2,変わる決意
「ごめん、ものすごく忙しい。ランチは無理。ディナーで!」
時計が正午を刻む直前。
部署に走り込んできた弓倉海は、書類仕事をしていたアリスと目が合うなりたった一言だけ言うと、あとは返事も聞かずに風のように走り去っていった。
都合が良いも悪いも、アリスの側の事情を言う隙はまったくなかった。
(巻き込んだのは私なので、断るわけがないんですが。話し合う機会を作ってもらえるだけ、重畳といったところです。なにしろ相手はあの、誇張なくお忙しい「広報部の弓倉部長」なわけでして)
海はその場にいるだけで特別なオーラを放つ存在だけに、これまでも社内にいれば気配を感じることはあった。だが、常に忙しく動き回っている上に、アリスとは仕事上での接点もなく、会話をしたことはなかった。
そんな「同じ会社で同じ空気を吸っている」だけの間柄だというのに、婚約者だと思っていた彰久から浮気・詐欺・デマのコンボを盛大に決められたとはいえ、やけになった勢いで「婚約者です」という嘘に巻き込むなんて。
今さらながらに恐ろしいことをしたものだと、アリスはしみじみと思う。
この嘘から真が飛び出てくることは、億にひとつもないとわかっている。
ただ、少しだけ気になっているのは、海がアリスのフルネームを認識していたらしいことだ。
(アリスって名前で言われたの、すごくびっくりした……。彰久のことを斎藤さんって呼んでいたくらいだから、私に限らず社員の顔と名前が頭に入っているタイプのひとなんだろうけど。プリンス弓倉、記憶力の無駄遣い過ぎない……!? 容量バグ。若さのなせるわざなのかな)
ぎりぎり二十代で三十歳手前という海より、アリスの方が三歳くらい下のはずだが、同じことをできる気はしない。となればもう、若さでも説明がつかない海独自の特殊スキルの一種なのだろう。
決して「あの弓倉さんに認識されていた」などと勘違いし、浮かれたりしないようにしなければと、気を引き締める。
決意するアリスの横で、デスクに向かっていた同僚女性の石塚がこそっと声をかけてきた。
「白築さん、本当にあのプリンスとお付き合いしていたんですね」
「はいっ!?」
まさか! と勢いで言い返しそうになり、危ういところで呑み込んだ。
アリスはこの状況を作り出した張本人であり、興味本位で聞いてきた石塚はまったく悪くない。
むしろ臆せず話題にしてくれたことで「昨日までは誰も想定しなかったことが現実に起きている」と再確認できた。
真っ赤な嘘なのだが。
「付き合って……。はい、あの、勢いで騒ぎ立ててしまいまして、すみませんでした」
「謝られるようなことじゃないわ。純粋に、ただただ面白かったから」
面白がられている。
アリスはひとまず笑みを浮かべた。石塚は、せっかく会話の口火を切ったからとばかりに、悪気のない様子で続けた。
「ここだけの話だけど、結構前から白築さんって変な噂があったのよ。男好きだとか、他部署の既婚者と不倫しているとか」
「私が?」
「色気もないのに、そんなことあるかしらと思って」
「……! ですよねえ!」
手にしていたボールペンを、折りそうになった。
まったく気にした様子もなく、石塚はおっとりと微笑みながら続ける。
「美人だけど、影のあるタイプじゃないし、こそこそ既婚者と付き合うなんて面倒なことはしなさそうだなって。そう考えると、斎藤くんにつきまといしていたというあの噂も、なんだか違和感はあったのよね」
「言って頂いてありがとうございます。私自身、そういう噂がきちんと耳に入ってくるくらい、社内での立ち回りに気をつけていれば良かったんです。これきっと、私の心がけ次第で、もっと早く気づけたことですね」
それが、とても悔やまれる。
これまでアリスは、仕事に関係ないことには可能な限り関わらないようにして生きてきたが、結果的に社内で情報惰弱として危機に追い込まれるなら、人間関係や雑談について認識を改めるべきなのだろう。
(私が普段から仲良くしている相手も、決して噂好きじゃないからなぁ。そういう関係が煩わしくなくて良いと思っていたけど、大人の世界はそれだけじゃないよね。いままで関心を持たないようにしていたことにも、目を向けていこう)
転んだ以上、ただで起きてはいけない。
自分に足りない部分を意識して、変えていかなければ。
この先もっと大変な事態に直面したときに、潰れてしまうだけだ。
その意味では、今回は命は助かったのだからくよくよしている場合ではない。
ただし、失ったお金は痛手だ。
(返してほしいけど~! ストーカー被害って広められていたのが、絶妙に嫌な状況過ぎる。借用書も持たない私が彰久に絡んでいけば、周囲からは「またつきまといしている」って目で見られるわけでしょ。くぅ~、仮にも弓倉海と付き合う女が、そんなことするわけないでしょ!)
心の中で叫んでみたが、嘘は嘘。アリスは本物の彼女ではなく、婚約者でもない。
してみると、やはり海がどうしてあそこで「はいはい」とばかりにこの嘘に話を合わせてきたのかは、気になるところである。
「そういえば、この際だから言うけど、実は今日斎藤くんの送別会が予定されているのよ」
不意に、石塚が爆弾を落としてきた。
「……何モ聞イテマセン」
「そうよねえ。なんだか白築さんとトラブルがあるって回覧板が回ってきて、箝口令を敷かれていたから」
「完全にただのいじめじゃないですか! どこかで誰かが『これ何すか? 大人なのに、クソダサくないっすか?』って言うところですよ! というか、私だったら絶対に言います」
「言うでしょうねえ。今なら、わかる。白築さんはそういうひとだわ。だからなの? あの弓倉さんのお眼鏡にかなったのは」
かなってはおりません。決して。あれは虚構です。
肝心な部分を声に出すことはなく、アリスは咄嗟にスマイルで対応した。
(ああ~! 言ってるそばから、自分がクソダサ~! だけど、プリンスと打ち合わせするまでは、迂闊にネタばらしもできない!)
もう、事後だ。巻き込んだ後なのだ。
この件について、海が話し合いの時間を作るつもりでいる以上、アリスは余計なことを言わないで口をつぐんでいた方がいい。
なぜなら、海はあの場であれだけノリノリだったのだ。アリスが知らないだけで、彼にも何かしらのメリットや狙いがあると考えておいたほうがいいかもしれない。
(なんだろう。よくある展開で言えば、偽装恋人? 今まで、個人的にそんなに興味なかったから創業者一族の出身としか知らないけど、御曹司なんだっけ。庶民にはわからない政略結婚との縁談が舞い込むとか? それでなくとも、モテすぎて困っていそう)
その話を聞き出すまでは、一旦保留にしておこう。
方針を固めたあとで、アリスはふと気づく。
考えることが多すぎたせいで、自分が今朝まで婚約者だと思っていた彰久の裏切りについて、瞬間的に失念していたことに。
この情の薄さ。
思わす独り言を口にしそうになり、ぐっと堪える。
デスクの隅にあったメモを取り、込み上げてきた気持ちを、ボールペンでさらっと書いてみた。
“好きじゃなかったんだろうな”
すぐにその一枚を剥ぎ取り、くしゃっと握りつぶした。