1,ボン・ボヤージュで波乱の幕開け
クルーズ船「春日」のデッキには、海からの風が爽やかに吹き抜けている。
朝の七時で、すでに夏の日は高く頭上には目の覚めるような青空が広がっていた。
「本当に海の上なんですね……!」
真っ白いワンピース姿の白築アリスは、視界いっぱいの波打つ大海原を堪能してから、傍らに立つ弓倉海を見上げた。
澄んだ瞳が、優しげな光を湛えている。
照れてしまうほどの甘い視線を、ずっと感じていた。アリスは、顔を合わせてはみたもののあまりのまぶしさに思わず目を細める。
海は、ジャケットこそ羽織っていなかったものの、ベスト姿で貴公子然とした服装がよく似合っている。すれ違った相手が二度見して振り返るほどの美貌の青年で、どこにいても光を放つかのような華やかさがあった。
柔らかい黒髪が、風になびいている。
アリスと視線が絡むと、口角が魅力的な笑みを形作った。
「なんだか、アリスに俺の名前を呼ばれているみたいで、不思議な感じだな」
「名前……? あっ、海さん! そうですね」
恋人同士となったいまも、アリスは海の名前を呼び捨てすることができない。それが、このとき意味は違えども自然と「海」と口にしていた。指摘されて、初めて気づく。
「アリスはいつも会社では『部長!』だしプライベートでもさん付けで呼んでくれるけど、俺は『海』で全然構わない。待ってる」
くしゃっと、海が相好を崩した。神々しい。
そのまま、さらにアリスまで一歩距離を詰めてくる。
(近い……!)
出会いは同じ会社。かたや海は経営者一族の御曹司でまぎれもなく現代のプリンスであり、かたやアリスは社内トラブルの渦中で崖っぷちお先真っ暗の平社員であった。
現在は一緒に暮らしている仲で晴れて恋人となり、この日は日付が変わるタイミングにアリスの誕生日を一緒に祝って幸せな夜を過ごした後でもある。
それでも、ほとんどゼロ距離で「もう一歩、アリスが俺の元まで歩み寄って来てくれたら嬉しいな」と耳元で囁かれると、とっさにうまく声が出ない。
耳から頬まで真っ赤に染まるのが自分でもわかった。
「私から近づかなくても……、海さんはこの距離じゃないですか」
あまりの近さに震えそうになり、話す言葉のすべてがしどろもどろになりながらアリスから距離を置こうとすると、まるで「逃さない」とばかりに腰を抱き寄せられた。力強い腕の感触に、アリスはさらに緊張する。顔が熱い。
豪華客船でプリンスと朝を迎えて甘く囁かれるなど、自分の人生で起きるとは思っていなかったことの連続だ。緊張の糸がぷつりと途切れて、叫んでしまった。
「甘すぎる……! 溶けます!」
限界! と態度で示したアリスの意向を正確に汲み、海が即座に明るく爽やかに応じた。
「あはははは、そんなナメクジみたいなこと言わないで。知ってる? ナメクジってさ、塩じゃなくて砂糖をかけても縮んで動けなくなるんだよ」
「浸透圧の関係ですか!? つまり海さんは私を溶かそうとしている! 砂糖で!」
「その理屈だとアリスはナメクジってことになるけど、番だから俺もナメクジだ」
誕生日の朝が、突如としてナメクジの話題に占拠された。
「ナメクジ?」
ごく近いところで、不思議そうに呟かれる。
アリスが顔を上げると、白いスーツを堂々と着こなした端麗な容姿の青年が立っていた。
この「春日」のオーナー会社である、青海クルーズの芦屋専務である。
今回のクルーズは、取引先社員の一人として、芦屋の招待で破格の待遇で乗船している。ここは襟を正して挨拶するタイミングだと、アリスは素早く背筋を伸ばした。
「おはようございます、芦屋専務。良い朝ですね。今日も白いスーツがお似合いです! 映画の……俳優さんみたいに!」
実際にアリスが思い浮かべたのは「毎年映画が公開される推理アニメのキャラクターに一人はいそうな感じ」であったが、とてもそのまま口にすることはできない。
しかしまるで心を読んだかのように、芦屋がぶはっと噴き出す。
「俺、結構言われるんだよな。『体は子ども、頭脳はおとながモチーフの名探偵のアニメに出ていそうですよね。映画版とか』って。やばいじゃん、誰か死ぬぞこの船で」
「やっぱり言われるんですね。わかります。芦屋専務ってそういう感じです。そしてこの場はたしかに、事件の香りがします。なにしろ豪華客船ですから」
日常とはかけ離れた、どこを切り取っても舞台装置のような空間だ。いつどこで何が起きても不思議はないと頷くアリスに、芦屋は目を細めたまま言った。
「そんなに期待されたら、何かしないといけない気がしてくるな……」
不穏な呟きをもらす芦屋の姿が、さっと遮られて見えなくなる。
「芦屋には何も期待していない。勘違いするな」
「お、出たな。海、彼女ができたからって浮かれてばかりいると足元掬われるぞ。俺がすくってやろうか」
「弊社御社いま提携中だろ。足を掬いあってどうする。もしかして俺に買収されたいのか?」
「やる気か? お前なら本当にやりかねないよな。そうだ、まずは伊豆の温泉旅館だな」
「なんだ、俺に買って欲しいなら買うぞ。何か焦げ付いている問題でもあるのか?」
え~っ、とアリスは笑顔を引きつらせた。男二人、揃って好戦的すぎる。
(王侯貴族の喧嘩、スケールが違う。ちょっとした意地の張り合いで国を滅ぼし合うやつ)
どこで止めるべきかと口を挟むタイミングをうかがっていたところで、背後から「面白いのでこのままやらせておきましょう」と囁かれた。悪魔だ。
肩越しに振り返ると、勤務先である「香空リゾート」の秘書課の先輩で「春日」には広報部部長・弓倉海の秘書として同乗している城戸の姿があった。
仕事中と同じく、ぴしりと隙無くスーツを着こなしている。少し焼けた肌に、均整の取れた引き締まった長身で、モデルのように見目が良い。
「城戸さん、おはようございます」
「おはようございます、良い朝ですね。北上しているので風が爽やかに感じます」
「あのお二人の喧嘩は止めないんですか?」
「逆にあれ、止められます? どこまでやるか見たくなりませんか?」
落ち着いた大人の男のような雰囲気であるが、言うことは「やんちゃ」である。言葉を飾らずに言えば「腹黒」だ。
「城戸さんが止めないなら、僭越ながら私が止めさせていただきます。このまま怪獣大戦争されて船が沈んだら大変なので」
「怪獣? アリスの目には俺がそう見えているの?」
いつの間にか、海がアリスへと目を向けていた。
「いえ……その……大変まぶしいイケメンゴジラだと思っております……」
不意打ちの笑顔に慣れることができず、アリスは後退りかけた。それを許す海ではなく、ぱしっと、手を繋がれる。
城戸がふっと息を吐き出し、芦屋がおかしそうに片目を細めた。
「すごいね。海は、絶対他の男近づけない最強セキュリティだ。嫉妬深い」
嫉妬? とアリスは首を傾げる。
「海さんはそういう、私情に行動が大きく左右されるようなことはないと……思います?」
考えながら言ったせいで、妙に自信がない口ぶりになった。しかし、アリスとしては特に思い当たることがない。
なぜか、城戸に遠くを見るような目で見られた。「え?」と目で聞き返すと、重々しく言われる。
「白築さん、胸に手をあててよーく考えてみてください。初めて家に招いた女性に対し、帰える場所はここだと説得してそのまま同居に持ち込む男はあまりいませんよ」
「なんだそれ、初めて聞いた。想像以上に海はヤバい奴だな、それはもう沼超えて蟻地獄だろ。海らしいけど」
芦屋にすかさずたたみかけられ、アリスは無言になった。
(……? いつの間にか私は海さんの元へ帰るのが自然だと思いこんでいて、自分からマンション引き払って一緒に暮らし始めて……。会社でも物理的に近いエリアの部署に異動してこうして仕事でも一緒に行動する機会があって……)
普通か普通ではないかで考えると、なかなか無い例かもしれないと、ようやく思い至る。
「えっ、いままでの行動、全部嫉妬由来ですか!?」
思わず海を見ると、大変良い笑顔で返された。
「まさか、それだけじゃないよ。ほぼほぼ愛だ」
「ほぼほぼ? 八割くらいですか?」
「もっと多い。95%くらいは愛だよ」
甘く微笑まれて、アリスは「残り5%の内訳……」と思うところがないでもなかったが、あえてそれ以上は追求しなかった。
「さ、ここで立ち話もなんだから、朝食にしよう。乗船中は常時オープンしていて、飲食の全部が料金に含まれるカフェもあるんだけど、予約制のレストランもあるんだ。なるべくたくさん体験していってほしいから、今朝はレストランの席押さえている。一緒に……一緒でいいな?」
機を見て話を切り替えた芦屋が海に確認し、海は「構わないよ」と応じる。芦屋はにやりとひとが悪そうに笑って続けた。
「船内で退屈しないようにアミューズメントが色々あるけど、昨日はそこの二人、ダンスホールの後すぐに部屋に帰って、船の夜を味わわなかっただろう。ナイトプールはなかなかいいぞ。昼間ももちろん利用できるけど。白築さん、水着は? 無いなら船内で買える」
「水着なんて、しばらく着ていないです! プール楽しそうだけど、ちょっと恥ずかしいな」
でも行きたいな、と思ったところで手を繋いだままでいた海に、くい、と手を引かれた。芦屋や城戸に聞こえる程度の音量で、あっけからんと笑顔で言われる。
「昨日俺が肌につけた痕があると思うから、今日はやめておこうか」
「……!」
夜に一緒に過ごしたときのことを言われたばかりか、人前で囁かれるには熱烈過ぎる言葉を受けて、アリスは言葉もなく頬を染めた。
「まあ、弓倉部長はそうですよね。白築さんの水着姿は絶対阻止でしょう」
城戸がぼそりと呟き、芦屋が「あいつ、海って名前のくせに海に行くイメージ全然ねえよな」と笑い声を弾けさせる。
そのまま、四人で連れ立って歩き出したとき、アリスがホルダーに入れて首から下げていたスマホが振動した。社用なので、仕事関係である。すみません、と断りを入れて確認すると直属の上司である副社長の大空暁子であった。
(こんな朝から……?)
すでに「春日」では活動しているひとも多いようだが、会社の勤務時間として考えるとやや早い。何かあったのだろうかと不思議に思いつつ「おはようございます、白築です」と電話に出る。
その隣では、海も「あれ、親父だ」と呟きながらスマホを手にしており、城戸まで誰かからの電話を受けていた。
一瞬、三人の視線がぶつかる。
――白築さん、朝からごめんなさいねえ。早い方が良いと思ったから連絡しておくけど、いま香空リゾートの広報が大変なことになっているの。
「おはようございます! 広報って、弓倉部長の部署ですか!?」
あえての連絡ということは一大事が起きていると確信し、ぞっとしながら聞き返す。受話器から聞こえてきたのは、暁子のため息であった。
ほぼ同時に、海も横で「それってつまり炎上ですか? うちのSNSアカウントが? え、俺!?」と電話の相手に聞き返していた。
(海さん!?)
隣の電話も気になりすぎるが、ひとまず受話器から流れてくる暁子の声に意識を集中させる。
――炎上……いえ、バズというのかしら。うちのSNSは安全第一の運用で、ホームページやパンフレットに載せた内容を抜粋して投稿しているだけ。基本的にインプレッションは少ない、情報提供に特化した地味なアカウントだったのだけど、どうもアカウント権限を持っている社員が「自我」を出してしまったみたいで。
「それ、だめなやつですね! ああいうのは超絶ウルトラ技巧の持ち主がやることであって、常に炎上謝罪コメントの危険と隣合わせで、なんというかSNS十年やっても一切炎上しないレベルの『自我』出さないひとにしか任せられない……えっ、何を投稿したんですか?」
(自我だして炎上スレスレのバズ? もしかしてお客様とのレスバ?)
戦々恐々と尋ねるアリスの横で、海や城戸も電話の相手と会話しながら不穏な空気になっていた。
不思議そうに目を瞬いて芦屋は、ハッと何かに気づいた様子で自分のスマホを操作しはじめた。
――担当者が、直接誰かとやりあったとか、暴言を吐いたわけではないの。ただ……、弓倉部長の写真を出してしまったのよ。「今日も仕事するぞ!」ってそれだけだったんだけど、何かのきっかけで「発見」されてしまって、あとはもうお祭り騒ぎみたいね。
いままさにSNSを確認しているらしい芦屋を横目に、アリスは噛み締めるように言う。
「……正しい。気持ちはわかります。全世界見て欲しくなる奇跡の美青年なのはわかりますよ、私だってときどき海さんの名前で画像検索してしまいますから! どこかに私の知らない海さんの写真があるかもしれないと! 何かの式典でスピーチしているところとか! そ、そういうのではなく……?」
――投稿者本人は宣伝のつもりだったみたい。うちの本社前で、弓倉部長が城戸さんと笑って話している瞬間で。そう、城戸さんも全世界に発見されてしまったわ。
「ヴィジュ強……! 弊社二強みたいな二人ですからね。全シーンドラマの撮影ですか? みたいな。それはお祭り騒ぎにもなるかと思います」
――そうなのよねえ、あの二人。詳しい情報書いていなかった分、素性探って大盛りあがり……。といっても、うちの広報アカウントからだし、本社ビルが背景でしょ? 昨日にはバズり始めていたみたい。そういえば、会社の前がいつもより人通りが多いような気はしていたのよね。今日は本格的に「出待ち」が現れるかも。
「投稿はもう消したんですか?」
――普段過疎っているアカウントだから、社内では昨日時点で話題にもなっていなくて、対応が後手に回った形よ。最初に気づいたのがハワイ支社の弓倉さんで「これは本社の意向ですか、騒ぎになってますよ」って連絡をくれたの。それもついさっきのことで、担当者に連絡はこれから。弓倉部長にはそのまま弓倉さんから連絡するというから、取り急ぎあなたには私から。弓倉部長がアカウントにログインできるなら消すなり生かすなりどうにか対応して欲しくて。部長にも連絡行っているでしょ?
「はい、いまどなたかと電話で話しているみたいですが、お父様……ハワイ支社の弓倉さんだと思います!」
――会社としては結構な一大事だから、函館に寄港したタイミングで、三人で東京に戻ってきてくれないかしら。
「わかりました! ご連絡ありがとうございます!」
――船から下りてきたらまた忙しくなるから、心づもりだけお願いね。せっかくのクルーズを中断させて申し訳ないのだけど、弓倉部長の力になってあげて。
ひとまずそれだけよ、ボン・ボヤージュ!
陽気な一言とともに、波乱を告げる電話はあっさりと切れたのであった。
★いつもお読みいただきありがとうございます!連載再開しました!
次の更新は3月3日です!




