5,小悪魔のデレ5秒(前編)
「お腹が空き過ぎていて、微妙に後回しになったのはごめん。まず俺から白築さんに伝えておきたいのは、現在俺には彼女も婚約者もいないこと。婚約宣言により、慰謝料が発生する心配はない。白築さんが『同僚にストーカーをしていた』という胡乱な噂を打ち消すため『そのような事実はなく、弓倉海と真剣交際中である』という嘘に加担したのは、さっきも言ったように『面白そうだと思ったから』が理由。そして俺はこの嘘を『結局なんだったの?』って空気にする気はなく、自分の意志でこの先白築さんと実際に結婚を視野に入れた真剣交際をしたいと考えている。以上」
前のめりになったまま聞いていたアリスは、ひとことも聞き漏らすまいと聞いていたはずなのに、半分も理解できた気がしなかった。
(情報量が多い……! その割に、結論が簡潔過ぎて逆にわかりにくい!)
目の前で、真面目な顔をしてまっすぐに視線をぶつけてくるオーラ強めの王子様を見つめて、アリスはなんとか言葉を絞り出した。
「途中経過の書いていない、数学の回答用紙みたいです。それ点数もらえないやつですよ、弓倉部長」
「白築さん、本当に俺にキツすぎない? マークシート方式だったら百点だよ」
「百点は、それより上がいないので全国一位ですよ。模範解答ということですか」
すうっと、海が息を吸い込んだ。アリスから目を逸らさないまま、流れるような低音美声で言い切った。
「実際、その意気込みで口にしているよ。少なくとも俺は、付き合う付き合わないって話をするときに『親に結婚のことをうるさく言われて』『周りの女性を振り払えないから』『肉親が不治の病で余命いくばくもない』って、自分の気持ち以外の理由を並べ立てようとは思わない。それとも白築さんは、そういう『言い訳をしないと、自分の恋愛ひとつ満足にできない男』が好みなの?」
「……威圧スキル?」
迫力に圧されて、アリスは間抜けな呟きを漏らしてしまった。
海はにこっと、爽やかなのに強い笑みを浮かべて「怖い?」と聞いてくる。
(とても怖いデス。自分の人生に何が起きているのか、今日一番わからなくて怖いです!)
とはいえこの王子様をあろうことか自分の事情に巻き込み、最寄り駅の行きつけ居酒屋まで連れてきてしまったのはアリスなので、他人事のような顔をして怯えている場合ではない。
「私としましてはですね、交際に至る過程部分、つまり『私、弓倉部長に恋してる……ッ!』という部分が完全に欠落しているわけでして」
「ひどい。弄ばれた」
別段傷ついた様子もなく、海は焼き鳥をばくばく食べている。串から外さないでそのままいく派らしい。
私も串から外すのはどうかと思っているんです、本来の味わいを損なう行為だと思っているのでそのままいきますと賛同の意を告げそうになったが、話を腰を折ってはいけない。
アリスは、ひとまず自分の考えを伝えることに集中する。
「私は昨日まで、自分の意識の上ではたしかに斎藤某なる男性とお付き合いしていたはずなんですが、どうも嵌められていたようでして。ちまちま貯めたお金を巻き上げられた挙げ句、今後誰も私の言い分に耳を貸さなくなるように、用意周到な噂を会社内でばらまかれていたようなんです。ああ、こうなったら退職しかないのかな……そう思った私の前に現れたのが、広報部の弓倉部長だったわけです」
「真面目に話そうとしているみたいだけど、そこは正直に言っていいよ。『プリンス弓倉がいる! 使っておこ!』って思ったんだよね?」
「わぁ、プリンス呼びラーニングされた……。たしかにそうです。社長の息子だか甥だか知らないけど、創業者一族のエリートイケメンだ! どうせ嵌められて陥れられるのなら、つまんない同僚じゃなくてあのレベルの王子様なら良かったのに! と思ったわけです」
誘導されたとはいえ、正直に言い過ぎてしまった。海は横を向いて、むせながらふきだしていた。
「すみませんすみません、悪気がないではすまされないんですけど、後先は一切考えていませんでした。あの場で一番面白いのって、私ごときがプリンスとお付き合いしているっていう衝撃の事実じゃない? って」
「たしかに面白い。乗っちゃったから」
「まともな社会人ならそこは乗らないで欲しいところですね……。迷惑をかけた私が説教するところじゃないんですけど、弓倉部長は自分のことをもっと大切にして欲しいです」
「それは白築さんもね。人間を見る目がなさすぎだよ。斎藤さんにいくら貸したの? お金せびられてるよね」
急なカウンターを決められて、アリスは椅子の背もたれに背を貼り付けるほどに怯えてしまった。
「情報通過ぎる……。どこでそれを」
「スパイでも見るような目だけど、単に二人の立ち話を耳にしたことがあるだけ。借金するような社員って、社内でも横領とか不正に手を染めそうで嫌だな気にしておこうと思っていたら、地方の営業所の社員と社内結婚するって情報が上がってきて。そういう社内の人間関係は、幹部レベルまで話がくるから。で、名前見たときに男性社員に見覚えがあったんだけど、それじゃこの男にこの間お金せびられてた本社の女性社員はなんだったんだ? って不思議に思ったんだ。だから俺はこの件、かなり正確に把握しているつもり。社内で白築さんに不利な噂が出回っているってことまでは知らなかったけど。俺の見落としだな。その意味では百点ではない」
過不足ない情報をくれた上に、反省までしている。椅子に貼り付いたままのアリスに対し「何か飲んで落ち着いたら? 水頼もうか?」と声をかけてくる気遣いも忘れない。出来た人間過ぎる。
アリスはしばらく呆然としていたが、やがてゆっくりと息を吐き出した。
「借用書を作っていなかったので……。お金の流れは証明できないから、取り返すのは無理かもと思っていたんですが……」
事実を知ってくれているひとがいるだけでも、心強い。
お金を渡してしまったこと、さらに言えばあやふやな関係ながら相手と婚約レベルで付き合っていると勘違いしていたことは、アリスの人生の汚点で落ち度だ。
プリンスたる上司に味方でいて欲しいとまでは言えないが、この先何かあったとしても、少なくとも彼だけは公正な判断はしてくれそうだ。
海は、店員に水をお願いしてから、アリスに向き直って真剣な顔で聞いてきた。
「それで、白築さんは斎藤さんにいくら渡したの? 一千万円くらい?」
「プリンス、それはさすがに自社の社員の給料を把握していなさすぎです。実家暮らしでもそこまで貯金できないのではないかと思います。もしかしていま、自分の年俸基準で聞いてきましたか?」
「すごい真顔だ。ごめん、いまのは俺の失言だった」
心配して気遣ってくれた相手に、反射で言い返した上に、謝られてしまった。
「すみません。私も言い過ぎました。プリンスが私より給料を頂いているのは、それだけ仕事をなさっているからだと思います。あ~、私も仕事しよう。仕事頑張ろう。失った百万円をはした金って言えるくらい稼ごう。我が社では無理ですかね」
「前向きなのは白築さんの魅力だとは思うけど、弊社の金払いに不満で転職を考えているならもう少し仕事頑張ってからの方がいいと思う。キャリアアップするにしても、実績は大事だよ」
なんと、仕事の相談にまでのってもらってしまった。
テーブルに届いた水を、グラス一杯ありがたく飲み干してから、アリスは勢いよく言った。
「プリンスめちゃくちゃいいひとですね!?」
「逆に聞きたいけど、今日の俺、悪い人って思われるようなことほぼ何もしてないよね? 白築さんの貯金額見誤ったことくらいじゃないかな? それ以外は惚れられるようなことしかしていないと思う」
「いえいえ、プリンスのことは好きにならないですよ。身分が違いすぎて、秒で捨てられそう」
「ん? じゃあ聞くけど、元彼氏の斎藤さんに関しては、女を秒で捨てない男だって見込みがあったの?」
「傷口に塩を……。本当に、ああ言えばこう言う」
「お互い様じゃないかな。面白いから、俺は大歓迎だけど」
さらっと言ってから、海は何杯目かのハイボールを飲み干す。口ぶりはしっかりとしていたが、頬にはかすかに赤みがさしている。それなりに酔っているように見えた。海ほどのペースではないが、アリスもしっかりお酒は口にしている。
(うーん。頭がうまく働いていない。プリンスの狙いは結局なんなんだろう。文脈だけでいえば、以前から私と彰久のことを把握して気にかけていて、今日は状況をほぼ正確に見極めた上で話に乗ってきた……。面白いから……?)
そこで「ああっ」とアリスは声を上げた。「うわっ」と、海は空のグラスを倒しかける。申し訳ないことをしたと酔った頭の隅で考えつつ、アリスは海を見つめて言った。
「私って『おもしれー女』枠ですか。なんかやだ……」
「……そう勘違いされることを言ったのは俺だろうけど、微妙に納得がいかない……」
二人揃って、テンションが下がってしまった。アリスはメニューを開いて「この日本酒美味しいですよ。頼みます?」とすすめてみる。
「全部ひとりで飲むと酔いそうだから、白築さんも飲むなら猪口二つで頼もう」
「お酒を酌み交わすのはいいことですね。義兄弟とかになれますよ」
酔っ払いらしい会話をして空気を変えてから、今一度向き直った。