7,試練到来!?
桐原の背に続き、通路を進む。
辿り着いた先は、ひときわ大きな水槽のそばのテーブルで、すでに二十名近くがテーブルについていた。
「お、噂の婚約者だ、本当に来た!」
遠慮のない声が耳に届き、アリスは事態を把握した。
(忙しくてすっかり頭から抜けていたけど、私は社内的には「曰くありの人事異動」のひとで、知らないところでも噂されていたはず。このくらいの洗礼は当然かもしれない……!)
半数以上が男性で、秘書課の面々はいるが、室長の穂波と頼みの城戸の姿はない。
「みんな『婚約者さま』には興味津々でしてね。こうして場をもうけてご招待させていただきました。副社長専属秘書就任の挨拶と意気込みでも、一発ぶちまかしてくださいよ」
食えない笑顔の桐原が、アリスに圧をかけるようにして言ってくる。
(悪気しかない飲み会に思えるけど、ここで隙を見せるわけにはいかない!)
意地が勝った。
アリスは笑みを浮かべて自己紹介をする。
「秘書課に配属になりました白築です。ご挨拶の機会をいただき、ありがとうございます。よろしくお願いします」
「もっと何かないんですか? 大空家に取り入る方法とか、あの堅物で有名だった弓倉部長を転がすテクニックとか」
横から、桐原が茶々を入れてきた。
ここに至るまでの高瀬との会話でも薄々感じていたが、これが現在のアリスの社内的な評価や位置づけなのだろう。
いっそ、正直に教えてくれるだけ親切というものだ。
「転がす? 弓倉部長を転がす方法なんてこの世にあるはずがないと思います。そういう誰かの思惑に屈する方ではないので」
「へえ。さすが、大空家に迎え入れられるだけあって肝が座っている。見た目は可愛いお嬢さんだけど、悪女の噂も伊達じゃなさそうだ。なにしろ、あの弓倉部長と他の社員とで二股かけていたって話じゃないですか」
ぐさっとアリスの胸に刺さるものがあった。
(噂……! 実際のところは、二股かけられていることに気づかず、お金をむしり取られて捨てられた後に海さんとのお付き合いが始まったわけですが……!)
交際に至るまでに二股期間はなく、順序は間違えていない。だが、海と近づいたきっかけがアリスの大嘘という事実は動かし難く、アリスの性格的には後ろめたいものがある。
動揺が顔に出てしまったらしく、桐原はにやりと人が悪そうな笑みを浮かべた。
「今日はぜひその辺を詳しくお聞かせ願いたいものですね。なにしろ、白築さんはこの先大出世をして、俺等の上に立つひとかもしれないわけですから。ひとつ、その高い志や香空への熱い思いってやつも含めて、いろいろと語ってほしいわけなんですよ」
秘書課へ足を踏み入れた初日に「将来の社長夫人」と言われたことを、思い出す。
(私は入社時のトラブル以降の数年、知らないうちに海さんが防波堤になってくれていたことで、社内的に平和に生きてきたけど……。逆に今は海さんの「婚約者」として認識されたことで、海さんにきゃあきゃあ言っていた女性社員や、出世を目指して働いてきた社員たちからは厳しい目で見られているはず)
秘書課で、なんでも優しく教えてくれた同僚の高瀬まで、アリスと海の関係に疑念を抱いていたように。
いまのアリスは注目されているし、こうした場では試されるのだ。
逃げるのは簡単だが、一度逃げてしまえばこの先もずっと逃げ続けることになる。しかも、追い打ちをかけられまくるというのは直感的にわかる。
(暁子副社長ならどうする? 毅然として立ち向かうよね! 私もそうなりたい!)
会社員として、働く女性は今まで何人も見てきた。その中にあっても、アリスにとって暁子は初めて会うタイプの女性だった。
仕事量、バイタリティ、判断力、社交術。
そのすべてが、他人のやっかみを寄せ付けない迫力に満ちている。
(副社長の仕事を間近に見る前だったら、逃げ道を探したかもしれない。婚約者っていじられても「海さんの周りにはキレイな女の人がいっぱいいるから、自分なんて」とか。だけど、問題の本質はそこじゃない。私がどれほどの人間か興味を持っているひとたちは、外見よりも「能力」こそ気にしている……!)
遥か高みにいる海と「釣り合う」と自信を持てるようになるためには、アリス自身が周りを認めさせていかなければいけないのだ。
引っ込み思案になっている場合ではない。
まだまだ実力は伴わないとしても、度胸で立ち向かえ! と己を鼓舞して、アリスは隣の桐原に笑顔を向けた。
「幸運にも、副社長のおそばで香空の仕事を見せていただく機会を得られまして、身が引き締まる思いです。この先ずっと秘書課なのか、異動があるかわかりませんか、どこへ行っても全力で取り組みます。至らぬ点もありますので、何かお気づきのことがありましたら、ぜひ教えていただけると嬉しいです」
場が静まり返った気配があった。
(あっ、だめな感じですか……!?)
暁子が取引先と会話するときのイメージで、そつのない受け答えをしたつもりだったが、反応が微妙だ。アリスが内心焦りはじめたところで、離れた席についていた高瀬がぱちぱちと拍手を始めた。
「僕、一緒に仕事してますけど、白築さんめちゃくちゃ真面目で努力家ですよ。いままで誰も続かなかった副社長の秘書を、文句も愚痴も言わずに体当たりでこなしていますからね。最初に顔合わせたときは『なんであの弓倉部長の婚約者がこういう普通のひとなんだろう?』って思ったんですけど」
今も思ってますし、と小声で付け加えていたが、周囲はひとまず「へえ」という反応だ。
(高瀬さん、ありがとう! フォローしてくれたんですよね!)
海の婚約者として認められていない件は置いておくとしても、仕事に関しての証言は心強くありがたい。
「いま私がなんとか副社長のペースについていけているのは、先輩としてご指導くださる高瀬さんのおかげです。これからもよろしくお願いします」
たとえ相手が社歴においては後輩であろうとも、頭を下げることは気にならなかった。
アリスが、まるでホテルの接客スタッフのように丁寧なお辞儀をすると、今度は周りがおお~っと湧いた。
隣の桐原が、にやにやとしながら言う。
「なるほどねえ。どっかの財閥の居丈高なご令嬢とか、会社の仕事一切する気のない見た目だけのモデルのおねーちゃんとか、仕事はしないけど幹部ヅラして口は出してくる妙に金のかかっていそうな女とは少し違うかな」
おそらくほんの少しだけ認められたようだが、アリスとしては聞き捨てならない文言があった。
(それが弓倉部長の婚約者として考えられる女性のタイプということですか?)
気にはなるものの、若手の高瀬が先陣切って発言した影響もあってか、目に見えて場の緊張感が解けていた。まずはそのことに、胸を撫で下ろしたくなる。
「まあ、こういうのはもう流行らないですから。コンプラ的にもまずいですし、このへんで」
社長付きの秘書である三輪がとりなすように言い、「白築さんは本当に、目を見張るほどの頑張り屋さんですよ。あの副社長付きですから」とさらに言い添えてくれた。見せしめのような場に息を詰めていたらしい何人かが、ほっとした様子で表情をゆるめた。
「いや、白築さんの秘書課異動は良い人選だと思います。普通にうちの部署でも欲しい。物怖じしないですし、鍛えがいがありそう」
「素朴だな~と思っていたけど、弓倉部長は見る目あるんだな」
「数年後化けるわ、これ。今のうちに媚び売っておこう」
聞こえよがしな会話は、どれもアリスにとって好意的なものばかりだ。
(いつどこで足をすくわれるかわからないから、安心はできないとしても、少しだけ気が楽になったかも。今までこういう会社飲みは好きじゃなくて避けられるならば避けてきたけど、この人数に一気に「私」を知ってもらえるなら、今日は来て良かった)
アリスは「こちらです」と声をかけられて、水槽が正面にくる席に腰を下ろす。
乾杯してお酒を飲み、運ばれてくる料理を食べて、周囲のひとたちと和やかに会話をした。
最初に抵抗を感じたのが申し訳ないほど、隣の席に座った桐原が何かと細かく気を配ってくれた。
「いや~、白築さんが弓倉部長の婚約者じゃなかったらなぁ。ドタイプなんで、付き合ってくれるまで押しまくったのに」
しまいに冗談か本気かわからないことを言われて、アリスは苦笑いをする。
(いままでモテたことないですからね! さすがに「私」に興味があるわけじゃなくて「弓倉部長の婚約者」への興味だってわかります。勘違いはしない……)
記憶にある限り、アリスはろくなモテ方をしていない。
新入社員のときに前広報部長に声をかけられたのは「若いから」だろうし、結婚詐欺まがいの行為を働いた元彼は単に「だましやすそうだったから」だろう。
こうなると、なぜ突然プリンス弓倉がアリスの前に現れたのか、経緯を知った今でもアリス本人が一番解せないものがあった。何故……? と。
「桐原さん、それはいま独身男性の皆が思っていることですよ。弓倉部長が目を光らせてなかったら自分だって白築さんにアタックしたのになんて、僕も思いますから」
グラスを片手に、アリスの後ろまで来ていた高瀬が、不意に口を挟んできた。
アリスが振り返ると、にこっと笑いながらグラスを持った手で水槽を示す。
「お疲れ様です。ここ、いい席ですよね。普通は通路側の席って店員さん呼んだり料理下げたり何かと世話を焼く位置だから、幹事や下っ端が座るイメージですが、ここのお店は水槽ビュー席が上座なんです。僕は背中を向ける席だったので、水槽を見に来ました。魚が綺麗ですね」
「そっか。そうだよね、通路側とはいえ景色がいい方が上座……。あっ、私、今日は上座のど真ん中ですね。恐れ多いことだけど、機会を作ってくれて本当にありがとうございます」
アリスがお礼を言うと、高瀬は動きを止めてアリスの目をじっと見てきた。
(なんだろう? 何か言いたいことでもあるのかな?)
言ってくれればいいのにと見つめ返すことにより、視線が絡み合う。高瀬は恐ろしく真剣な顔をしながら「わかってないよなぁ」と呟いた。
何を? とアリスは聞き返そうとして、身を乗り出す。
そのとき、妙な静けさが訪れた。
ほどよく酔った人々の視線が、自分を通り過ぎて背後の誰かに向かっていることに気づき、アリスは高瀬から視線を外してそちらを見た。
「お疲れ様です。邪魔するつもりはないんだけど、通りがかったもので。知った顔もあるし、せっかくなので挨拶しに来ました」
どういう理由があれば、オープンテラスでもない店の中を通りがかることがあるというのか。言い訳にしては、若干無理がある。
一瞬にして話し声が絶えて静まり返った中で、高瀬が呆然とした様子でその場に顔を出した相手の名を口にした。
「弓倉部長……?」




