6,小悪魔のデレ5秒(後編)
テーブルに、徳利と猪口二つが届く。
(こ、これは……! 「お注ぎしますよ問題」が発生する!)
アリスは瞬間的に緊張したが、現在ゲストである海に対して迷惑をかけている立場でこの食事会はお詫びのようなものでありしかも海は年上で目上で……と自分の中でめまぐるしく理由を並べ立てている間に、海がひょいっと徳利を持ち上げた。
「白築さんのアルコール耐性よくわからないから、俺から勧めるのは良くないかもしれないけど。とりあえず一杯。義兄弟の契り交わしておく?」
「あの、弓倉部長は劉備玄徳でいいと思うんですけど、私は関羽雲長でいいですかね」
「それは『張飛ではないです』という強い意志なんだろうか。というか微妙に詳しいな。ちなみに俺は、好みで言うと諸葛亮孔明がいいです」
「桃園の誓いのときには、いませんよね?」
「やっぱり微妙に詳しいな……」
また脱線しそうになる。アリスは「ありがとうございます」と注がれた猪口を手にして、軽く咳払いをして喉を整えた。
「私は、おもしれー女というのは『ひとを楽しませられるなんて、エンターテイナーだな!』って意味の褒め言葉だと思うんですけど、自分がそう言われるのに微かな抵抗があるんです。『天然』とか『不思議ちゃん』とか『変わってるよねー』もそうです。相手に悪気がなくても『キャラ作っててあざといけど、自分で気づいてないよね!』って言われたように感じるといいますか」
海は、不思議そうな顔でアリスを見ていた。
伝わっているかどうか半信半疑ながら、アリスは考えつつ話を続ける。
「レッテルみたいなものじゃないですか。深く知り合ってからしみじみ言われるならともかく、よくわからない段階でそう言われると『要するに君ってそういうキャラだよね』って決めつけられるような。その人間関係の中では、そういうポジションにいて欲しい、という圧力といいますか。わがままだとは思うんですが、私はそれが嫌で……」
「うん。言いたいことはわかる気がする。俺もそう思うことはある。『御曹司キャラなんだから、ギラギラしていて欲しい』と期待されるのは好きじゃない。お、この酒美味しいな。するする飲める。うちの系列店でも扱うかな。覚えておこう」
猪口のお酒を飲み干し、海はそのまま手酌で二杯目を注ぐ。
一切、アリスに注がせる隙を作らないのが、さすがという印象だ。
(今までプリンスがどういうひとなのか考えたこともなかったけど、コンプラ的にわりとパーフェクトでは? 恩に着せたり女性に優しい俺もアピールしてこないし)
ザ・自然体。
ただし、アリスにとってはやはりまだよくわからない相手なので、これが海の素なのかどうかはわからない。
何しろ、騙されて百万円貢いだ女である。自分の人を見る目は疑っておいたほうがいい。
海は酔いに目元を潤ませて、「俺の話になるけど」と前置きをして話し始めた。
「さっき白築さんに『女避けになってほしいとは思わない』みたいなこと、勢いで言い返してしまったけど、普段言い寄ってくる女性が面倒だと思うことは実際あるんだ。東京育ちで実家が太くて、高収入で日頃から政財界の重鎮とも会う機会があるとなると、変な期待をされるんだよ。六本木に行きつけのクラブがあって、顔を出せばVIPルームに案内されているんじゃないか、そういうツテがあるんじゃないか、とか」
「ああ……それはギラギラですね」
同じ会社に勤めているとはいえ、アリスは海のことを住む世界の違うひとだと思っていたので、その生活ぶりについて考察したことはなかった。だが、自分にもワンチャンあるかもと思っている女性は、海をそういう目で見ている可能性はある。
「俺自身は、そういう遊びに全然興味ないんだ。男同士の飲み会で『男だけだとつまらないから、女性を呼ぼう』というのが理解できない側」
「それはわかります! 私には兄がいるんですけど、たまに会うとそういうこと言ってます。『男だけでいいよ、女の人に気を遣うの面倒だから!』って。女性のいる飲み屋は苦手とか」
「それ! 俺もそう。だけど、俺を『ギラギラした男』のイメージで見る女性は、俺がそういう人間とは考えていない。本当に『六本木のクラブにつれていってほしい』って言ってくる。なんで? パパ活? 俺に期待するのは違うんじゃないか? ってすごくぎょっとする」
海の言葉には、嘘がないように思えた。
普通の二十代が、本音で話しているように見える。
(普通というには、やっぱりものすごーく、キラキラして見えますが。うん、ギラギラではないですね。白馬の王子様級のキラキラであっても、ギラギラではないです)
酔いでまわらぬ頭で考えながら、アリスはうんうんと深く頷いた。
「わかります。私も合コン行くより、桃園の誓いのほうが気が楽ですから」
「楽ではない。会社帰りにカジュアルにするものじゃないよ、桃園の誓いは。義兄弟が際限なく増えるのは面倒だから、俺はこれで打ち止めで。白築さんだけでいい」
早口で言い終えてから、海はくいっと猪口を傾ける。
「白築さんなんて言い方、水臭いですよ。関羽だって言ってるじゃないですか。役に立ちますよ、関羽は」
しょうもないことを言いながらアリスも猪口を傾ける。日本酒が美味しい。
飲んだことのあるお酒であったが、今までで一番美味しい、と思った。
(なんか急に気が楽になった。肩の荷が下りたみたい。やっぱり、プリンス弓倉とサシ飲みなんて、怖かったんだな、私……。責任を取らねばという一心だったけど、未知の相手だし)
どんなつもりで、海はここにいるのだろうとか。
自分はどう思われているのだろうとか。
どれだけ会話が弾んでいるように思えても、海が頭の良い人間で全部合わせてくれているだけかもしれない、気が合うわけでも、自分に好意があるわけでもないのかもしれないと、ずっと緊張していたのだ。
それが、この瞬間に不意に「大丈夫だ」と思えた。
「六本木のクラブなんか、考えるだけで怖いですよね。絶対行きたくない」
「そうそう。俺は趣味が料理とゲームで超インドアだから、休みの日は絶対家から出たくない。誘いもほぼ無視。『お前がいると、女の子たちが喜ぶんだよ』って飲みに連れ出そうとするオッサンとか、ふつーに契約切るから。『枕営業はしてないんですよ』って。コンプラやばいひとと繋がっていて、危ない橋渡らせられるのも嫌だし。会社かかっているから、そのへんは慎重になる」
「言いそう。変な話きっぱり断るの、大切ですよね。あと、インドア趣味で仕事とプライベートにメリハリつけているひとが、そういうところシビアなのもわかります」
「個人的にも、無駄な時間は使いたくない。まずい酒は飲みたくない。今日みたいな美味しい酒しか飲みたくないんだ」
「意外と、味覚は庶民なんですね」
褒め言葉のつもりでアリスは言ったのだが、海に睨みつけられた。
(あれ、いまの気に障った? どこが?)
いけませんでしたか? と首を傾げて、アリスは視線がぶつかったままの海を見つめる。
先に視線を外したのは、海の方だった。
「白築さん、結構酔ってると思う。帰り、送るから」
「大丈夫ですよ! 駅から徒歩十五分の好立地なので」
「遠いよ。そんな状態でひとりで帰すわけにはいかないから、黙って俺に送られてなさい。家に上げろなんて言わないから」
普段はひとりですよとアリスは言い張ったが、会計を済ませて店を出ても海は納得せずに「絶対送る」と言い張っている。
いつまでも言い合っていると、終電がなくなるかもしれないと気づき、アリスは家に向かって歩き出した。
付かず離れず、肩を並べた海は「道が暗い」「人通りがない」とぶつぶつ言っている。
「プリンスうるさいです。東京の一人暮らしなんて、みんなこんなものですよ。プリンスはタワマン住まいですか?」
「家を出てマンション住まいしてる。仕事の資料とか荷物はそれなりにあるから、ワンルームではないけど。キッチンの使いやすさ重視で選んだ」
「本当に料理が趣味なんだ……」
疑っていたわけではないが、少し不思議な気がした。アリスは、楽ができるなら楽をするに越したことはなく、一人暮らしの自炊もあまり効率が良くないと考えているので、滅多にしない。趣味にするというのが、ピンとこないのだ。
思わず「料理かぁ、しばらくしていないなぁ」と呟くと、それを聞きつけたような海にさらっと言われた。
「明後日の土曜日、予定が無いならうちに来る? 作るよ。今日の白築さん見ていて、だいたい好みわかったし」
「ええーっ、プリンスの家にですか? 私が? なんで?」
「付き合ってるから? 俺は今日、白築さんに婚約者宣言されて、先ほど正式に受けることを伝えているので、彼氏なんですが」
「えええええええ」
「住宅街に響くよ、声はもう少し控えめに」
はい、と言ったもののアリスの頭の中はぐるぐるとパニック状態だった。
(彼氏? プリンスが彼氏? たしかに、一度も交際宣言を否定されていないし、結婚を前提に付き合うって言われたけど……なんで?)
街灯の下で、アリスは海を見上げて尋ねてしまった。
「私のこと、よく知らないですよね? 百万円詐欺でカモられた女ってことくらいしか知らないと思うんですけど、どうしてお付き合いする気になっているんですか?」
「再三言っているように、面白いから。『おもしれー女だな!』ってノリじゃなくて、このひとだったら俺の料理食べて美味しいって言ってくれそうだなとか、そういう感じ」
「好き嫌いもアレルギーもないですし、自分の作ったさして美味しくない料理も美味しくいただけるので、まあそうですね。ひとの作ったものに文句をつけることはないですが」
回答として正しいのかよくわからないが、自分なりに見解を述べているうちに、自宅マンションの前についてしまった。
「ここです。今日はありがとうございました。駅まで大きい道だけ通って帰れますけど、迷わないでくださいね」
「大丈夫。そのへんでタクシー拾うから」
しれっと言われて、そうだなぁ、とアリスは納得してしまった。
(もしかして、私に気を遣ってくれたのかな。駅前でタクシー拾ってここまで来ればすぐだったのに、私が支払いがどうこうで揉めそうだから。十五分も歩かせてしまった……)
すでに居酒屋で揉めた後である。迷惑料として全額払うつもりだったアリスに対し、海は「自分の方が多く食べたから」と言って奢りを断固拒否し、割り勘になっていた。
大方、タクシーを使わなかった理由はそのへんだろうと、アリスは自分の考えに納得する。
海は、アリスを見下ろして、軽く首を傾げて尋ねてきた。
「明日は一日、会社で大丈夫そう? まだバタバタしていると思うけど」
「あ、それは平気です。ここで弱気になって休んだりすると、月曜日以降引きこもっちゃうかもしれないので。そう考えると、土日に予定がないのも心配になるから、お誘いを受けたほうがいいかもしれないですね。私も、今日プリンスの食べっぷりを見て好みを把握したつもりなので、お酒か何かお持ちしますよ」
「ありがとう。あとで連絡する」
海がスマホを出したので、アリスもバッグから取り出して、連絡先を交換する。
これで今日が終われる、と思ったところで、海が「あのさ」とぼそりと言った。
「斎藤さんの件、本当に大丈夫? 付き合ってたんだよね。引きずらない?」
「大丈夫ですよ。もともとは残業中に、落としたもの拾うときに出会いがしらの事故みたいにぶつかってキスして『これも何かの縁かな』みたいな話になって、そのまま飲みに行って付き合い始めただけなので。泊まりデートとか一切していないから、別れた後に妊娠発覚、みたいなこともありえないですし」
いまとなっては、深い仲だったと思われるのも嫌で、アリスはやや踏み込んだ発言をしてしまった。
海はかすかに眉をしかめて「キス……?」と呟く。
「したの?」
「……はい。付き合うきっかけになった、その一度だけですが」
「俺ともしておく? 今日から付き合うんだから、条件を揃えておこう」
「それはちょっと」
変な雲行きだな? と、アリスは一歩ひく。
海は眉をしかめたままの顔で、アリスを見下ろしていた。長身イケメンだけに、それ相応の迫力があった。
「ここで俺とキスしておかないと、白築さんがこのあと何かの事故で死んだ場合、最後にキスをした相手が斎藤さんになるよ。俺の方が良いと思う」
「殺さないでください!」
物騒なことを言わなくても! と思いながら、アリスは海を睨みつける。
その一方で、たしかにあの男が最後のキスの相手というのは嫌だなと思ってしまった。
(でも、付き合うその日にノリでキスとか、ないでしょう。いや、あるか。あった。斎藤彰久許さん。プリンス、それと条件を揃えようって……。いや、いまはお酒が入ってるから、二人とも判断がぶれている。これは正常ではない。却下)
結論をどう伝えようか悩みつつ、アリスは頭を下げる。
「勢いで失敗して負債百万円の女なので、そこは慎重になりたいです」
「……わかった」
そう言った海の手に、まだスマホが握られていることに気づいて、アリスは咄嗟に自分のスマホを近づけて、軽くぶつけた。
「……キス……スマホ同士で」
「なんだそれ。スマホになりたいな」
海はそう言うなり笑い出し、アリスがほっと息を吐き出したところで「じゃあね」と明るく言ってきた。
「本日は本当にありがとうございました。助かりました」
「はいはい。次は土曜日に。早く部屋に入って。俺ももう行くから」
それ以上ぐずぐずすることなく、海はさっさと歩き出す。その背を見送ってから、アリスはマンションのエントランスへと向かった。
** *
タクシーを拾うから、と言った割に闇雲に早足で歩いていた海は、しばらく進んでから不意に足を止める。
握りしめたままのスマホを見下ろして、時間を確認し、呟いた。
「終業直後から、終電直前までずーっと飲んで……。全然しっかりしていたくせに、最後に五秒だけデレるとかなんなんだよ。小悪魔かよ、可愛すぎだろ」
酔っているせいか、思ったことが全部口から出てしまったと気づき、海は再び猛烈な勢いで歩き出した。
だが、うっかり駅を通り過ぎるまで歩き続けてから、ため息をついて、スマホに「このやろう」と悪態をついたのだった。