4,忙殺されまして
大空暁子は、一度動き出したら少しも止まらずに移動しながら喋り続け、次から次へと仕事を片付けていた。
まさに怒涛の勢い。
初日のアリスは、後ろについていくだけで精一杯だった。
「副社長専属になった女性秘書さんは、これまで全然続かなくて……。どんどん辞めていくと副社長が使い潰しているみたいで社内的にも社外的にも印象が悪いし、社員育成の観点からも非効率的だからって、専属はしばらく空席になっていたんです。いま秘書課にいる女性二人も、家庭があるので副社長の生活時間や出張についていくのは難しいからと、副社長関係の業務よりも、電話番や他の秘書のサポート業務が主になっていて」
社歴は浅いが秘書としては先輩である高瀬が、アリスに実情を耳打ちしてくれた。
「それじゃ、秘書が空席の期間は、副社長単独でこの仕事量をこなしていたと……?」
アリスが驚愕して尋ねると、高瀬は苦笑いをしながら「秘書課全体でサポートしていましたが、仕事量から考えると副社長には専属秘書必須というのは、全員の悲願でした」と言い、アリスに熱い視線を向けてきた。
「そこで待望の副社長専属秘書の登場ですよ! みんな白築さんに期待しているんです!」
「はいっ!」
意気込みだけは十分だったが、すべて気持ちだけで乗り切れるほど、仕事は甘くない。
(少しくらい、息を抜く時間があるかと思っていたけど、全然なかった!)
初日の勤務の終わりは、銀座のレストランにて取引先が席を設けた接待の会食で、暁子はゲストの立場だった。
本社から関係部署の重役が来るから秘書の同席は不要とのことだったが、アリスと高瀬はその間に注文した菓子折りをピックアップするため、百貨店へと向かう。招かれた席なので食事代はすべて相手持ちではあるものの、帰りには相手先の人数分、お礼として高級菓子折りを渡すとのことで、手配はもちろん秘書の仕事だからだ。
まとめて受け取ってきた菓子折りを、個別に紙袋に入れてセットし、レストラン内のバーで食事の終わりを待つ。その間、アリスはここぞとばかりにメモを取りながら高瀬を質問攻めにしてしまった。
「今回は相手先が予約をしてくれましたけど、こちらが接待のホスト側の場合は、当然秘書が席を予約するんですよね? そういったお店とか、お渡しするための手土産用のお菓子とか、めちゃくちゃ詳しくなっている必要がありますよね?」
「そうですね。都内や近郊の香空の系列店のレストランで食事の席を設けることもありますし、パティシエがいるならクッキー缶やパウンドケーキといった自社の菓子類を手土産としてご用意することもあります。ただ、香空ばかり使っているわけにもいきません。和洋中創作料理、相手先に合わせてその都度選びます。店を指定されることもあれば、すべて一任されることもあるので、良いお店を知っておくのは、秘書として大切な仕事です」
わかりましたと返事をして、アリスはさりげなく店内の様子を窺う。
(レストランのバーなんて、初めて来た。よく見ておこう)
重厚な家具類や調度品、絶妙な灯りの加減など、これまで縁のなかった大人の世界である。
この空気を味わうだけでも勉強になる、ここまで同行してきて良かった……としみじみしつつカクテルを二杯飲んだところで、あっという間に時間は過ぎた。
二十一時に、会食はお開きとなる。
相手先がタクシーを用意するというのを断り、参加した自社の人数分のタクシーを手配した。暁子に同乗するように言われて、アリスは一緒に後部座席に乗り込み、高瀬とはそこで別れた。
「駅までで良いかしら」
「はい、ありがとうございます!」
アリスがハキハキと返事をすると、暁子はちらっと視線をくれて、きびきびとした口調で告げてきた。
「初日お疲れ様。仕事に関しては、見て覚えてと言うしか無い面もあって、大変だとは思うけど、あなたの頑張りに期待するわ。そうそう、明日から二泊三日で地方の店舗の視察に出るから、泊まりの準備をしてきてね」
「二泊三日ですか?」
「信州長野と新潟、北陸の店舗で新メニューの試食があるの。そのまま福井に立ち寄って、京都大阪まで。ロビーの什器を入れ替えたいという報告が上がっている店舗もあるから、写真では見ているけどこの目で現場の確認をします。必要であれば、新店舗の発注分もあるから、懇意にしている家具工房にも顔を出してくるわ。名古屋を経由してから、帰って来る予定よ」
立板に水の如く告げられたところで、メトロの駅に近づき暁子がドライバーに「ここで」と声をかけた。
バタバタとカバンを掴んで下りて、アリスは暁子に素早く告げる。
「出張、了解しました。今日はありがとうございました!」
「はい。気を付けて帰ってね。心配いらないと思うけど」
ドアが目の前で閉まり、タクシーは滑るように走り出した。
見送って、アリスはほっと息を吐き出す。
「一日終わった……」
思った以上に忙しかった。何をしていたんだっけ? と記憶を追いかけたところで、背後から「お疲れ様」と声をかけられる。
「えっっ、弓倉部長!?」
街灯りを頬に受けて淡く微笑んでいたのは海で、目が合うと距離を詰めてくる。
「すっかり戦闘モードで会社仕様になっているみたいだけど、もう仕事は終わったよね。部長じゃなくて、海でいいよ。近くの駐車場に車置いてあるから、一緒に帰ろう」
さりげなく「荷物重くない?」と海がアリスのカバンに手を伸ばしてきたので、アリスは「大丈夫です!」と慌ててガードした。荷物持ちをさせるつもりなどない。
「海さんも、この近くでお仕事があったんですか?」
「いや、まあ……。高瀬さんに動向聞いて、この辺であれば会えるかなと、待ってた。アリスは、今日一日スマホ全然見てなかったみたいだし」
言われて初めてスマホのことを思い出し、アリスはカバンから引っ張り出した。メッセージがいくつかと、着信が一件。
おそらく、アリスへ送ったメッセージが既読にならなかったことから、海は高瀬に連絡を取ったのだろう。
「すみません……。社用のスマホを渡されたので、プライベートの方はカバンの底に入れっぱなしで。仕事が途切れなくて、確認するタイミングもなくて。思い出しもせず」
「叔母さんのあの勢いを初めて目にしたら、当然そうなると思う。ひとまず無事に終わって良かった。ごはんは食べてる?」
「用事で百貨店に立ち寄ったときに、イートインのあるパン屋さんでいただきました。上品な量だったので、もうお腹が空いていますね。バーで副社長待ちをしている間、何も頼まないわけにもいかないので飲んでいたんですが、お酒が空きっ腹にしみました……」
「ああ、飲んでいるのか。迎えに来て良かった。横浜まで運転している間、寝ててもいいよ。家に着いたら起こすから」
肩を並べて歩き出し、駐車場に向かう道すがら、海が労いを口にする。その気遣いはあまりにも自然で、長く付き合っている恋人のような話しぶりであり、アリスは少しだけ戸惑った。
「あの……私の感覚が正常であれば、海さんってこう、世間的には激甘の部類ですよね」
「何が?」
「……その、彼氏として。いやあの、私が海さんの彼女って大変おこがましいとは思うんですけど、なんといいますか、すごく優しいと思うんです!」
連絡が取れなかったからと高瀬さんに予定を確認して迎えに来てくれてしかも運転するから寝ていていいよとか!
と、アリスが早口でごちゃごちゃ言っているうちに、車までたどり着く。
海はエスコートするように助手席のドアを開けて、アリスが乗り込んでからドアを閉めるときにアリスの顔を覗き込んで笑顔で言った。
「彼氏です、どうも。認めてくれてありがとう。アリスも、早く『彼女』に慣れてほしいな」
額に軽く口づけてからドアを閉めて、運転席側から乗り込んでくる。
流れるような鮮やかな手並みに、アリスはシートベルトを掴んだまま呆然として、動きを止めてしまっていた。
(い、いま普通にキスを……キスを……!)
もしかして海外経験のある海はあまり気にならないのかもしれないが、アリスにとってはいちいち大事で、まだまだ全然慣れることができない。
アリスが固まっていることに気づき、海が楽しげに声をかけてくる。
「シートベルト、締められないなら、手伝おうか」
「いえ。いえいえ、大丈夫です、自分でできます。ついさっきまで秘書として走り回っていたのに、打って変わったVIP待遇に恐れをなしていただけです……!」
しかも相手は弊社の重役ですよ、とアリスは自分の境遇に疑問を感じざるを得ない。まさに「どうしてこうなった」である。
くすっと品良く笑い、エンジンをかけて車を走らせながら、海が話し出す。
「落ち着いてからと思っていたけど、あまり長いこと部屋を空けるのも不用心だから、アリスのマンションは引き払ってしまった方が良いね。ワンルーム分の荷物なら、うちに運んでも大丈夫だから。手続き進めてしまっていいよ」
「ありがとうございます……。たしかに、帰らない部屋をそのままにしておけないですよね。家賃も光熱費も払い続けることになるし。あの、私もそのへんを負担したくて」
くすっと、海は前を向いたまま笑う。
「俺は自分の収入の範囲内で住める物件に住んでいるから、同居人が増えたからといって受け取る必要はない。家賃と言われても、分譲だし。アリスの気が咎めたり、やりにくさを感じるなら貯金しておいて。そのうち、食事にでも招待してもらえたらすごく嬉しいな」
「はいっ。あっ、そうですね! 都内の接待に使えそうなレストランとか、普段自分では行かないようなところ行ってみたいです!」
分譲? あの高級マンションを? とひやっとしたものを感じつつ、アリスはついつい仕事の話をしてしまう。
海も慣れたもので「そうだな」と軽い相槌とともに続けた。
「レストランだけじゃなくて、ホテルに泊まってみるのも良いと思う。香空以外の施設を普段から自分で体験するのは勉強になるし、仕事にも生きるから」
「実は私、帝国ホテルとかオークラ東京とか有名どころ行ったことないんですよね。都内に住んでいると、宿泊に思いっきりお金を使うことに躊躇してしまって」
「そうなの? じゃあ行こうよ。週末ごとに行きたいところに行くのもいいね。アリスとなら、少し遠出するのもいいな。楽しそう」
海は、本人も城戸も認めるインドア派だったはず。さらっと旅行の提案を受けて、アリスは「良いんですか?」と思わず聞き返してしまった。
「旅行とか、あまりしないのかと……」
「この仕事をしていると、そんなことは言っていられないかな。出張も多いし。仕事以外だと、就職前に世界半周旅行もしたよ」
「アクティヴ!」
そしてセレブ! とアリスは心の中で叫んでいた。
世界半周する時間的経済的余裕は、アリスの人生とは無縁のものだった。つくづく別世界のひとではと思い知らされる。
(なんで私は、海さんとお付き合いしているんだろう……?)
絶対これ「香空七不思議」とか社内で言われているでしょう、と自分の妄想に打ちのめされているアリスの横で、海は穏やかな声で話し続けていた。
「今はたまたま、会社をあげて取り組んでいる豪華客船『白鳳』の件から手が離せない。船舶会社や旅行会社と業務提携して、香空のノウハウを提供する一大事業だ。俺が出席必須の打ち合わせも多いし、本社を空けられない。その分、叔母様が日本中飛び回っているかな」
それを耳にして、アリスはハッと息を呑む。
「そういえば私、明日から副社長の出張に同行するみたいです。二泊三日、スケジュールみっちりで」
「ああ……。叔母様の出張ということは、本当にものすごくみっちりだと思う。気を抜く暇もないだろうから、今日はスーツケースに荷造りをして、早く寝た方がいい」
少しだけ寂しそうに微笑む横顔を見ながら、アリスはそれとなく尋ねてみる。
「それでもやっぱりお腹が空いてまして……。何か少しでも食べるものがあればありがたいなと」
「うん。帰ったら一緒に食べよう。俺も軽く飲みたいから」
二人で話しているうちに、あっという間に横浜のマンションまで着く。
約束通り、海は手際よくサラダとスープを用意してくれた。アリスはありがたくそれを食べて、その日は就寝となった。
土日は一緒のベッドで寝ていたが、どうしたものかとアリスは躊躇したものの、海は迷うことなく「おいで」と誘ってくる。
「何もしないから。疲れを残すといけない」
微笑みながら言う海を信じて、アリスは海のベッドに潜り込んだ。
そして、抱きしめてくる海の腕を感じつつ、あっという間に眠りに落ちて朝までぐっすりと寝たのだった。




