強めることも目的の一つだが、棲み分けの出来ているスワロウテイルとハンターファミリーの均衡を崩し、イギリス市場を混乱させ、その隙に乗じてこの市場を乗っ取ろうという思惑がある。ハンターファミリーと手を組むと表向きは言っているが、その実は踏み台にしてイギリス市場でも覇権を握ることが目的だ。覇権を握った後は彼らがどうなろうと知ったことではない。
ディノの思惑を知らないクレイグはご機嫌な様子でディノに酒を進める。背後に控えた男がワインセラーから取り出したボトルは高額な値のつくビンテージワインだった。グラスにワインが注がれると、照明に赤ワインの赤が映えた。
グラスを手に取ってディノは一口ワインを口に含む、芳醇な香りと重厚な味わいが口の中に広がる。一般の人では手が届かないレベルのワインなのは間違いない。新しい薬の提供に気を良くしているのがよく分かり、僅かに口角を上げる。
「これから長い付き合いになるのだから、私のことはディノと」
微笑を浮かべてそう言うとクレイグも笑って
「ならば、私のこともクレイグと。ディノ」
自らもワインを一口飲んでディノの背後に控えた男たちに視線を向ける。その視線がとある男に止まってクレイグは口を開く。
「それにしても……噂には聞いていたが、本当にあの赤龍が貴方の元に付いたのだな」
ディノはちらりと背後に視線を向けて
「なかなかに苦労したのですよ、我々の仲間に引き入れるのは」
「赤龍といえばこの世界では知らない者はいないほどの手練れ。前に所属していた組織が壊滅した後は暫く姿を消していたが、まさかブラックウルフに付くとは思わなんだ」
「我々がイギリスに進出するにあたってスカウトしたのですよ。行方を追うのにかなり難儀したが、破格の報酬と行動の自由を条件にブラックウルフに付いてくれた。イギリスで活動するのにこれほど心強いものは無い」
「なんとも羨ましいものだ。我々も例の組織が壊滅した後に赤龍を引き入れようと躍起になったが、けんもほろろに断られて叶わなかった。ブラックウルフに我々にはない魅力があったのだろうな」
羨望の眼差しを向けてくるクレイグを一瞥して赤龍は視線を窓へ向けた。
高層階にあるこの部屋の窓からはロンドンの夜景が一望できるのだろうが、その窓には厚くカーテンが引かれていて外を望むことは出来ない。締め切られた密室で行われている密談に興味は無かったが、ここにいるのはどうしても、と護衛を乞われて引き受けただけのこと。赤龍を配下に付けたことを自慢したくて仕方がないディノが同行させたのだ。
クレイグの視線が尚も羨まし気に向けられているのを感じて赤龍は軽く息を吐いた。
赤龍がブラックウルフに身を置いているのは、高額な報酬に釣られたわけでもブラックウルフに魅力を感じたわけでも何でもない。ブラックウルフよりも高額の報酬を打診してきた組織だってある。だがそんな報酬には一切興味が無かった。金ならこれまでの仕事で十分すぎる程得ている。今更そんなもので心動かされることは無い。ブラックウルフを選んだ理由はただ一つ。ブラックウルフが赤龍にとって都合が良かっただけに過ぎない。
ブラックウルフがイギリスに拠点を広げると聞いた時から彼らを利用することは決めていた。アメリカでは名の知れた組織がイギリスに進出してきたということは、こちらの世界でも幅をきかせようとしてくるはず。こちらの世界ではスワロウテイルに手を出す組織は無いが、きっとブラックウルフは手出ししてくるだろう。そうなれば必ず飛龍と対峙することになる。飛龍にはウィルがいる。ブラックウルフに籍を置いていればウィルと対峙する機会が持てる。
不穏な密談に花を咲かせる二人を一瞥して赤龍はウィルを思う。
離れている二年間のうちに随分と成長した。十五の時点で既に力の遣い方はマスターしていたが、この二年で磨きがかかり飛龍の中でも中心的存在として才覚を現している。力の遣い方を仕込んだ身としては嬉しい限りだ。人を相手にするのであれば、もう向かうところ敵は無いだろう。だが、黒龍として任務を遂行するにはどうだろうか。
黒龍は死を司る龍。その力を以て禍斗を葬り去ることが任務。その特異な能力は他の龍とは異なり、人を殺すことに特化した能力。畢竟、黒龍は龍の中でも特に手を汚すことを前提とされている。過去を遡っても、黒龍が葬り去った禍斗の数は四龍の中でも桁違いに多い。四龍の中で手を汚したことが無いのは白龍くらいだろう。
禍斗に魅入られた者を抹殺するのは絶対的な正義であり、人を殺めるのとはわけが違う。だが、傍目には禍斗は人でしかありえない。人として物を考え、人として行動する。人として権利を有し、人として生きている。その内実が禍斗であるか否かは龍にしか分からないのだから、第三者の目で見ればそれはただの殺人に過ぎない。
人が人を殺めれば罪に問われる。だからこそ、秘密裏に禍斗を始末する必要がある。殺人の証拠を残さずに殺める必要があり、黒龍はそれを実行するのに最も適した能力を有している。触れただけで相手を死に至らしめ、しかも死に至るまでの時間も自在に操れるのだから。だから神龍も四龍の誰もが黒龍が手を下すことに何ら疑問を抱いていない。当然のこととして受け入れている。それが遥か悠久の昔から繰り返されてきた龍の条理だから。
死の象徴である黒龍。生の象徴である白龍。動の象徴である赤龍。静の象徴である青龍。
龍はそれぞれに与えられた役目があり、その役目を果たすことが責務だ。だから黒龍がより多くの禍斗を葬り去ることはこの世の理であり、逸脱することのできない掟なのだ。
だが、と赤龍は思う。
ウィル本人を思えば、まだ十七歳の高校生に過ぎない。年の割に大人びていて、だけどどこか純粋で無垢な一面を持った少年。その少年を裏の世界に引き込んだのは赤龍だ。共に暮らし、鍛錬を積み、裏の仕事に関わらせることは無かったが、結果として彼は飛龍に入ることになった。そのきっかけを作ったのは紛れもなく自分だ。
裏の世界に関わらせたくは無かった。ウィルのまっさらな手を汚してほしくは無かった。だが赤龍の思惑とは反対にウィルは裏の世界に自らの意志で入った。裏の世界に入るということは遅かれ早かれその手を汚すということ。ウィルの汚れを知らない手を、自分と同じ血に塗れた手にしてしまうということ。
自分の掌を見つめて眉根を寄せる。
黒龍である以上、手を汚さずに生きることはあり得ない。飛龍という組織のトップに神龍がいる以上、ウィルが飛龍に入るのは宝珠に刻まれた条理によるものだったのだろう。どんなに赤龍が抗ったとしても、それは変えられなかったのだろう。飛龍に入り、神龍の下で禍斗を葬る。それがウィルに与えられた責務なのだから。
宝珠に刻まれた条理は揺るがすことのできないもの。ならば今、自分が選んでいるこの道も、ひいては条理が示す道に繋がってゆくのだろうか。
己の掌を見つめながら赤龍はそう思った。
密談を終えてディノはホテルを後にする。黒塗りの高級車に乗り込むと、赤龍に同乗するよう促した。同行していたブラックウルフの幹部が何かもの言いたげに口を開いたが、ディノは視線で黙らせて赤龍を自分の隣に座らせた。助手席に警護の者が一人乗り込んでドアが閉まり、車が走り出すと後ろに数台車が続いた。この後、ディノの宿泊しているホテルに向かい、ディノと警護の者を残して解散する予定になっている。走り出した車はロンドンの夜景の一部となり、車内は密室となる。その密室でディノは口を開いた。
「今日はご苦労だった」
琥珀色の瞳がご機嫌な様子で笑みの形を取っている。
「クレイグの羨望の眼差しは良い見ものだったな」
くつくつと喉の奥で笑いながら言うディノを赤龍は一瞥する。
「自慢出来て満足か」
「あぁ、満足だとも。他のどの組織が声を掛けても手に入れられなかった君を、私が手に入れることができたのだ。自慢したくもなるさ」
よほど機嫌が良いのか、口角が上がりっぱなしだ。
「君がいれば世界中の何処に行っても怖いものなしだな。スワロウテイルとハンターファミリーの牙城もすぐに崩してやる」
不穏なことを口にして、野望にぎらつく目を瞬かせる。ディノを取り巻く瘴気が少し色を濃くしたような気がする。
禍斗に魅入られた者。その者を始末するのが龍の使命。今、手を伸ばせば簡単に触れられる距離にディノはいる。この密室で、やろうと思えば彼を殺すことは可能だ。ウィルの、黒龍の手を汚させる前に自分が殺ってしまえば話は早い。
だが、と視線を助手席に向ける。警護の男は前を向いているが全神経を背後に集中しているのが見て分かる。また、車の後ろに連なった車列には他の警護の連中が乗っていて、この社内で何かあればすぐに車を止めて乗り込んでくるだろう。乗り込まれたところで負けることは無いが、街中でそんな騒ぎを起こしたら警察が飛んでくる。相手がアメリカの大企業のCEOのこと、メディアがこぞって取り上げて話題にするだろうし、手を下した赤龍に対して執拗な追及がなされるだろう。勿論、簡単に捕まることは無いが、身動きが取れなくなることは必至だ。そんな面倒を抱え込むわけにはいかない。
ディノを始末するのであれば、人目のない所でディノと二人きりになる必要がある。だが、今の時点ではまだ自分はそこまで信用されていない。ディノと顔を合わせる場には必ず警護の者が数名待機しているし。ディノ自身もどこか一歩引いた形で自分に接している。少し時間をかけて信用させ、二人きりになれる機会を窺うのが最善だ。今はまだ、その機会ではない。
ちらりと視線をディノに向けると傲岸な眼差しとぶつかる。
「君の力があれば、スワロウテイルもハンターファミリーも簡単に壊滅させられるだろう」
愉しそうに言うディノに赤龍は軽くため息を吐く。
「期待してもらえるのは光栄だが、あまり俺を過信しない方が良い」
裏の世界に慣れていて、人間相手ならばどれだけ束になって掛かってきても負けることは無い。だが、スワロウテイルの背後には飛龍がいる。飛龍にはウィルがいる。赤龍と同じく龍であるウィルは赤龍と互角に戦うことができる。また、飛龍には気功術に長けた人材が多くいる。彼らが束になって掛かってきたら正直心許ない。自分一人で対峙するのではなく、ブラックウルフの面々と協力すれば負けることはないのだろう。だが、あくまで赤龍は個人で行動する。そう言う契約でディノに雇われている。組織内での連携など図るつもりはないし、そこを期待されても困る。
そう思って言ったのだが、ディノは謙遜していると取ったようで
「そう謙遜するものじゃあない。君の価値は誰も比肩することができないほどのものだ。君がブラックウルフにいるというだけで、他の組織に対してどれほどの牽制力が働くか、言わずもがなだ」
「そいつはどうも」
「明日のパーティも是非とも君に護衛をしてもらいたいのだけどな」
その言葉に赤龍は顔を顰める。
「俺が表舞台に出るわけにはいかないだろう。顔が知られ過ぎている。首相と同席できる誉れある場なのだから、あんたも裏の顔を知られては不味いだろう」
赤龍の顔は裏世界では知らないものがいないほど知れ渡っている。そんな赤龍が政財界の重鎮が集まるパーティに顔を出したら、それこそ大騒ぎになる。自慢したいのならば裏の世界にだけにとどめておくべきだ。
そう言うと、ディノは残念そうな顔をして
「それは確かにそうなんだがな……仕方ない。明日の護衛は社の者に任せるか」
「あんたの本業はそれなんだから、俺なんかを使うより自社の人間を使った方がいいに決まっている」
ディノの会社、SSSは警備専門の企業だ。要人警護から一般家庭の警備まで幅広く扱っていて、アメリカでは知らない人はいない企業だ。近年、イギリス市場にも参入していて、テレビのCMなどで盛んに宣伝をしているから認知度も高まっている。首相の参加するパーティで自社の警護をつけて参加することは良い宣伝になるだろう。
尚も名残惜しそうな顔のディノに赤龍は視線を窓の外に向けて呟いた。
「俺は大人しく周辺の見回りでもしているさ」