6,犬系後輩暴走する
退社後、居酒屋の予約時間までアリスは高瀬とは別行動で、五分前に目的地の近場で待ち合わせてから向かった。
時間には間に合ったものの、結局何かと仕事をしていてギリギリになってしまった。私用のスマホから海へ連絡できなかったことが心残りとなったが、ひとまず割り切る。
(一次会で帰ればそんなに遅くならないはずだし、タイミング見て連絡しよう!)
落ち着かない気分のまま高瀬と店に入り、灯りが絞られた中、青く浮かび上がる水槽を見てアリスは歓声を上げた。
天井が高く、壁一面に設置された水槽の奥では魚たちがのびのびと泳いでいた。
「アクアリウムレストラン! 東京って感じがする! こういうドラマで見るようなところ、来てみたかったんですけど、行く相手がいなくて。行きたいと思いながら、どこにあるか探しもしなかったんですよね。本当にあるんだ。素敵な機会をありがとうございます!」
興奮して騒ぎつつも、隣の高瀬に声をひそめて「誰がお世話しているんでしょうね。水族館の飼育員レベルのスタッフさんが常駐しているんでしょうか?」と、職業柄気になる雑談を振ってしまう。
高瀬は「暗いので、足元気をつけてください!」と細かく気配りをしつつ「水槽の管理方法は気になりますよねー」と相槌を打ち、続けてさりげない口ぶりで尋ねてきた。
「行く相手がいないって、弓倉部長とは一緒に出かけないんですか? デートで」
まさに、アリスも海のことを思い浮かべていたところであった。
こういう素敵な場所は海と来てみたいな、と。
「弓倉部長とは、この忙しさもあって一緒に出かける機会がなくて」
「付き合っているんですよね?」
直球の質問に、アリスは胸に痛みを覚えながら苦笑いを浮かべる。
(私の記憶がたしかなら「週末ごとにどこかへ行こう」という約束はしました!)
実現できないまま、あっという間に二週間が過ぎてしまった。
主な理由は、アリスの出張に次ぐ出張で、日常的に海とまともに会話する時間がもてていないことだ。
一緒に暮らしていてさえ、この状態なのだ。
もし同居していなかったら、アリスはとうに自分が海の彼女であることを忘れていただろう。
「仕事を言い訳にしている場合ではないんですが、どうしても時間が無いんです」
「たしかにいまの白築さんの忙しさは、社内でもトップクラスだと思いますけど。前の部署のときからですか? そういえば、お二人一緒の目撃証言がこれまで一切なかったのが若干気になっていたんですが、どこでデートしていたんですか? 海外?」
「デートはその、したことがなくて」
とっさにごまかすこともできず、アリスは正直に答えてしまった。
高瀬は大きく目を見開き、「は?」とやや剣呑な調子で聞き返してきた。
「意味がわからないんですけど。セフレとか体だけの関係だったってことですか? デートはなし、ホテルで会うだけ、みたいな」
「違います! 弓倉部長はそういうひとではありません!」
とんでもない勘違いが発生したと気づき、アリスは力いっぱい否定する。しかし、高瀬は疑いに満ちたまなざしのままだ。
「どう考えても、お二人の付き合いは不自然だと思っていたんですが、そういうことですか。白築さんが弓倉部長に都合よく利用されているだけなら、俺は許せないですね」
「高瀬さん、本当に誤解です! 弓倉部長は大変素晴らしい方なんです! ただ私が至らないだけといいますか!」
忙しさに体がついていかず、家には寝に帰るだけで、海さんのスケジュールすら把握していないのでいざ土日を前にしてもデートの約束もしていなかっただけなんです! とアリスは頭の中で言いたいことを渋滞させていた。
一方の高瀬は、アリスの言い分を言い訳だと確信してしまったようで、もはや一切聞く耳を持つつもりもないらしい。
「何年か前、副社長の旦那さんが女性社員を食い物にして左遷される大騒動があったって聞いてますけど、俺そういうの大っ嫌いなんですよ。そこからクリーンになったのかと思ったら、今度は若手の弓倉部長がやらかしているなんて、マジで幻滅。はぁ~」
「妄想で幻滅しないでください! 弓倉部長はとても高潔な人柄ですよ。話せばわかりますから」
「自分の彼氏に『高潔』なんてふつう言いますか? どんなえげつない関係を強要されているんですか。ここ二週間ほど、白築さんと仕事してきて確信したんですけど、白築さんは変なコネなんてなくても十分昇進できる熱意とバイタリティですよ。不本意な関係を強いられているなら、弓倉部長なんかいっそ捨てればいいと思います」
全然話が通じない! とアリスは頭を抱えそうになった。
(高瀬さんは思い込みが激しい! 弓倉部長と接する機会があれば、そんな人間じゃないってすぐにわかるはずなのに。あと、私がセフレという誤解もどうかと!)
アリスのことを心配したり、能力を買った発言をしてくれる気持ちはありがたいものの「弓倉部長のセフレから成り上がり、婚約者と秘書のポジションをもぎとった」と言われるのはかなり抵抗がある。
一方で、破れかぶれの心境のときに「このひと、私の婚約者です!」とアリスから海を大嘘に巻き込んだのが接近したきっかけという経緯があるだけに、強引な成り上がりととられても仕方なく、高瀬の思い込みのすべてを否定できない泣き所を抱えていた。
「おい、遅いぞ高瀬。何やってるんだ」
そのとき、通路の先から姿を見せた相手に、声をかけられる。
清潔感のある短髪に、いかにもジムに通っていそうなたくましい体つきの男性で、スーツの胸元がはち切れそうなほど盛り上がっていた。
「桐原さん! すみません、いま行きます!」
知り合いらしく、高瀬が弾かれたように返事をする。
(見たことがあるような気がするから、うちの社員よね……? 秘書課ではないと思うけど)
誰だろう? と記憶を辿っているアリスを振り返り、いつもの子犬っぽさを取り戻した高瀬がはきはきとした口ぶりで告げてきた。
「営業の桐原さんです。実は、営業から以前より秘書課と飲み会をしようと誘われていまして。今回、もう店を押さえたと言われて『ちょうどいいタイミングだから、白築さんの歓迎会として!』ということで、合同で飲み会をすることになったんです」
「合同……」
あれ? 思ったより人数多い場かな? とアリスは一瞬怯みながら桐原へと目を向ける。
にかっと笑いかけられた。
「これはこれは、噂の『婚約者さま』ですよね。お待ちしてました。もうみんな揃っているので、席までどうぞ」
やや癖のある話し方で呼びかけられて、アリスは悟る。
(ただの飲み会じゃなさそう)
もしかして、はめられたのかもしれない。




