5,忙しさはすれ違いのはじまり!?
「一人暮らしなんて、弓倉部長にとっては慣れたものですよね。むしろ『一人暮らし最高!』という人生を送っていたと思うんですが。白築さんと生活時間がすれ違っているだけで、そこまで落ち込めるものなんですか」
出社早々、香空本社の広報部フロアで顔を合わせた海に向かって、城戸が不思議そうに首を傾げて言った。
本当に不思議がっているわけではなく、単純にからかっているだけとわかっている海は、城戸を軽く睨みつける。
「これまでは、副社長の専属秘書が空席だったことで、動きにくいこともあったのかもしれないけど。さすがに、副社長のいまのあの状態はやり過ぎだと俺は思う」
暗い声で呟き、海はため息をもらした。
アリスが秘書課に配属となってから、早二週間が過ぎていた。
その間、アリスは出張に次ぐ出張で、土日ですら半休程度まで削られる有り様。その貴重な休日は、なんとか引越し業者を手配して、マンションから荷物を引き揚げてくることに使ったので「週末にどこか泊まりに行こう」どころではない。
もちろん平日は出張で不在か、帰ってきてはいるものの疲れ切っている上に、翌日からの出張に備えて洗濯や荷造りでバタバタしている。かろうじて食事を一緒にとることはできても、ろくに会話もできないまま就寝の時間を迎えていた。
(アリスはとても寝付きがいい……! 爆睡! そんなところも可愛いから不満は無い。無いんだ……)
おやすみなさい、と安心しきった顔で言ってベッドに潜り込んでくるところがとても可愛い。待ちかねた海は抱き寄せて、何度もキスをする。アリスは応えるような仕草はするものの、すぐに寝息を立てて眠りに落ちてしまうのだった。
「可愛い……。そう、最高に可愛いし、遠くから見ているだけで話すことができなかった頃に比べたら、状況は劇的に改善されている。いまはたまたま生活がすれ違っているけど、気持ちまではすれ違っていないから」
全然平気、大丈夫、問題ないと口にする海に対し、城戸は眉をひそめて低い声で問いかける。
「言葉で確認しましたか。すれ違っていないというのは、弓倉部長の思い込みかもしれませんよ」
「城戸、俺を殺す気か」
一日のスケジュールの確認の他、細かい打ち合わせがあったため、二人はフロアの中でもガラスで仕切られたスペースにいた。周囲から姿は見えても、声は聞こえないはずだが、仕事には直接関係しない話題を口にしているせいか、自然と密談の音量となる。
「プライベートはさておき、実際のところ、白築さんは頑張り屋さんなので、秘書課でも好感度は高いです。応援したくなる人柄と言いますか」
うんうんうんうん、と海はしたり顔で頷く。
いかにも「俺のアリスなら当然だ」と言わんばかりの態度だった。
その海に対して、城戸は淡々と告げる。
「たった二週間だというのに、社内では以前の悪い噂はほとんど聞こえなくなったようです。弓倉部長との関係性で、もう少しやっかみもあるかと思ったんですが……。なんというか、その辺は暁子副社長のおかげで目立たなくなっているように思います」
「どういう意味だ?」
「今まで、副社長の専属はまったくひとが定着しませんでした。誰の目にも難しいとわかるそのポジションで白築さんが奮闘していることで、周りの見る目が変わったのでしょう。同じことをやれと言われても、できる女性社員は多くないでしょうから」
城戸のその言葉に、海は薄く微笑んで「それはどうだろう」と答えた。
「アリスがうまくやればやるほど、これまでの激務のイメージが薄れて『自分でもできる』と勘違いする社員は多いんじゃないか。『大空家に優遇されて、あんな誰でもできる仕事で働いているふりが上手い』と言い出す輩が絶対にいる」
ああ、と城戸は得心したように頷いた。
「それは当然、あるでしょうね。副社長の専属がどれほど大変か、秘書課の面々はわかっていますが……。他人の仕事に想像が及ばない者ほど、あんなことは簡単だ、誰でもできると思いたがる。白築さんは頑張っているアピールが下手なので、苦労を他人に見せないでしょうから、なおのこと」
「そうなんだよ。アリスは、俺にも苦労話を全然しないからな。家で仕事の話になって『大変じゃないのか』って聞いても『楽しい!』しか言わないんだ。叔母さんが羨ましい……毎日アリスと仕事しているなんて。絶対、俺よりずっと長い時間一緒にいるだろ。楽しいに決まっている。代わってほしい」
「秘書交代を実現できる可能性は限りなく低いですね。それとも手っ取り早く副社長を目指すと? いや、ただの愚痴でしょうか。聞かなかったことにしておきます」
そっけなく言って、城戸は窓の外へと視線を向けた。
「とりあえず、秘書課として白築さんをカバーできる部分はしますが、自分の仕事もありますので完全に見守れるわけではありません。なるべく、高瀬をつけるようにしてはいますが」
「ありがとう。俺も気をつけて見るようにするけど、何か気づいたらすぐ教えてくれ」
さて、今日の仕事を始めようと、海が気持ちを切り替えようとしたところで、城戸がぼそりと呟いた。
「高瀬は高瀬で、少し問題があるんですよね。すっかり白築さんに懐いてしまって」
「……は?」
聞き返した海の声は、一段低く不穏なものとなっていた。
** *
「白築さん、おはようございます! 昨日は九州からのとんぼ帰りで夜も遅かったみたいですけど、疲れ残っていませんか?」
「おはようございます、高瀬さん。ありがとうね、ぐっすり寝たから元気だよ。今日も一日よろしくお願いします」
暁子がまだ顔を出す前の副社長室で、アリスは高瀬に溌剌とした笑顔で挨拶を返す。
自分から声をかけたものの、高瀬はアリスの笑顔に見惚れて少しの間動きを止めてしまった。
やがて、照れたような顔のままアリスに言う。
「ここ二週間ほどめちゃくちゃ忙しかったと思うんですけど、今日はようやくの週末金曜日。そして、なんとあの仕事の鬼の副社長が私用もあり午後休ということで……、僕らもいつもより時間があるじゃないですか。それで、もし白築さんが良ければなんですけど、秘書課で白築さんの歓迎会をできたらと考えていたんですが」
「えっ……ありがとうございます! 嬉しいです! 出張続きで若干体にガタがきているので、お酒入ると寝ちゃうかもしれないんですけど……食事だけでもぜひ!」
思いがけない誘いに、アリスは二つ返事で応じた。
(本当にバタバタして、全然秘書課のフロアにいる時間がなくて。高瀬さんとは顔を合わせているけど、城戸さんともしばらくまともに話していないんだよね。他の方なんて初日以来? みたいな……。早めにお近づきになっておきたい!)
アリスは秘書課へ異動になる前の自分の生活態度を、いまとなっては大いに反省している。
かつては、仕事をきちんとこなし、他の社員に対しては個人的感情を絡めずに公正な態度で接していれば、それで良いと思って過ごしてきた。
とっつきにくいからと気安く扱われず、噂話にも巻き込まれず、プライベートに踏み込んだ関係にもならない生活が自分には合っていると考えてきたのである。
そのせいで前の部署ではいつしか孤立してしまい、悪意ある相手に足をすくわれてしまった。自分の失敗に気づいた以上、今後は生活を改めるべきだと痛感していた。
早く仕事を終えて帰れるなら、久しぶりに海とゆっくり週末を過ごしたいと思わなくもなかったが、肝心の海とも最近ろくに話しができておらず、スケジュールが掴めていない。
海は海で、接待の会食でもあるかもしれない。そうでなくとも、アリス同様早く帰れるとは限らないだろう。気にはなっていたが、アリスは自分自身にそう言い聞かせてそれ以上を考えるのをやめた。
高瀬に笑いかけて「楽しみ!」と言い、夜の会食への参加を約束したのだった。




