8,言葉にならない
定時に仕事を終えたアリスは「お疲れ様です!」と足早に職場を後にする。
目的は、翌日の王宮訪問へ向けて、手土産を確保すること。
(私、嘘で巻き込む前から、知らないうちにプリンスに借りを作りまくっているっぽい……! こうなった以上は、絶対にものすごい献上品を用意しないと。どこで買えばいいかな。あっ、赤坂に王室御用達のベルギー菓子がなかったっけ。いやでもどうだろう、昨日の殿下はスイーツをお召し上がりではなかった……。お酒を持って行くって言ったから、やっぱりお酒かな。焼酎? 良さげなシャンパン? 量販店ならドンペリでも割と普通の値段で買えるけど。いや、待って。そういうのは、好きじゃなさそう。安くて美味しくて系列店で使えそうなお酒をプレゼンするのがベストでは。いやそれもう仕事)
ぐるぐると考えているうちに、これはひとりで考えても答えが出ないと結論づける。
道の端に寄ってバッグからスマホを取り出すと、アプリから「弓倉海」を選択。
まっさらで、これまでのログが何もない画面に向けて、文字を打ち込む。
←白築です。お忙しいところすみません。サプライズ苦手マンなので、率直に聞きます、明日の手土産は何がいいですか。お時間あるときに返事をお願いします。
すぐには気づかないだろうと待つつもりであったが、返事はすぐにあった。
→お疲れ様。
スタンプではなく、メッセージである。見た瞬間、アリスはスマホに頭を打ち付けそうになった。
(そうですね! 社会人なんだから「お疲れ様」からですよね。それじゃなくても挨拶からですよ。思いっきり用件のみメッセージしちゃった。もう私の無礼さがサプライズ)
落ち込みながら「お疲れ様です」と入力しているうちに、短文のメッセージが続けて届く。
→まだ買っていないなら、何もいらないです。
→昨日は俺もぼんやりしていたけど、明日はお酒なしで。昼間からだし。
→帰り少し遅くなっても、車で送るから。
→夜道が心配です。
はぁぁ、とアリスは深いため息をついてしまった。
(モテオーラがすごい! 私の身の回りにはいなかったタイプ過ぎる。義兄弟じゃなかったら惚れてる。これで私の彼氏だなんて冗談言わなきゃ、完璧なのに。昨日キスしなくて良かった。絶対、付き合っている気分になっちゃった……)
とはいえ、ここで「それではお言葉に甘えまして」と引き下がると、また借りが増えそうだ。何か用意したい。
もう少し準備に時間を取れたら、お取り寄せでおすすめを探すのだが、さすがに一日では無理がある。
どうしよう、なんと言おうとまたもやぐるぐる考えているうちに、入力しかけていた文字を送信してしまった。
←お疲れ様です。
完全に、タイミングを逸している。しかし、プリンス弓倉たるもの、どんなパスでも拾うらしい。
→ありがとう。俺は少し残業があるけど、白築さんは仕事上がっているなら、気を付けて帰って。
→明日はゆっくりどうぞ。家を出てから連絡ください。
→最寄りは横浜駅だから、着時間教えてくれたら迎えに行きます。
→手土産は本当に、気にしなくて大丈夫。気楽に来てくれた方が嬉しい。
→また明日。
会話クローズ。
メッセージが途切れたのを確認し、アリスは深く息を吐き出して、スマホを握りしめた。
本当は、気の利いたひとことくらい送りたかったのだが、咄嗟に適切な文言が何も思い浮かばなかった。タイミングを外しながら断続的にレスをすると、仕事中の海に迷惑かもしれないと、それ以上のメッセージを控えておく。
ぼんやりと歩き出しながら「本当に、パーフェクトだなぁ」と呟いて、空を見上げた。
(プリンスはやっぱり、言葉のキャッチボールが上手い。商談も強そう。昨日だって、別れ際にきっちり次の約束取り付けていたもんね。一度に契約がまとまらなくても、すかさず次の約束を取り付けるのが営業の基本だって誰かが言ってたな……)
まるで難しい仕事先と確実に契約を決めようとしているかのように、海の言動には隙がない。
しかしアリスは取引先どころか、すでに会社に雇われている身だ。いまさら実力派プリンス弓倉(推定年俸四桁)が、必勝の営業テクニックを駆使して確保に動くような相手ではない。どうも本気の使い所が違うのでは、という気がしてならない。
「やっぱり昨日、気持ちよく飲みすぎた。会話も脱線しすぎたし。次は、お酒なしにしようって話にもなるよね。もっと真面目に話さないと」
口の中でぶつぶつと言いながら駅に向かって歩いていたとき、視線を感じたような気がして、アリスは辺りを見回す。
ひとの行き交う雑踏の向こうに、見知った男性の姿を見つけた。
(彰久……!)
先にアリスを見つけていたらしく、目を逸らさぬまま向かってくる。
数日前だったら「いま帰りー?」と明るく声をかけていた相手だというのに、今は足が震えるほど恐ろしい。
「やだ……なんで……」
混雑する時間帯で、周りにはひとがいる。
通り魔のように、突然襲われることはないだろうと思う。
であれば、下手に動揺しないほうがいい。相手は同じ会社の社員であり、アリスはプライベートにおいてお金をせびられて迷惑をかけられた側だ。ここは毅然として「あのお金、返してくれる?」と言うのが正しい。
頭ではわかるのだが、体が動かない。
(せめてスマホ。録音機能ってどうなっているんだっけ。録画にしておけば、音も拾う? たぶん、後のことを考えると会話は保全したほうがいい)
手の中にあるスマホを、どうにか起動させねば。
だが、手が震えてなかなか言うことをきかない。指で画面をスライドさせたものの、カメラが起動したかまでは確かめられない。彰久が恐ろしすぎて、目を逸らすことが出来ない。
なにしろ、どんなに大丈夫だと自分に言い聞かせても、彰久はこの三ヶ月ほど、アリスを陥れるために結婚をちらつかせて甘い顔をしつつお金を捲き上げた、詐欺師である。
何を考えているかわからない悪人であり、一般人のアリスには手に余る相手なのだ。
「アリス。会えて良かったよ、待っていた甲斐があった。迂闊に、アリスに連絡した履歴を残したくなかったから」
彰久は、スマホを握りしめたまま固まっているアリスの前に立ち、笑いながら声をかけてきた。
「何か用……?」
「昨日の。弓倉部長の女っていうのは、嘘だよな。俺にふられた腹いせにしては、なかなか大胆な嘘だったとは思うけど、他の奴は騙せても、俺は騙されないぞ。お前があんな上等な男と付き合える女じゃないって、俺はわかっているから」
くっと、アリスは奥歯を噛みしめる。
(それはもう、私はこんな下等な男と付き合っていた女ですからね。プリンス弓倉にふさわしくないってのは、言われなくてもわかるわよ。プリンスには、パパ活目的じゃない、折り目正しく性格の良い美女がお似合いですよ。ものすごく素敵な彼女がいてほしいって、私だって思うもん)
思うことはたくさんあるのだが、うまく口がまわらず、声が出ない。
下手に言い返して、逆上されたらどうしようという不安がある。
そもそもいまの彰久は、決して状況が良くない。自分ではうまくやっていたつもりかもしれないが、世の中甘くない。
どの時点から海を始めとした上層部が事態を把握し、動いていたのかはわからないが、このまま当事者を地方転勤させて終わりでは済まないだろう。
破れかぶれになっている恐れもある。
自暴自棄に陥った人間がどんな突拍子もない行動に出るかは、アリス自身が身を持って経験済みだ。
(課長の件も、気になるのよね。彰久への肩入れの仕方に、違和感があるもの。あっちもハニートラップに引っかかってない? うっ、ハニトラなんて、気持ち悪い)
あとから考えれば、アリスは果たして本当に、彰久に恋をしていたかどうかもわからない。
何かの心の隙間につけこまれてしまっていたのは、間違いないのだが。魔が差したかのように。
「ソシャゲの課金みたいな感覚で、言われるがままに簡単にお金を渡したのはほんとになんだったんだろう。自分が嫌になる」
思わず呟いたところで、彰久が唇を歪めて笑った。
「その話は、言いふらさないでほしい。借りた金はいずれ返す」
「そんなの、信じられない。借用書作ろうかなって私が言ったとき『冗談だよな。俺とお前の仲で』って流したよね? 最初から、返すつもりなかったじゃない」
反射的に、強く言い返してしまった。
彰久が「人聞き悪いなぁ」と小馬鹿にしたように言う。
「借りた金は返すつもりはあったよ。九州に行くって借りた十万円、北海道に行くって借りた十五万円。それから……。自分でちゃんと記録つけているから大丈夫だ。だけど、すぐには無理だから、待っていて欲しい。その間に言いふらされると、困るんだ。お前だって変な目で見られるだけだぞ。どうせ会社に、お前の言うことを信じる奴なんかいないけどな。弓倉部長の婚約者だって? ウケる」
ひひっと笑われた瞬間、アリスは恐怖も忘れて食ってかかる。
「斎藤さんはいちいち意地が悪い。というか、私が変な目で見られるような状況を作ったのは、斎藤さんだよね? 私がストーカーしているなんて、嘘の噂で周りの社員に働きかけ孤立させていたって、私ちゃんと聞いたよ!? それで自分は地方に逃げて終わりにするつもりだったかもしれないけど、私は本社に残るの。この後、周りと今まで以上にコミュニケーションとって誤解を解いていくから!」
話している間に、彰久に距離を詰められていた。
「だから、それをやめろって言っているんだ。お前は仕事はともかく、プライベートは全然他の社員と関わらないから、ずっと孤立していただろ。飲み会で馬鹿にしている奴だって結構いたぞ。なあ、そのスマホを貸してくれ。残しているっていうスクショを消して欲しいんだ。どうせ昨日の今日で、証拠保全で誰かに送ったりもしていないだろ」
言われた瞬間、その手があった、とアリスも気づいてしまった。
「ク……クラウドに上げてるから」
「それも嘘だ。お前、そういうの疎いから。ほら、乱暴なことされたくなければ寄越せ。こんなことなら、人には見せられないお前の写真でも押さえておくんだったな。お前と約束入れていた日は、課長に報告入れていたから、そのへんやりづらくてな」
「それって、写真があったら脅しに使いたかったってこと?」
にやっと彰久が笑った。そのまま、素早い動作で手を伸ばしてきて、アリスのスマホを強引に奪い取ろうとする。
「やっ」
そこで、目の前に体をねじり込んできたひとがいた。
見上げる長身に、広い背中。かすかに、覚えのある香り。
息を呑んだアリスの前で、肩越しに振り返った海が、目を細めて低い声で言った。
「アリス。俺がいるから、大丈夫」
目を瞬いたアリスは、シャッター音に気づく。
すぐ横で、海と同じくらいの長身でスーツの青年が、現場写真よろしくパシパシとスマホで連写をしていた。
(秘書課の……弓倉部長付きのなんとかさんだ。そうだ、弓倉部長って女性秘書はつけないって聞いたことあるような気がする)
ほとんどボディガードのような体格のその秘書は、彰久が逃げ出そうと身を翻すと、その場ですぐに取り押さえた。
その光景を横目に、海は取り返したアリスのスマホが録画状態になっているのを確認し、落ち着いた口ぶりで話しかけてきた。
「さっき、総務に斎藤さんが顔を出したって聞いて、どこかで鉢合わせするんじゃないかって、会社を飛び出してきたんだ。声をかけられたのは、俺とメッセージした後? これ録音できているみたいだから、俺に転送して。証拠は多いに越したことはない。よく頑張ったね」
その声があまりにも優しくて、アリスは膝から崩れ落ちそうになった。気づいた海が、危なげなく手を伸ばしてきてアリスの体をしっかりと支える。
あうあうと、アリスは声にならない声を上げる。喉が熱い。涙がこぼれそうになる。到底言葉にはならない気持ちのまま、アリスは海の胸に額を寄せた。