11,春日クルーズ(1)
「青海クルーズの芦屋専務の招待です。『白鳳』就航に向けて、香空の人材に『春日』の短期クルーズを体験してもらいたいという、あの件です。俺はもともと招待を受けていたんですが、白築さんも一緒にということでした。……はい、芦屋専務は面白がっています。今週の木曜日から土曜日です。よろしいですか」
城戸が芦屋を見送りに出た後、海はその場で暁子に電話をして乗船の話を通した。短い受け答えで通話を終えてから、ふう、と小さく吐息してアリスの方へ体ごと向き直る。
「副社長の了解を得たよ。急でごめん、また出張になる」
海は申し訳なさそうにしていたが、アリスはすでにそわそわとしていた。
「『春日』のクルーズ体験ですか……! すごいですね。仕事でもめちゃくちゃ楽しんでしまいそうです。気を引き締めていかないと、絶対あれもこれもと騒いでしまいそう」
芦屋は人間として癖がありそうであったし、海や城戸とも旧知の間柄のようで気になる言動はあったものの、アリスの関心は豪華客船に乗れる! でいっぱいだった。
目を細めてアリスに優しいまなざしを注ぎ、海は落ち着いた口ぶりで話し出す。
「騒いで楽しんでくれれば、それが何より今後のアリスの糧になると思う。ホテルやレストランの仕事は、究極的に言えば一生の思い出になる体験をお客様に提供すること。香空リゾートという会社に関して言えば、ラグジュアリーな価格帯のサービスを期待されている。それは、建物やアメニティを最高のもので揃えただけでは完成しない。『何がラグジュアリーであるか』知っている人材が接客にあたることで、初めて成立するんだ」
「頭ではわかっていても、給料は庶民なので身銭を切って学ぶ機会はなかなかもてないですからね。あっ、すみません」
一般社員としての所感を口にしてしまった。海は「そうだよね」と苦笑して頷く。
「いきなり給料を上げることはできなくても、せめてグループ店の利用に関しては、もう少し従業員向けの優遇価格を整えていけたらとは考えている」
そこまで話してから、お互いに顔を見合わせてハッと同時に気づいてしまった。
「ごめん。すぐに仕事一色になる。アリスに俺との同居を選ばせてしまったことで、家に帰っても会社の延長を味わわせてないか心配になっていたのに」
「そんなことないですよ! いま私が余計なことを考えず、目の前の仕事に全力投球出来ているのは、海さんのおかげです! 家の中はきれいだし、朝は送ってくれるし、出張から帰っても美味しいごはんがいつでもあって。あの、私は恩恵100受けている感じなんですけど、海さんは」
「10000。だけど、欲を言えばもう少し、起きているアリスに会いたい」
あーっ、とアリスは呻いて深々と頭を下げた。
「本当に、毎日毎日爆睡ですみません。家でも車でもどこでも寝てばかりで」
「それはたぶん、体が睡眠を必要としているんだ。眠れないよりは全然良い。さすがにいまの仕事状況はひどいからね。真剣に、もっと休んでもらいたいと思っている。城戸からも、副社長が休みなんだから休めと言われていたんじゃない?」
「お見通しですね」
「三角関係でトラブっていたという芦屋の見立てよりは、よほど正確に。ちなみに芦屋と俺は高校からの腐れ縁で、家族ぐるみで知り合いだ。あいつは姉と城戸のこともよく知っている。ただ、二人の現在の関係に関しては俺にもよくわからないし、どうにもできない。内緒」
重要な情報を口にしつつ、唇の前で指を立てて、片目を瞑って微笑む。
「城戸の話はともかく。どんなに体調が心配でも、アリスの首に縄をつけて引っ張って家まで連れて帰れるわけじゃない。他部署だし、俺からは口出ししないよ。とはいえ、会社都合で木曜日から『春日』乗船なわけだから、それまではなるべく体に負担をかけないような仕事を。船に乗ったら、地上のことは全部忘れて一緒に楽しもう」
思わず会社員として「しっかり勉強します」と言いそうになったが、アリスはこのときその言葉をなんとか呑み込んだ。
海が一緒に楽しもうと言っているのだ。まずはその気持ちをありがたく受け止めて、自分も待ち切れない思いであることだけを伝えようと慎重に言葉を選ぶ。
「はい。本当に楽しみなので、体力を温存しておきます!」
「よろしく。俺もそれをご褒美だと思って今日から三日間頑張るから」
爽やかに言い終えて、海は歩き出す。
そのまっすぐに伸びた背を見て、アリスは心があたたかくなるのを感じた。
* * *
木曜日の「春日」乗船は、出張扱いの仕事とはいえ、参加社員でどこかに待ち合わせていっせいに向かうというわけではなく、現地集合だった。
旅行気分を満喫してほしいということで「香空の社員として乗船していることを頭の片隅に、節度ある行動さえ心がけてくれれば、一般のお客様として楽しんでくれて構わない。それが青海クルーズ側の希望でもある」と。
アリスはトランクを引いて、海と一緒に横浜港へ向かった。
乗船前の待機場所であるラウンジに向かうと、すでに城戸の姿がある。
「お疲れ様です。二人きりで楽しめばいいのに。こっちも適当にやりますよ」
城戸はアリスにはいつも通りそつなく挨拶をしたあと、海に対してはややぞんざいな調子で言った。
会社仕事仕様のエグゼクティヴスタイルの海は「そうしたいのはやまやまだが」と悔しそうに答える。
「さすがに俺はそういうわけにはいかない。視察を兼ねているから、船内でも一日目は打ち合わせが詰まってる。『白鳳』のメインプロデューサ―も同席だからな」
城戸も仕事だぞ、と海はすかさず釘を刺す。心得ていたように城戸は頷いた。そのとき、風がふっと揺らめいた。
「おっはよう、来てくれて嬉しいよ。三日間、短いけど楽しんでいってね!」
姿を見せたのは芦屋で、今日は目が覚めるようなロイヤルブルーのスーツ着用だった。
アリスと目が合うと、まるで旧知の間柄のような親しみをこめた笑みを浮かべる。それはいかにも一流のホテリエのような印象で、アリスは職業的な意味で尊敬の念を覚えた。
(接客において、人柄でラグジュアリーを演出できるような人材って、こういう方のことですよね。目端がきいて、センスもあって、どんなお客様を前にしても物怖じしない感じ。海さんもだけど)
芦屋は、なめらかな口ぶりで話を続ける。
「弓倉部長には、もちろん最上級のスイートルームを用意している。城戸と泊まるのは仕事の延長で味気ないだろうと気にしていたんだけど、白築アリスさんが来てくれて良かった。副社長もそういうところは、話が早くて良いね」
「お招きありがとうございます。一生分楽しみます」
「なんだって、一生分? 一生は長いよ。気に入ったら今度はプライベートでぜひ。そうだ、香空のウェディング事業はいま苦戦しているらしいけど、気を遣ってそっちじゃなくてうちを選んでくれてもいいからね。貸切で」
笑みを浮かべたまま、アリスは固まる。結婚を示唆する発言もさることながら、豪華客船一隻貸切の金額など、まったく想像がつかない。
「芦屋専務、余計なお世話だ。あまりうちの事情に首をつっこまないでもらおう」
海は冷ややかな声で口を挟むものの、芦屋は悪びれた様子もなく笑顔で応じていた。
「ごめん。もう興味津々で何もかも首をつっこみたくて仕方なくてさ。海が香空に就職しないんだったら、青海クルーズに来れば良かったのにっていうのは、まだ諦めてないから。ほら、名前だって『海』なんだし、うちの仕事の方が合ってるよ。この際婚約者ともども引き抜こうかな」
「『白鳳』の業務提携の件で、うちはだいぶ無理をきいているし、精一杯尽力している。この上アリスまで引き抜こうというのは、見過ごせない」
「引き抜きがだめなら、いっそ略奪かな。要は、白築さんに海より俺を選んでもらえばいいわけだよな。会社としても男としても。……あれ?」
芦屋はあくまで海をからかっているだけのようだが、当の海がそう受け取らなかったようで空気が恐ろしく重くなった。
「……うわ、マジなんだ?」
「マジも何も、冗談で女性と付き合うことはない」
昔馴染みである芦屋に対しても、海は厳しい表情で言い放った。
だが、芦屋は軽く肩をそびやかしただけであった。
「出会いとして社内っていうのはベタだけど、海は御曹司なわけだから付き合いそのものは厳しいよ。今回は香空から要求されたわけではなく、俺がお膳立てしたとはいえ、取引先から招かれた高級リゾートに女性帯同って、騒動起こした前の広報部長と何が違うんだって感じもあるし。そこは愛人ではなく婚約者っていう建前で他の社員に筋を通しているつもりかもしれないけど、楽観的には考えないことだ。ただでさえ同族経営企業っていうのは、それだけで上層部が身内びいきだと受け取られがちなんだから」
さすが、海と同じく若くして親族の会社で重役の地位を得ているだけのことはある。
(言葉に実感がこもっていますね!)
アリスとしても、気になっていたところだ。ものすごく痛いところを突かれている。もしかしてクルーズ招待は芦屋の罠だったのでは、と今更ながらに肝が冷える思いだった。
たたみかけるように、芦屋は爽やかに続けた。
「白築さんが香空の仕事で頭角を現しているなら、能力的には問題ないだろうし、うちとしては歓迎だ。社内的に厳しい目がある場合は、出向の形で青海クルーズに預けてくれてもいい。白築さんの勉強にもなる。海、そこは冷静に判断しろよ」
冷静に、と言われたのが効いたらしい。
言われ放題に対していまにも反論したそうな顔をしていた海であるが、軽口を叩くことなく、真剣な顔で芦屋の提案に頷いてみせる。
「わかった。さすがに世界一周で一年のうち何回か丸三ヶ月連れていくと言われたら、俺も悩むけど……。いまのアリスの仕事量はどうかと思っているし、働き方は見直したほうがいいだろう。本人の意向を大切にしつつ会社として検討する」
アリスは口を挟めず話の成り行きを見守っていたが、海と芦屋と城戸に目を向けられて、姿勢を正した。
「香空の社員として、勉強のために出向をと言われたらお断りはできないかもしれませんが……。私としてはいまの仕事を中途半端にしたくはないですし、後学のために豪華客船に乗船できると言われても、三ヶ月海さんと会えないのはさすがに」
すらっと答えてから、息を呑んで口をつぐんだ。
(本音を言い過ぎたかも……!)
少し前に、城戸から言われたことがずっと気にかかっていたのだ。会社員同士としてではなく、恋人として弓倉海を思いやることはできないのか、と。
自分なりに、大切な場面こそ仕事を挟まず正直な気持ちを優先しようとしたのだが、いまのはどうだっただろう? と焦って海へと目を向けた。
「うっ……泣きそう」
海は俯いて胸を手で押さえてしまっていた。本当に泣いているかもしれない。
「まあ、泣きますよね。どう見てもずっと片思いでしたから」
城戸がそっけなく言い放ち、芦屋は腹を抱えて笑い出す。そして、楽しげに呟いた。
「なんだ、片思いなのか? それじゃあ、俺にもまだまだ付け入る隙はありそうだな」
* * *
乗船後、海は「仕事はすぐに終わらせてくるから!」と言い残して、せっかくのスイートルームを探索することもなく、慌ただしく部屋を出て行ってしまった。
残されたアリスとしては、職業柄アメニティチェックをしそうになったが、ぐっと堪えて人生で何度踏み入れるかわからない豪華な部屋を堪能する。
「まさか、こんなお部屋に泊まる日がくるなんて……。『白鳳』では一泊数百万のお部屋ですよね。『春日』でも……」
値段を思い浮かべそうになり、首を振る。
思い切って、キングサイズのベッドに身を投げだして「考えない!」と声に出して宣言をした。
(もともと、この部屋は城戸さんが泊まる予定だったと言うし! 「一緒なんてとんでもない」と別室に行ってしまったけど、決まったことでいつまでもおどおどしても仕方ない!)
城戸にも言われてしまったのだ。謙虚も辛抱強さも、行き過ぎると鬱陶しいと。
仕事を忘れて楽しんでと言われているのに、いつまでもびくびくしていたら、かえって周りに迷惑をかけてしまう。
「今日まで仕事頑張った! この三日間は、宝くじに当たったと思って全力で満喫しよう。それが後の糧になる!」
自分に言い聞かせて、アリスはウェルカムフードやドリンクが用意されているというビュッフェスタイルのレストランに向かう。
一般客で賑わう中に、ちらほら知った顔があった。
「白築さん! お疲れ様です!」
声をかけてきたのは、秘書課の三輪だった。
いかにもプライベートという装いで、小学生くらいの女の子を連れていた。少し離れたところに、妻らしき女性と小さな男の子がいる。
「お疲れ様です。三輪さんもいらっしゃったんですね」
「ええ。せっかくだから行ってこいと、社長の温情で。土曜日まで出社扱いなんですけど、家族も全部招待で持ち込み仕事はなし。こんな機会ないからって、子どもたちも学校を休ませて来てしまいました。白築さんは弓倉部長と一緒ですか」
「はい。大変恐れ多いことなんですが」
私は家族でもないのですがと喉元まできていたが、三輪の笑顔を前につまらないことを言うのをやめた。
「白築さん、最近忙しかったからちょうど良かったですね。『白鳳』の就航まで、社内的に希望を募って『春日』クルーズ体験は続けるとのことです。他の社員も楽しみにしていますから、ぜひめいっぱい楽しんで次につなげてください。ここだけの話、家族連れで人数も多いので、うちもずいぶん良い部屋を用意していただいてしまいました」
さらっと言って、三輪は家族と去って行った。
「そっか。よし、楽しもう!」
俄然気持ちが軽くなったアリスは、そこからビュッフェを堪能し、船内を気ままに散策してジムやカジノを覗いて歩いた。
どれも興味深くて楽しそうだったが、やはりひとりでは寂しいと中まで足を踏み入れることはなかった。
(海さんと二人でいるときに来たいな)
テナントのエリアで、宝石店と高級ブティックを横目に通り過ぎようとしたところで、タイミングよくスマホを手にしていた海と出会った。
「アリス! 打ち合わせは全部終わった! もう少し予定はあるけど、行動は自由だから。ちょうど良かった。いま連絡しようとしていたんだ。ドレスコード気にしていたよね? 新しく服を買っている時間もなかったし、ここで揃えよう」
「ここで」
楽しもうと思ったそばから、値段を気にしてしまう自分が若干疎ましい。
(さっき通り過ぎた花屋さんでは、地上より一桁数字が多かったみたいなんですが。船内ブティックで服を揃えると……)
海は完璧な笑顔で言った。
「アリスの誕生日が明日だというのは知っているんだ。俺も忙しくて何も用意できていないから、今日贈るものは全部誕生日プレゼントということで受け取って欲しい。今晩のレストランは一番ドレスコードが明確なところ。あとは『春日』にもダンスホールがあるけど、そこもドレス必須。全部行く用事があって行くから、アリスにも付き合ってほしい」
そこまで言われては、断る理由もない。アリスはもまた笑みを浮かべて「ありがとうございます!」と感謝の気持ちを伝えた。




