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届かぬ想いと黒龍(ヘイロン)の任務

 学校が終わるとウィルは家路についた。普段であれば飛龍(フェイロン)のアジトに行ってトレーニングや打ち合わせをするところだが、今は謹慎中の身故にアジトにも行けない。手持ち無沙汰に商業施設に寄ってみたものの、特に興味を惹かれるものもなく、仕方なく夕飯の買い物だけしてそのまま家へと戻った。


 ウィルが住んでいるのは古いアパートの一室。年季は入っているものの中はリフォームされており住み心地は良かった。2LDKの部屋は一人で住むには広すぎる。元々は赤龍(チーロン)の所有する部屋で、五年間一緒に暮らした部屋だ。赤龍(チーロン)がいなくなってからもウィルはこの部屋に住み続けている。

 赤龍(チーロン)がいなくなった後にこの部屋を出ることは可能だった。飛龍(フェイロン)の仕事で入るお金はあったし、学校の近くに学生用の寮だってあった。出ようと思えばいつでも出ることができたのに、ウィルはこの部屋に住み続けている。


 玄関を入ると狭いホールがあって、短い廊下の突き当りの扉を開けるとリビングルームがある。小さめのダイニングセットと二人掛けのソファにテレビ台。それ以外に特に家具は無く、殺風景な部屋だ。

 物に執着しないウィルは身の回りに置くものも最低限にとどめているから部屋の中はおよそ生活感が無かった。しかしそれは赤龍(チーロン)と暮らしていたころからそうだった。赤龍(チーロン)も物を持つのを嫌って必要最低限のものしか置かなかったから、この殺風景な部屋はそのまま赤龍(チーロン)の影響を受けている。


 テーブルの上に荷物を置くとソファに腰かけて溜息を吐く。スプリングの弱くなったソファは座るとギシと軋んだ音を立てた。リビングにある家具は赤龍(チーロン)と暮らしていた頃から使っているものだ。僅かばかりの家具には赤龍(チーロン)との思い出が詰まっていて、古くなったからと言って新しいものに変える気は起きない。このソファに座って二人でテレビを見ていた時間が懐かしくて、今この瞬間に隣に何の温もりも無いことが寂しくて仕方がない。


 それでもこの部屋はまだいい。


 ウィルは立ち上がると、リビングの奥に二つ並んだ扉へ向かう。その片方の扉を開くと目の前に空っぽの部屋が広がる。家具も何もない。窓にはカーテンすら掛かっていない、がらんどうの空間。――かつて赤龍(チーロン)が使っていた部屋だ。


 ウィルが飛龍(フェイロン)に入った後、学校から帰ってきたらこの部屋は空になっていた。ベッドもデスクも洋服の一枚でさえも何も残っていなかった。ウィルが学校に行っている間に全て運び出されてしまっていた。何もない部屋を目にしたその時の気持ちをどう表したらよいのだろうか。激しい困惑と、見捨てられたという悲哀。信じられない空洞を前にどのくらいその場に立ち尽くしていただろうか。


 一歩部屋の中に踏み込んで大きく息を吐く。目を閉じれば今でも瞼の裏に、部屋で寛ぐ赤龍(チーロン)の姿を思い浮かべることができる。どうした、と読みかけの本から顔を上げて優しく向けられた眼差しが瞼の裏に蘇る。だが目を開ければそこは空虚な空間が広がっていて、否応なしに自分は今この部屋に独りなのだと思い知らされる。


 壁に背を当て、その場に座り込む。膝を抱えて俯くと静寂が耳に痛い。独りで家にいるとどうしてもこの部屋に来てしまう。空虚に身を委ねて無為に時間を過ごしてしまう。それが嫌で頻繁に飛龍(フェイロン)のアジトへ入り浸っていた。あそこにいれば必ず誰かがいて孤独を感じずに済む。飛龍(フェイロン)の活動で疲れ果てて帰ってきて、墜落するように眠りに落ちる。そうしていればこの空虚を感じなくて済む。だが、飛龍(フェイロン)の活動と夜の出歩きを禁じられてしまえばこの空虚から逃れる術はない。


 床に座り込んだまま窓から空を見上げる。茜色に染まった空の下、どこかで赤龍(チーロン)も同じ時を過ごしているはず。肩の傷に手を当てて目を閉じる。赤龍(チーロン)が手当てしてくれたこの傷。あの時見せてくれた優しさが、共に暮らしていた時のままでどこかでそれに縋りたい自分がいる。赤龍(チーロン)の心の何処かに、まだ自分の居場所が残っているのではないかと言う希望。だが、すぐに殺気を含んだ冷たい眼差しを思い出してその希望は鳴りを潜める。


「……天狼(ティエンラオ)、あんたは何を考えているんだ」


 どこかの空の下にいる彼に向って問いかける。答えが帰ってくることのない問いを。瞼の裏に浮かぶ彼の顔はいつだって穏やかだ。あの穏やかな時が戻ってきてほしいと思う一方で、もうそんな日々はやってこないのだろうという諦めが何処かにある。戻ることはあり得ない、ときっぱり言い切ったあの冷たい眼差しを思い出して胸が痛い。


「……俺はどうすればいいんだよ」


 切ない呟きは空虚で満たされた部屋に響いて消える。


「……天狼(ティエンラオ)


 抱えた膝の間に顔を埋めてその名を呟く。心を焦がすほどに大切な彼の名を。


 彼がいないことを分かっていて、入れば胸の空洞を深くするだけだと分かっていても、ウィルは時間が出来るとこの部屋に来ることを止められない。それはきっと瘡蓋を剥がす行為のようなものなのだ。辛いことも時が癒してくれる、と言うけれど、傷が癒える前にできた瘡蓋を剥がして傷を敢えて広げるようなもの。


 ウィルは心のどこかで、赤龍(チーロン)が自分の前から去ったことにより心に負った傷を忘れたくないと思っている。傷が癒えてしまえば赤龍(チーロン)への執着もいずれ薄れていってしまう気がするから。彼への想いを忘れたくない。色褪せさせたくない。その一心で、瘡蓋を剥がす。痛みを伴って傷口から血が流れるように、彼への想いも溢れるから。そうしていれば、彼への想いも色あせることなく、鮮やかでい続けられるから。


 茜色の空は次第に薄暮に沈もうとしている。ウィルは膝を抱えたまま、空っぽのその部屋の中で項垂れていた。




 謹慎が解けたのはそれから一ケ月程経った頃だった。


 ロバートからの呼び出しを受けたウィルは飛龍(フェイロン)のアジトへと向かった。夕方だというのに日差しが肌を焼いて痛い。久しぶりに通るアジトへの道は、代わり映えすることなく同じ姿で佇んでいる。塀の上で猫が一匹、退屈そうに欠伸をしているのを横目にアジトの門扉を潜ると、建物から出てくる人物と目が合った。


「ウィル!久しぶりだね」


 朗らかにそう言ったのは華健(ホアチェ)だった。どこか柴犬を彷彿とさせる容貌の彼は、一見ウィルよりも年下に見えるが実際は冰冰(ビェンビェン)と同じ年だ。


大人(ターレン)からようやく謹慎が解けたと聞いたよ。一ケ月、長かったね」


 嬉しそうに言う華健(ホアチェ)に笑みを返し


「一ケ月間、迷惑をかけてごめん」

「気にしないで。この一ケ月はブラックウルフも大人しかったから、さほど苦労はしてないよ」


 穏やかに笑って言う華健(ホアチェ)だが、それが自分に対する配慮だということはウィルにも分かった。ウィルが抜けた穴を華健(ホアチェ)や他のメンバーが埋めたのは間違いなく、迷惑が掛かっていないはずがない。ただ、その負担についてウィルが自分を責めないよう気遣ってくれているのだと。


 その配慮が申し訳なくも嬉しくて「ありがとう」と俯き加減に言うと軽く肩を叩かれた。


大人(ターレン)が待っている。行こう」


 促されて建物の中へ入る。華健(ホアチェ)と共に奥の小部屋に入ると中にはロバートと冰冰(ビェンビェン)の姿があった。


「遅い」


 開口一番、苦言を呈してきたロバートをウィルは軽くねめつけて


「これでも学校が終わってからそのまま来たんだ。これ以上早くは無理だよ。それとも学校をサボれと?」


 学業に専念しろ、と言ったロバートの言葉に当て付けるように言うと、ロバートは不快そうに眉を顰めた。


「減らず口が叩けるようなら結構だ」


 そう言ってウィルに座るよう促す。ウィルが椅子に腰かけるとロバートは手にした封書をウィルの前に差し出した。


「仕事だ」


 差し出された封書を手に取り、中を見るとパーティの招待状のようだ。宛名はロバート宛てになっている。ロバートの出席するパーティの警護ならばこれまでにも何度かやっている。謹慎明け最初の仕事が難しい案件ではなさそうで内心ほっとしていると


「二週間後に政財界の重鎮を招いてのパーティがある。お前にも参加してもらう」

「俺が?警護じゃなくて?」


 驚いて聞くとロバートは難しい顔で頷いた。


「そうだ。正確には、スティーブンとマリーが出席するのでお前にはマリーのエスコートをしてもらいたい」


 スティーブンとはマリーの父親のことだ。イギリスでも有名な商社のCEOで政財界では有名な人物だ。著名人や政財界のパーティに招待されることも多く、その際にマリーと共に出席する機会も多いと聞く。だがマリーと出席するときのエスコートは父親のスティーブンがやるもので、何故今回ウィルがそのエスコート役に任ぜられたのだろうか。


 怪訝そうなウィルの表情から疑念を読み取ったのだろう。ロバートは


「今回は夫人も同伴されるそうだ。だからマリーのエスコート役をお前に頼みたい」

「……分かったけど、なんで俺?俺なんかよりもっと適した人がオーシャンにはたくさんいるんじゃない?」


 政財界の重鎮を招いてのパーティならば参加する者もそれなりの地位立場を求められる。一介の高校生に過ぎない自分が参加していいものだろうか。


 ウィルの疑念を読み取ったのか、ロバートは指先でテーブルを軽く叩いて


「お前が適任なんだ。マリーと同じ名門高校に通い、成績は常にトップクラスで将来有望。容姿端麗で、親はいないが後見人に俺がついている。申し分ない立場だ」


 ロバートの口から自分を褒める言葉が出てきて思わず顔を顰める。ロバートがこういう言い方をする時は必ず何か裏がある。何を企んでいるつもりかと軽くねめつけて言う。


「それで、本当の理由は?」


 まるで信じていないという態度のウィルにロバートは軽く口角を上げた。瞬いた瞳が威圧的な色を映す。がらりと表情が変わった。怜悧な印象はそのままに、どこか高圧的な、畏怖さえ感じさせるような覇気が醸し出される。神龍(シェンロン)の顔だ。


「ディノ=ブラウンが参加するそうだ」


 ロバートの言葉に、その場に緊張が走る。


 ディノ=ブラウンはSSSのCEOである。ブラックウルフの元締めであるSSSのトップがイギリスの政財界の重鎮が集まるパーティに参加する。それが何を意味するのか。ブラックウルフの活動が活発化していることと無関係ではあるまい。


 どこか背筋がひやりとする思いでウィルはロバートの、神龍(シェンロン)の顔を見つめた。


「ディノ=ブラウンが……何故」

「奴はアメリカでは名が知られているがこちらではまだそれほどでもない。このパーティを機に名を売るつもりなのだろう」

「本気でイギリスに進出してくるつもりなのか」

「ブラックウルフが我が物顔で振舞っているところを見ると、本気なのだろう」


 そう言うとロバートは鋭い眼差しでウィルを見た。


「今回の任務は飛龍(フェイロン)としてではなく、黒龍(ヘイロン)の任務だ」


 机に肘をつき両掌を組む。組んだ拳を軽く顎に当てて薄く笑う。


「ディノ=ブラウンは禍斗(かと)に魅入られた者だ。わざわざこちらがアメリカに出向く手間が省けた。パーティで奴と接触して消せ」


 冷酷に告げられた命にウィルはごくりと唾をのむ。有無を言わせない絶対的な命令。背筋を冷たいものが伝った。


 禍斗(かと)とは龍と相反する存在を言う。地脈の流れを正常に保つのが龍の役目ならば、禍斗(かと)は地脈を澱ませ吹き溜まりを作り、瘴気を生む存在だ。禍斗(かと)そのものに実体はなく、人の邪な心を媒介として成長する。人から人へと移り渡りながら禍斗(かと)はその存在感を増していき、最終的に宿った人物の肉体を乗っ取り実体化する。それが禍斗(かと)に魅入られた者だ。実体化した禍斗(かと)は濃い瘴気を放ち、周囲の人々の心を惑わし、そこに新たな禍斗(かと)を生む。そうして禍斗(かと)が集まり瘴気が生じることで地脈の流れが塞き止められ吹き溜まりができる。瘴気は澱み、更なる瘴気を発生させる悪循環が起こる。


 龍の役割は実体化した禍斗(かと)を排除し、実体化する前の禍斗(かと)を浄化して地脈の流れを正すことにある。実体化した禍斗(かと)を排除する方法はただ一つ。その肉体の生命活動を終わらせる以外に無い。古の昔より、龍は地上に存在する禍斗(かと)を葬ることで人間界の秩序を保ってきた。それに例外は無い。




 龍としての役目を果たす機会がこんなにも早く来た。


 招待状を握る手にじわりと汗が滲む。過去、歴代の龍として禍斗(かと)を葬ってきた記憶はあれど、今生に於いて人を手に掛けたことはまだない。龍としての任務なのだから人の世界の常識に照らし合わせて考えるのはナンセンスだ。だが、分かっていてもやはり緊張は否めない。


 そして、何故ロバートがウィルにパーティに参加させようとしているのかも理解した。


 ウィル――黒龍(ヘイロン)はその手で触れた対象を死に至らしめることが出来る特異な能力を持っている。


 龍はそれぞれが固有の特異能力を有す。黒龍(ヘイロン)の即死能力、白龍(パイロン)の治癒能力。赤龍(チーロン)は身体能力を爆発的に跳ね上げる能力を有し、そして青龍(チンロン)は瘴気を浄化する能力を有している。それぞれの特異な能力で協力し合いながらこれまでも禍斗(かと)と戦ってきた。


 禍斗(かと)を手に掛けてきた数だけで言えば黒龍(ヘイロン)は桁違いだ。そもそも黒龍(ヘイロン)は死を司る龍。これまでの歴史の中で最も多く禍斗(かと)を葬り去ってきた。禍斗(かと)に魅入られた者の中には社会的に地位立場のある者も多くいた。そう言った者を秘密裏に消すことが黒龍(ヘイロン)に与えられた使命だった。


 宝珠に与えられた使命は絶対的な正義だ。それに疑念を抱いたことは無いし、抱く必要もない。だが、今生を生きるウィルの人としての倫理観が僅かに抵抗する。


 禍斗(かと)は悪だ。放置すれば人心は乱れ、治安は悪化し、戦いに発展する。そうなれば多くの命が失われる。後に多数の死者を出さないために今、禍斗(かと)を葬る。絶対的正義の下に行われる殺人は悪ではない。だが人の世の倫理観に刷り込まれた、人を殺めることに対する忌避感が口を苦くする。禍斗(かと)に魅入られた者は人ではない、と完全に割り切れれば楽なのに、人の本性はそれをさせてくれない。

 黒龍(ヘイロン)である己と、人である自分の段差はいつの時代も埋められない。


「怖いか?」


 体に走る緊張を見て取ったのか、ロバートが訊いてくる。こちらを見据える眼差しは厳しい色をしている。


 ウィルは軽く息を吐いて首を横に振った。


「怖いわけじゃない」

「嘘を吐くな。身が竦んでいる」


 指摘されてウィルは眉を寄せる。


「本当だって。怖いんじゃない。ただ、今生の初任務だから少し緊張しているだけ」

「時期尚早なのは認める。」


 言ってロバートは軽くため息をついた。


四龍(スーロン)が揃っていない状態でお前にだけ任務を遂行してもらうのは負担だろう。だが、ディノと相まみえる機会はそうそうない。この機を逃せば次はいつ機会が巡ってくるか分からない。時期を逃せば逃した分だけ禍斗(かと)は肥大化する。それを止めるためにもお前にはやってもらわなくてはならない」


「分かってる。それが俺の使命だということも理解してる」


 黒龍(ヘイロン)の宝珠を抱いて生まれた宿命。人の世の理から外れた存在なのだから、人の倫理観を超えていかなければならない。分かっている。ただ、ほんの少し、己と自分を隔てる段差を乗り越えるのに心の準備が必要なだけ。


 伏し目がちに言って俯くウィルにロバートは静かな声で言う。


「早く禍斗(かと)を始末してしまえば、俺たちは只人として生きることができる。大任だがやってくれるな」


 ウィルは黙って頷いた。

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