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3,王子様は空腹のようです。

 弓倉海(ゆみくら うみ)とアリスが婚約中というのはその場限りの嘘で、実際は無関係の他人である。


(連絡手段がないのよね……。現代日本で身分制度なんかないと思って生きてきたけど、会社の中は階級社会なわけで、他部署の部長に謁見するのはハードルが高い! しかも弓倉海はプリンスで、つまり殿下なわけでしょ。平民からアポをとるのはまず無理)


 ディナーの約束はどうなるのだろう? とアリスはその日の仕事中ずっと気になっていたものの、海と連絡がつかないのでどうにも動きづらい。

 アリスとしては、海を嘘に巻き込んだことに対して、責任を感じている。海がディナーの時間を作ってくれるといっても、場所はアリスが用意しておくべきだし、海の尊厳を傷つけない範囲で、支払いも自分持ちだろうなと考えている。


(こういうとき、恋愛小説の御曹司なら夜景の綺麗な高層階レストランに連れて行ってくれて、窓際席でワインを飲みながら「実はあの件は俺にもメリットがあるんだ。結婚しろって周りからせっつかれていて大変でね。君には僕の親族を納得させるため、嘘の婚約者になってほしい」なんて言い出すんですけどね~!)


 しかもアリスは婚約者に裏切られた直後である。そのままやけ酒展開に突入するというのも、ありがちだ。前後不覚に陥ったところで、御曹司が用意していたホテルの一室に連れ込まれて一夜を過ごし、翌日には婚姻届にサインをする。

 一年限りの契約婚だから……! このひとは好きになってはいけないひと!

 などと言いながらずぶずぶの関係になる。


「ないない。さすがにそれは、フィクションの摂取しすぎ」


 思わず声に出してしまってから、アリスは慌てて口をつぐみ、スマホで時間を確認した。

 十八時。勤務時間は終わりである。ここからどうにか弓倉海と連絡をつけなければ……と思案していたところで、何やら空気の流れが変わったのを感じた。


「お待たせ。今日は急いで仕事終わらせて来たよ」


 すぐ真横から美声が降ってきて見上げると、笑顔からきらきらとした星屑をこぼした王子様が立っていた。


(プリンス弓倉! この距離で見ても、ありえない美形!)


 デスクのそばに立っている海を見上げて、アリスは思ったままのことを口にする。


「こんなに神々しいオーラの殿下に、ここまで近づかれるまで気づかないなんて。ぼーっとしていてすみません」

「あはは。何言っているのかよくわからないけど、面白い。足音も気配も消して近づいてごめんね。白築(しらつき)さんの仕事の方はどう。すぐ出られそう?」

「はい。今日はなんだか、うちの部署全体で残業しないようにって話になっていて」


 口にした瞬間に、その意味に気づいてアリスは落ち込みそうになった。


(彰久の送別会だ! だから残業しないように仕事進めてねって話になっていたんだ。わぁ、石塚さんから話を聞いてなかったら、わからないままだった)


 別に行きたくないからいいんですけど、と心の底から思う。

 百面相するほど情緒豊かではないつもりだったが、考えたことは多少顔に出てしまったのかもしれない。にこにことしていた海が、楽しげな様子のまま言った。


「今日、アリスが俺のために予定を空けてくれて良かった。ちょうど行きたいレストランがあったんだ。仕事の勉強にもなると思う。予約の時間があるから、すぐに出よう」


 セレブかつエグゼクティヴ特有の風格だ。

 声の届く範囲にいた社員たちが、明らかに聞き耳を立てている。


(これを聞いた後で、叩けば埃が出そうな疑惑を露呈した社員の送別会に参加するのは、誰だってテンション下がるよね……。さすがプリンスは、権力の使い所がわかっている)


 さらに言えば、明日以降のアリスの立ち位置も、今より悪くなるどころか、ぐっと良くなるのかもしれない。

 ただしそれは、アリスが仕事の成果や勤務態度で勝ち取った信頼ではなく、海へのご機嫌伺いだ。

 海がどういう人間かわからないいまの状態で、海頼りの解決をはかるのは、後々良くないことのようにアリスは考えてしまう。

 ここは、けじめをつけるところだ。


「あれ? 弓倉さん、今日は私のおすすめの居酒屋に行くって約束ですよ。明太子の天ぷらがめちゃくちゃ美味しいんです。衣はさくっとしているのに、中身には火が通り過ぎず、きちんとレア感を残している神業で。日本酒も焼酎も品揃えがいいんですよね~。私、通ぶって『芋焼酎が美味しい』とか言い出す若い女性になんとな~く苦手意識があったんですけど、あのお店で世界観変わりましたから。辛子蓮根と芋焼酎のマリアージュは神の祝福レベルですよ」


 咄嗟に、行きつけの居酒屋メニューを思い浮かべてアリスは立て板に水の如くプレゼンをした。

 黙って聞いていた海は、不意に深刻な表情になって横を向く。


(ん!? だめでしたか、明太子。それとも辛子蓮根? プリンス弓倉、辛いものだめ?)


 もしくは、本当にレストランに予約を入れていて、困っているのかな? と心配になったアリスの視線の先で、海が切々と呟いた。


「大変だ。いま白築さんの話を聞いた全員が『どこだよそれ! 教えろよ!』って思っている。ここにいる社員たちがこぞって通うようになったら、ゆっくり食事できなくなるだろう。そういうのは、人前で言ってはいけない。二人のときにこっそり教えて欲しい」


 うぐ、とアリスは変な息を漏らしてしまった。


(今朝、勢揃いした社員の前で嘘の婚約でっち上げたときより、よほど大事っぽい反応されているのはなんで……!? プリンス弓倉ってば、焼酎愛強すぎない?)


 本当に、人前では言ってはいけないことを口にしてしまったような気がしたが、錯覚だ。アリスの価値観では、朝以上にひどいことは言っていないと思う。たぶん。

 しかし、海は深刻な顔のまま、アリスに鋭い視線を向けてきた。


「こうしてはいられない。ここにいる社員たちにその場が知られないよう、さっさと出よう。尾行にも気をつけて」


 本気か冗談かわからないことを言われて、アリスはつい言い返してしまう。


「あの……。弓倉部長、心狭すぎません? 美味しいものはみんなで食べたほうが美味しいって、そういう考え方のほうがきっと人生うまくいきますよ?」


 言い終えてから、アリスはセルフできっちり自分につっこんでおく。


(どんな心構えで生きていようとも、結婚詐欺からの婚約破棄で、私自身が絶賛人生うまくいっていない真っ最中なんですけどね?)


 気落ちしている場合ではないと、さっさと周囲に「お疲れ様です!」と挨拶をして、海と連れ立って会社を後にした。

 駅に向かって歩き出し、周囲からちらっちらっと視線を向けられている海の存在感に(おのの)きながら、なんとか切り出す。


「今日は色々とありがとうございました。釈明といいますか、今後についてといいますか、話し合う時間を作っていただいたことも感謝しています。本当は、一杯おごらせてくださいって言いたいところなんですけど、時間に限りがあるならどこかこの近くのお店で」


 肩を並べて歩いていた海は、驚いたような顔をして見下ろしてきた。


「口がもう、明太子の天ぷらで他のものはちょっと。居酒屋目指して歩いていたんじゃないの?」


 ああ、このひとのさっきの深刻な顔は本気だったんだと思いながら「美味しいものはみんなで食べたい」アリスは、すかさずプレゼン第二弾を放つ。


「どこが琴線に触れたのかと思っていたんですか、そこでしたか。ちなみにカツオのタタキも鶏天も美味しいですよ。ポテトサラダも絶品です」

「行く。絶対行く。全部好きだよそれ。昼もろくに食べてないんだ。もう倒れそう」


 決意に満ちた表情で言う海の横顔を見上げて、アリスはこらえきれずにふきだす。

 一度笑ってしまうと、なかなか止めることができず、しばらく笑い続けてしまった。


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― 新着の感想 ―
私も明太子の天ぷら食べたいです。 イモ焼酎派と言ってしまう人です。霧島美味いですよねぇ。
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