それぞれの想い
翌日。ロンドン市内にある歴史ある高校の学舎。木々に囲まれた中庭はランチタイムを過ごす生徒たちの姿で賑わっている。日差しを遮ることのできる木陰のベンチはどの席も複数の生徒で埋まっており、楽しそうに会話を弾ませる彼らの表情はどれも皆明るい。そんな彼らを一瞥して、ウィルは手にしたサンドイッチを一口齧った。
中庭の端。学舎と渡り廊下に挟まれた場所に置かれたベンチは隣に物置があり、物で溢れて雑然としている。そのせいか、生徒たちには不人気な場所だった。だが、人があまり来ないその場所をウィルは気に入っていた。今日も売店で購入したサンドイッチとお茶を片手に一人静かにランチタイムを過ごしていた。
ぼんやりと中庭の様子を眺めていると、視界に一人の女子生徒が映った。長いプラチナブロンドの髪を靡かせて真っ直ぐにこちらへ向かって歩いてくる。ウィルと視線が合うと彼女はにこやかな笑みを浮かべた。
「またここにいるのね」
ウィルの目の前に来て、彼女は呆れたようにそう言って笑った。
「マリーこそ、俺がここにいるとよく分かったな」
可憐なる美少女、という言葉が比喩ではなく現実に当てはまる彼女は、こう見えて四龍の一人、白龍だった。ただ、白龍には戦闘能力は皆無だ。代わりに肉体と精神を治癒させる癒しの力に特化した龍、それが白龍だった。
「隣に座っても?」と言うマリーに頷くと、マリーは優雅な仕草でベンチに座った。
「昼は済ませたのか?」と問うとマリーは手にしたランチボックスを示す。どうやらウィルと一緒に食べるつもりのようだ。ランチボックスを開くと美味しそうなサンドイッチが入っている。マリーの家の料理人が造ったのだろう。彼女はそういう家庭の出身だ。サンドイッチを手にするマリーを見て、ウィルもまた手にしたそれを一口齧った。
「暫く飛龍の活動を禁止されたって聞いたわ」
サンドイッチを食べながらマリーがそう言う。マリーは飛龍の一員ではないが、白龍の力を飛龍に提供している協力者だ。どんなに重篤な傷であっても、白龍の力を持ってすれば一瞬で何事も無かったかのように治癒することが可能だ。銃創など真っ当な医者に掛かることが出来ない傷の場合は、乞われてマリーが治癒する。飛龍の一員ではないが、飛龍にとって、マリーはいなくてはならない存在なのだ。
「ロバートに聞いたのか?」
「貴方がちゃんと学校に来るか確認するように、って」
その言葉にウィルは苦笑する。ウィルもマリーも歴代の宝珠の記憶を持っている。それもあって二人とも成績は優秀だ。勉強しなくても知識が頭に入っているため、ウィルはつい学校をさぼりがちになる。それをロバートはよく分かっている。ウィルの学費はロバートが出しているため、監視がちなロバートに文句を言う訳にもいかない。
「肩も怪我しているって聞いたわ。治癒しようか?」
マリーの申し出にウィルは首を横に振る。
「君の手を煩わせる程の傷じゃないよ」
「それならばいいけど……」
ウィルは肩の傷に手を当て、僅かに視線を落とした。マリーの力を使わせるほどの傷ではないのは本当だが、赤龍が治療してくれた傷をすぐに治したくない、という気持ちがあった。赤龍が手当てしてくれたこの傷は、僅かでも彼との繋がりをこの身に持たせてくれるようで当分治らなければいいのに、とも思う。あの時、赤龍が見せてくれた優しさに縋りたい自分がいて、ウィルは心の中で苦笑する。こういうところが甘い、と言われるのだろう、と内心独り言ちる。
視線を感じて目を上げると、翡翠色の瞳が真摯な色でウィルを見ていた。その眼差しに、己の心中を見透かされそうで思わず視線を逸らす。
マリーは人の心を読む力に長けている。語らずとも、表情の微妙な変化から心中を推し量り、読み取ることが出来る。その翡翠色の瞳で見つめられると、心の中を全て暴かれそうな気分になり落ち着かなくなる。視線を逸らすことで逃げようとしている自分が小さい人間に思えて胸の奥が苦く感じた。
「赤龍とやりあったんですってね」
マリーの言葉に視線を向けると、マリーはその顔に困惑を浮かべながら小首を傾げた。
「赤龍と貴方が戦う理由がわからないわ」
その言葉にウィルは「俺もだよ」と答えて苦笑する。マリーの困惑は尤もだし、マリー以上にウィル自身が理由が分からず困惑している。
「赤龍は理由は教えてくれないの?」
「聞いても答えてくれない。会えば問答無用で攻撃してくる」
殺気の宿った赤龍の赤い目を思い出して背筋が震える。何故自分に対しあれほどの殺気を抱けるのか。いくら考えても心当たりは無いし、理解できない。
「変な話ね……同じ四龍の仲間なのに、何故赤龍は戦おうとするのかしら」
「それは俺の方が訊きたいな」
「そもそも四龍は神龍の元に従うべきなのに、ブラックウルフに身を置いているというだけでも理解し難いわ。一体何を考えているのかしら」
訝し気に眉を顰めるマリーに返す言葉をウィルは持たない。赤龍は思惑があってブラックウルフに身を置いていると言ったが、その思惑が何かを知る術が無い。
「貴方は五年間、赤龍と一緒に暮らしていたのでしょう。心当たりはないの?」
その言葉は鋭いナイフのようにウィルの胸を抉る。一緒にいた間はそれなりに赤龍という人間を理解できていたと思っていた。幼い頃から裏世界に生き、幾多の修羅場を潜り抜けた彼のことを知っている気になっていた。だが、今の赤龍については、彼が何を考えて行動しているのか全く分からない。五年間共にいても、自分は赤龍のことを何一つ理解できていなかったのだと思うと口の中が苦い。
「……あいつが何を考えて行動しているのか、俺にも全く理解できないんだ」
「私は今生の赤龍にまだ会ったことが無いから為人が分からないけれど、話に聞く限りでは随分頑なな人みたいね」
「そうかもしれない」
「赤龍にしては珍しいわね。どちらかと言えば感情的に動くタイプだったのに」
龍はその身に宝珠を抱くことで龍たり得る。宝珠に宿った記憶は代々受け継がれるが、人格については宿体の性格に左右される。だが記憶が人格に影響を及ぼす割合は決して低くは無い。受け継がれた記憶と宿体その者の人格が融合して今生を生きるが、過去の赤龍を思い返すと感情表現が豊かな人物だったケースが大半を占めている。今生のように感情を殺して行動するタイプはこれまでに無かった。
「あいつは……天狼は感情を殺すことに長けている。いつだって冷静で、大人で……でも、本当は優しいやつなんだ」
赤龍のその名を口にすると胸の奥にちくりと痛みが走る。彼の本当の名を知る者は少ない。幼い頃から赤龍と名乗り生きてきた彼を、記憶にある限り本当の名で呼ぶ者は自分以外にいない。それ故、彼の名を口にするときに僅かに感じる感情は、自分が他の誰よりも彼のことを少しだけ多く知っているという優越感なのかもしれないし、たったそれだけしか彼のことを知らないという悲哀なのかもしれない。彼の本当の名を口にする度に、自分にとって彼が特別な存在であることを再認識する
。
「赤龍のことが好きなのね」
唐突なマリーの言葉にウィルは目を見開いた。
「どうしてそう思う?」
咄嗟に否定できなくて、問い返したウィルにマリーはどこか寂し気な笑みを見せる。
「あら、そのくらい貴方を見ていれば分かるわよ。赤龍のことを語るとき、とても切ない顔をしているもの。自分も含めた周囲のことにあまり関心を見せない貴方が、赤龍に対してだけはとても執着しているように見えるわ。だから思うの。とても大切な存在なんだな、って」
静かにそう言うマリーにウィルは返す言葉を失う。隠していたつもりなのに、自分の気持ちを気付かれているとは思わなかった。図星を突かれたことに気恥ずかしさを感じてウィルは苦笑する。
「君には敵わないな」
「鋭い、って褒めてくれていいのよ」
「……軽蔑する?」
「私が?どうして?」
「だって……天狼は同性だ。同じ男に対してそんな気持ちを抱いているなんて、あまり歓迎されるものじゃないだろう」
「そんなこと思わないわ。人が人を好きになるのは自然なことで、好きになった人が同性か異性かの違いだけでしょう。私は全く気にしないわ。それに、今は多様性を重んじる世の中なのよ。それを忌避する価値観の方が歓迎されないと思うわ」
あっけらかんとして言うマリーにウィルは苦笑する。
「全く……君には本当に敵わない」
物事に動じない器の大きさは他の誰も比肩するものが無い。このおおらかさがマリー本来の気質なのか、白龍の性質に属するものかは定かではないが、少なくともウィルにとっては好ましいもので、救われた気持ちになって微笑んだ。
でも、とマリーはどこか憂いを帯びた目で口を開く。
「そんな大切な人から戦いを強いられているのは辛いわね。せめて赤龍が何を考えて貴方に戦いを挑んでいるのか知ることができればいいのに」
「……それが出来たら……こんなに苦労はしていないな」
「そうよね……」
赤龍が何を考えているのか、ウィルには皆目見当がつかない。五年間一緒に暮らしていたウィルが分からないのだから、まだ今生の赤龍に会ったことのないマリーには更に分からないだろう。流石の龍とて会ったことのない人の心を読む能力は無い。
考え込むように押し黙ってその場に沈黙が流れる。空は穏やかに晴れ、辺りを包む空気は二人の心情などお構いなしに心地よい陽気を運んでいる。中庭から流れてくる賑やかな喧騒がどこか浮足立って二人の周りを包んだ。視界には楽しそうに談笑する生徒たちの姿が見える。自分たちもその生徒の一人なのに、内実はまるで違う。決して口外することのできない秘密を抱えている身にどこか居心地の悪さを感じてウィルは小さくため息をついた。
ややして、意を決したようにマリーが口を開いた。
「ねぇ、ウィル。私じゃ赤龍の代わりになれないかしら?」
「……っ」
唐突なその言葉にウィルは息を呑んだ。見返したマリーの瞳は真摯な色をしていて、どこか緊張したようなその表情はウィルの胸を突いた。
「私だったら……貴方にそんな悲しそうな顔はさせないわ。貴方を傷つけるようなこともしないし、させない。全力で幸せにしてみせるわ」
力強くそう言うマリーにウィルは表情を曇らせる。
マリーの気持ちには薄々気付いていた。ウィルだって朴念仁ではない。同じ学校で、同じ学年で近しい間柄と言うことを差し引いても、マリーが自分に向ける好意がただの友人に向けられるそれとは違うことくらい分かっていた。だが、それに気づかないふりをしていたのも事実だ。
ウィルの心には赤龍がいる。彼がいなくなってからもずっとその存在は褪せることなく、寧ろ、より強く鮮やかに心に焼き付いて離れない。彼以外の存在を心に入れる余裕がウィルにはない。気が無いことをあからさまに態度に出すことは相手を徒に傷つけるだけだ。だから敢えて気付かないふりをしていた。
しかし、こう真っ向から気持ちを伝えられてしまえば応えざるを得なくなる。ウィルは一旦視線を落とし、手の中のサンドイッチを無為に握る。カサ、と包み紙が小さな音を立てて皺寄る。寄せられた好意にノーを突き付けなければならない苦痛が胸を重くする。
視線を上げると翡翠色の瞳が緊張したように揺れながらこちらを見つめている。その眼差しを見返して、ウィルは口を開く。
「……ありがとう。でも、君を誰かの代わりにするなんて、そんな失礼なことはできないよ」
「失礼とか、そんなこと」
言いさしたマリーの言葉を遮って
「いや、それは君に対する侮辱だ。君は他の誰でもない。俺は誰かの代わりに君を利用するようなことは絶対にできない。それに、俺にとって天狼もまた唯一の存在だから……誰かを代わりにすることなんてできない。ごめんな」
器用な言い回しは出来ない。愚直に伝えるしか手段がない。ただ、真摯な思いを込めてマリーに告げた。
マリーを傷つけたいわけではない。同じ四龍の仲間であり、同級生でもあるマリーは大切な存在だ。ただ、その想いに応えることはできない。赤龍を想いながら他の誰かの想いを受け入れることは出来ないし、赤龍のいない穴を他の誰かで埋めることなどウィルには絶対にできない。
真っ直ぐにマリーを見つめ言うウィルの表情から真意が伝わったのだろう。マリーは悲し気に微笑んだ。
「貴方の気持ちが堅いのはよく分かったわ。変なことを言ってごめんなさい。」
そう言って軽く目を伏せる。少し物思いに沈むように俯いたマリーは何かを自分に言い聞かせるように小さく頷くともう一度視線をウィルに向けた。
「でもこれだけは覚えておいて。私はいつだって貴方の味方だし、貴方の力になりたいと思ってる。私で力になれることがあれば何でも言って欲しいの」
毅然とした態度でそう言うマリーの顔にはどこか諦めを含んだような達観した色があった。想いを受け入れてもらえなくとも力になりたい。マリーのその優しさに罪悪感を抱きながらウィルは小さく微笑んだ。
「ありがとう。その気持ちだけで充分だよ」