4,Pardon?
あの弓倉海が、電車に乗っている。
「帰宅ラッシュの時間か。大丈夫? 潰されていない?」
「いえ、私は慣れていますし、頑丈なので」
プリンス弓倉こそ、痴漢には気を付けてくださいね! とアリスは何度も言いそうになったが、耐えた。セクハラになるかもしれない。
あろうことか、人の乗り降りのタイミングや、電車が揺れるときにさりげなく庇われているのを感じた。
アリスの心境としては「むしろ私がボディガードをする場面では?」である。とにかく落ち着かない。
(プリンスだけになんだか気品溢れるいい匂いがするし、キラキラオーラがすごいから、周りのひとが振り返るしガン見するひとまでいる……。それでなくてもお高そうなスーツが皺になるのが心配だから、気軽に満員電車なんか乗らないで欲しい。絶対、運転手付きの専用車持ってそうなのに)
いざ目当ての居酒屋に行こうという話になったときに「最寄り駅です、うちの」と電車に乗ってしまったが、大丈夫だったのだろうか? アリスはひたすら気になって仕方がなかった。
ようやく目的の駅で電車を降りられたときは、ほっとした。
しかし、行きつけの居酒屋の暖簾をくぐり、二人用の小さいテーブルに通されて向かい合って座ってみると、海が明らかに長い脚を持て余していることに気づいてしまう。
場所選びを間違えた感が強い。
「お、ほんとだ。明太子の天ぷらがある。それ以外も美味しそう。全部食べたい。おすすめ聞いてからと思っていたけど、お腹の空き具合がそれどころじゃないんだ。全部頼んでいいかな。頼もう」
当の海は、メニューを見ながら目を輝かせ、すかさず通りがかりの店員に声をかけてあれこれ注文をしていた。
(わ……わぁぁ、プリンス弓倉って、もしかしてショップに行って、売り場のハンガー指さして「そこからそこまで、全部」って言っちゃうタイプかな。いや、お手頃価格の居酒屋だから、たぶん全部食べてもブランドのシャツ一枚分の値段もいかないだろうけど)
さてここからどう話を切り出すべきだろうと、アリスはあれこれ思案する。その間に、早速ファーストドリンクが運ばれてくる。
二人ともハイボールだ。海が「最初はこれで」と言ったので、思考が麻痺していたアリスも「同じもので」とオーダーしたのだ。
「それじゃ、お疲れ様! 今日はたくさん食べようね!」
海は気負った様子もなく、グラスをカチリと軽く合わせると、美味しそうに飲み始める。
ぼーっと見守ってしまったアリスだが、そんな場合ではないと思い直した。
まずは自分も一口飲んでから、居住まいを正して切り出した。
「今日はとんでもない嘘に巻き込んでしまいまして、すみませんでした」
「別にいいよ。面白かったし」
謝罪から受容までノータイムで、会話終了。
お通しに鶏皮のからあげとキャベツのサラダが運ばれてきて、海はいそいそと割り箸を割って食べ始める。
「美味しい。沁みる。下味がしっかりついてていいね。きっと唐揚げも美味しいんだろうな。頼んでおこう。すいませーん!」
唐揚げとポテトサラダと焼鳥盛り合わせも追加で、と海はどんどん注文を入れていく。
「すごい食べるんですね」
「人並みには。忙しくても、ゼリーで済ませたりとか、好きじゃないから。べつにゼリーが嫌いなわけじゃなくてね、エネルギー補給としては優秀だと思ってるけど、食事は食事としてしっかり食べたいんだ。俺が」
「普段は何を召し上がって……。夜景の綺麗なレストランでコース料理ですか?」
「接待のある日は、そういうお店も使っているかな。あ、あーっ、そっか。白築さん、そういうのが良かった? 百万ドルの夜景を見ながら、ワイングラス傾けて婚約者トークするべきだったかな? ごめん、今日はまず時間作ろうと仕事必死にやっていたし、会社を出てからはお腹空いていたから、もう明太子の天ぷらのことしか考えていなかった。揚げ物だから、少し時間がかかりそうだよね」
海は、流れるような仕草で、届いたカツオのたたきを取り皿に取って、会話の合間にばくばくと食べる。
感心するほど、見事な食べっぷりだ。
(こんなにガツガツしているのに、全然下品に見えないのがさすがプリンスの風格。箸の持ち方かな。割り箸なのに、動作がいちいち三手の作法に則っているように見える……。茶道とか習ってそう)
はー、美味しいと言いながら海は一杯目のハイボールも飲み干して、追加のオーダーをしていた。
楽しそうに食べているのを見ていたら、お腹が落ち着くまで面倒な話はしないほうが良さそうな気がしてきて、アリスも料理に向き合うことにした。
「このお通し、ほんと美味しいですよね~。日替わりなので、今まで色々食べてますけど、何食べても美味しいんですよ、このお店」
「よく来ているの?」
「電車降りて、駅からすぐですからね」
「斎藤さんとも来た?」
さらっと名前を出されて、アリスは思わず「それをいま言いますか」と目で訴えてしまう。この会食の主になる話題は間違いなくそれなので、海を責める場面ではないのだが。
「おっと。メシがまずくなる名前はやめてくれって目で見られた気がする。白築さん、考えていることに結構顔に出るから、面白いよね。というか、今日の今日でそこまで元婚約者見限られるってことは、あんまり好きじゃなかった?」
「抉ってきますね!? ええと……、そうですね。自分なりに今日一日いろいろ考えてみたんですけど『それはそれとして、仕事はしよう』って仕事に集中していたら、びっくりするくらい忘れちゃって。これって現実逃避の一種なんですかね?」
問いかけつつ、アリスはハイボールをぐいっと飲んだ。海は、ドリンクの追加注文を気にするようにアリスにメニューを手渡してきながら、淡々と言った。
「どうなんだろう。後でひとりになったときに込み上げてくるのかもしれないけど、そのときは遠慮しないで俺に言ってくれていいから。ほら、婚約者なわけだし」
げふ、とアリスはむせた。不意打ち過ぎる。
「そ~れ~は、本当に申し訳なかったと思いますけど。どうなんですか、プリンス弓倉は。彼女や婚約者が黙ってないんじゃないですか。私、慰謝料請求されませんか」
「ちょっと待って。いま、プリンス弓倉って言った? 何それ。もしかして俺って、社員の間でそういう風に言われてるの?」
爆笑寸前の笑顔で言われて、アリスは視線を泳がせながら「ええと、まあ。はい」と認めた。何度か、他の社員が言っているのを聞いたことはあるので、嘘ではない。
案の定、海は気持ちいいくらいの笑い声を響かせた。
「弊社社員おもしろすぎない? もしかして社長をキングとかクイーンとか言うの? どこかに騎士団長とかいる? やばい……弊社面白い……」
アルコールが入っているせいか、笑い出すと止まらないようだった。ずっと笑いっぱなしになっている。
「そんなに笑っていると、料理が進まないのでは? 私が食べるのでいいんですが」
「ひどい。プリンスの扱いがひどすぎる。……いや、プリンスって。日本で言ったら皇族だよね? さすがに宮内庁に対して申し訳ない気がしてきた」
「いや、そこに申し訳無さを感じられても。むしろ豪気過ぎるといいますか、宮内庁としても対応に困ると思います。一企業内の呼称なら黙認するのに、公式に確認を取りに来られてもっていうやつです」
海はそれからもしばらくひーひーと笑っていたが、アリスが気づいたときには料理の皿がいくつも空になっていた。
(えっ、プリンス弓倉いつの間に? 動きが早すぎて見えなかったんだけど)
まだそんなに時間たってないよね? と呆然とするアリスの前で、海はさらに料理もドリンクも注文している。本気でメニューの端から端までを達成するつもりなのかもしれない。
「あの、プリンス」
「こら。開き直ってあだな呼び名を続行しないように。仮にも婚約者同士で、これはデートなわけだから、ここはひとつ名前で呼んでみようよ。俺の名前知ってる? 弓倉海だよ。はい、リピートアフターミー『海サン』」
なぜかとても良い発音で英語教師のように言われて、アリスはすかさず笑顔で言い返す。
「Pardon?」
ぶはっと海がふきだした。
接客英会話では、お客様に失礼なく聞き返すときの単語として習う。
とはいえ、本当に海外で日常的に使われている表現なのかは謎だ。
(そうだ、プリンスは海外経験あるんだった。迂闊に煽っている場合じゃない。でも「海サン」って……)
だいたい、海といま喧嘩するわけにはいかないとアリスは思い直し、気持ちを切り替えて言い直した。
「『海サン』はハードルが高いので、殿下ではいかがでしょう」
「ちょ、あの……っ、あんまり笑わせないで。その気になるから」
「なるんですか?」
「期待に応える男だからね。今日だって、ばっちり婚約者の振る舞いをしていたつもりだよ」
さらっと言われて、アリスはここは食いつく場面だと意識して、しっかりと聞き直す。
「その件なんですけど、本当にどうしてですか? 弓倉部長にも、何かメリットがあるんですか?」
「メリット?」
首を傾げられて、アリスは「はい」と、ここぞとばかりに前のめりになって言い募る。
「まだ独身でいたいのに、親族から縁談を持ち込まれて偽装婚約者が必要になっているとか。モテ過ぎて困っているから女避けに誰かと交際宣言したかったとか。あとはええと、お祖母様とかお祖父様が余命宣告されていて、婚約者を紹介して安心させたいとか!」
思いつく限りを並べ立てたアリスの前で、海はすうっと鋭く目を細めた。