7,即死フラグを叩き折ったのは
――俺は趣味が料理とゲームで超インドアだから、休みの日は絶対家から出たくない。
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知り合って即おうちデートは、死ぬほどハードルが高い。
成人女性のアリスは、その点をよくわかっているつもりだ。
酔った勢いとはいえ、軽はずみな約束をしてしまった自覚はある。
一方で、海の本音らしきものを聞いてしまっているので「やっぱりどこか外で待ち合わせをしましょう」とは非常に言いにくい。
(私も、家に招いたわけではないとはいえ、いきなり最寄り駅のお手頃居酒屋にご案内してしまったし。こっちのホームに引きずり込んでおいて、プリンスには「主義を曲げて家を出てきて、不本意な休日を過ごしてほしい」とは、言いにくい。言えない)
ここでアリスが拠り所とするのはただひとつ、海が意外とギラギラした人間ではないという事実だ。
はっきりとは言っていなかったが、あの海に「遊びに連れて行ってください」と言い出す女性は、おそらくとんでもない美女たちのはずだ。広報部の仕事内容を考えれば、芸能人の可能性もある。
その美女たちに対して「パパ活かよ。俺に言うことじゃない」でお断りするというその発言からは、女好きの匂いがまったくしなかった。
こうなるとアリスに対しての「料理作るからうちに来ない?」は本当にただの遊びの誘いで、言うならば主君である劉備が関羽に声をかけているだけの感覚であっても、何もおかしくないのだ。
(私が諸葛亮なら三顧の礼くらい焦らすのかもしれませんけど、この後プリンスに破竹の勝利をもたらす名軍師にはなれるとは思えませんからね。やっぱり手堅く関羽ですよ。素直に言葉通りに受け取って、美味しいご飯を食べるつもりで行けばいいのでしょうか)
行きつけの居酒屋という心休まる場所で、楽しく会話をして美味しいお酒を飲んで帰宅して熟睡し、いつも通りに会社に出社したアリスは、仕事をしつつも翌日に迫ったプリンスの自宅訪問で頭がいっぱいだった。
「……だってプリンスが住んでいる場所ってことは、そこはもういわば王宮。手土産は日本酒で大丈夫なのかな……」
悶々と悩んでいたところで、アリスの方をちらちらと見ていた隣席の石塚が、こそっと話しかけてきた。
「白築さんはこういう話好きじゃないと思うけど、ひとことだけ言わせて。昨日の斎藤くんの送別会、全然盛り上がらなかったわ」
斎藤? と、百億光年の彼方に置き去りにしてきた名前を耳にして、アリスは石塚へと顔を向ける。
頭の中が日本酒の銘柄でいっぱいになっていて、おかしなことを口走りそうになり、一度呑み込んだ。
気持ちを落ち着けて、返事をする。
「お気遣いありがとうございます。私も昨日の件から、いろいろ考えました。今まで『噂話に首をつっこまず、会社であまり私語をしない』自分のことを、結構イケてるって思っていたんですよ。でも、そのせいで皆さんから見た私はとても声をかけにくい空気だったと思います。また何かあったら教えてください。送別会が盛り上がらなかったって話、めちゃくちゃ面白いです……」
結婚詐欺師の不幸を楽しむ本音が出てしまったと、口にしてから気づいた。
だが、石塚は妙にほっとしたような表情で、素早く肩を寄せて耳打ちをしてきた。
「課長よ。入社以来、斎藤くんにずっと目をかけて可愛がっていたから。その彼から『白築さんからストーカー被害を受けている』なんて相談されて頼られたものだから、義憤というか……盛り上がっちゃったみたいで。絶対に、白築さんを会社から追い出すって息巻いていたんだけど」
「ええーっ、それって私、かなり立場危うかったってことですか?」
ぞーっとして、アリスは顔を強張らせる。
石塚は頷きながら「そうよ、アナタ」とさらに身を乗り出してきた。
「斎藤くんが『結婚したい相手が地方の営業所にいる、いい機会だから現場職として転勤したい。遠距離中の結婚相手に変な形で話が伝わると嫌だから、社内で大事にして欲しくはない。転勤ギリギリまで白築さんにはその事実を伏せておいてくれるよう、みんなに協力をお願いしたい。白築さんの降格人事があるとしても、報復の恐れがあるから、動き出すのは自分がいなくなってからにして欲しい』って。それでみんな動けなくて」
「課長がそれを真に受けて、自分の判断で部署内に徹底したってことですか? はぁ~……悪どい」
そんな悪人は滅びろ、この世から消え去れ、という暴言はひとまず口に出さずに堪える。
(ようやく事情飲み込めてきたかも。たしかに、私は課長と折り合いが悪かった。次の人事で課長がどこかに飛ばされて私が昇進する可能性は十分あったと思う。そんなとき、もともと目をかけていた若手男性社員に頼られた上に、私を陥れるのに使えそうなネタだったから、しっかり利用したんだ)
見込み違いがあったとすれば、アリスの気質を把握していなかったことだろう。
元からさほど周囲と深く付き合っていなかったので、よそよそしくされても特に気づかず、その点ではまったくダメージを受けていない。もしかしたら、露骨にアリスを避けている社員もいたのかもしれないが、気にしていなかった。
もっとも、そのせいで彰久の結婚詐欺は成立してしまったのだ。
無頼気取りの孤立は危険だと、アリスは思い知った。
しみじみそう考えるアリスの横で、石塚はため息とともに呟いた。
「課長に見込みちがいがあったとすれば」
「えっ」
心読まれた? とびくっとしたアリスを不思議そうに見つつ、石塚はそのまま続ける。
「たぶんこの後、幹部まで社員の重大事案として話を上げるつもりだったと思う。というか、もしかしたらもう手を打って話を通していたかもしれないけど。昨日あの場で、まさかのプリンスが出て来たことよね」
「あ~」
間抜けだと思いつつ、アリスはもう「あ~」しか言えない。
(それだ! プリンス弓倉が私と彰久の立ち話を聞いたっていうのは眉唾だと思っていたけど、話自体は実際に、先に耳に入っていたのかも。あの性格なら、真偽を見極めようとして自分で調べていた可能性もある。ということは、昨日あの場に来たのは偶然でもなんでもなくて、大鉈振るいに来ていたとか……?)
そのつもりの海が動き出す前に、アリスが動いてしまったのだ。
アリスとしてはバッドエンド直行の選択肢に飛び込んだつもりだった。だがそこで、全部を把握していた海が、強引に即死フラグを叩き折って生存ルートに切り替えたのだ。
もはや海にとっても捨て身でしかない、婚約宣言に乗る形で。
(プリンス、マジでプリンス……! 関羽がついていきたくなるわけですよ! そんな男気を見せられたら、どんな武人だってイチコロですよ。ブロマンスの極み……見た目があんなイケメンなのに、中身もカッコイイなんて。プリンス弓倉は天上人すぎる)
昨日あれほど長い時間二人きりで飲んでいたのだから、アリスに全貌を話す機会はいくらでもあったはず。
それなのに、海はまったくおくびにも出さなかった。
アリスに恩を着せることもなく、あろうことか「交際宣言をした以上、自分は本当に交際したい」とまで言い出したのだ。
悪いひとに騙されないか心配になるくらい、まっすぐだ。
悪いひとに騙されたばかりのアリスに心配されても、彼の心には何も響かないどころか「白築さんがそれを言うか」と残念そうな顔をするだけもかもしれないが。
「ね、白築さんとプリンスがお付き合いしていたなんて、全然知らなかったわ。誰も知らなかったと思う。『アリス』って堂々と名前呼びしたとき、素敵だったわね~。あれはどっちから? 白築さんの方から言ったの? アリスって呼んでって」
今度は自分が聞く番、情報はトレードとばかりに興味津々といった様子の石塚に聞かれて、アリスは「いえ」とそこはきっぱり訂正した。
「私は、関羽って呼んでくださいって言ったんですけど」
「……ん?」
目をぱちぱちされてしまった。「忘れてください」と、アリスは会話を強引に終えようとする。
(私はどうも、昔から雑談が苦手なんですよ。中身のあること言えないし、話がなかなか弾まないで、相手に変な顔させちゃう。昨日何時間も平然と話していたプリンスは、謎。なんだったんだろう)
石塚は深くつっこんでくることはなく、話が長引きすぎたのを気にするように、アリスにこれで最後とばかりに声をひそめて言ってきた。
「昨日の送別会では課長は蒼白だったし、斎藤くんも調子悪そうにしていたわ。みんなで勝手に飲んで食べてさっさと解散したの。あれなら、行かなくても良かったわ」
アリスは何か追い打ちめいたことを言おうとしたが、咄嗟に何も思い浮かばず会話はそこで終了となった。
(因果応報……って言いたいところだけど、どう考えてもこれはプリンス効果ですね。昨日、プリンス弓倉が私のキャリアアップに関して「もう少し頑張れ」って言っていたけど、私の知らないところで私の業務成績調べ上げていたのかも)
その上で「お前はお前で、課長とすげ替えるほど優秀じゃないぞ」とありがたい忠告をしてくれたのかもしれない。
こうなった以上、仕事時間は仕事に真面目に向き合うべきだ。結果を出さなければと、自分に言い聞かせる。
それからは、集中して業務に取り組んだ。
彰久は転勤準備のため公休なので、もとから出社しておらず、視界にいない。
課長はアリスのことを気にしている素振りはあったが、業務上話す用事がなかったので自分から話しかけることはなかった。