3,叔母vS甥
「おはようございます。直接話すのは初めてかと思います、副社長の大空です。今日から私の担当として、よろしくお願いしますね。白築アリスさん」
秘書課の戸口に立った大空暁子は、やわらかなウェーブがかった髪に、ツイードのスーツを身に着けた上品な印象の女性であった。
笑みを浮かべた顔立ちには可愛らしい印象があり、メイクはナチュラルで不自然な若作りとは無縁の容貌で、体つきも年齢相応の中肉中背。
まさに「素敵なおばさま」といった雰囲気である。
視線がぶつかったアリスは、目に力を込める。
(油断は禁物、ですよね。暁子副社長は創業者一族大空家の「生まれついてのお嬢様」で、海さんの叔母様であり、仕事上では大変な切れ者、と。私と海さんのつながりについても、私自身が知る以前から把握していたっていう……)
暁子の後ろには、ちょうどばったり廊下で顔を合わせてそのまま戻ってきたのだろう、海も一緒だった。アリスに、ちらっと視線をくれる。
事前に城戸から「暁子副社長には細心の注意を」と釘を差されていたアリスは、素早く目だけで海に「大丈夫です」と伝え、気を引き締めて挨拶をする。
「本日から秘書課に配属になりました、白築アリスです。早く仕事を覚えて、皆さんの足手まといにならぬよう、秘書課の一員として全力を尽くします!」
真剣に言って、アリスはがばっと頭を下げた。
周囲が、静かだ。
ん? とアリスは様子を窺いながら顔を上げる。
アリスの挨拶を受けて、機先を制するとばかりに暁子へ話しかける海の横顔が目に入った。
「急な人事で、本人への意思確認などを含め、事前に丁寧な説明をする猶予がありませんでした。本人はご覧の通り真面目な性格ですが、今日は初日です。あまり無理をさせぬよう、お手柔らかにお願いします」
暁子は、背後に立つ長身の海を肩越しに振り返り、にこりと微笑んだ。
「一緒に暮らしているのでしょう? 事前に説明も何も、あなたから必要な話はしているものと期待していたのだけど」
前置きなく、秘書課の面々の前でプライベート事情へのどストレートな一撃である。
(こ、これは「二人の関係はすべて知っているのよ」と「海があの曰く付き社員のフォローをするのは当然でしょう?」という二重のプレッシャーでしょうか……!)
海は、身長差のある暁子を見下ろして、非の打ち所のない笑みを浮かべた。
「公私混同には、気を付けています。『秘書課の仕事は今日から』で、仕事に関するフォローは秘書課がすることです。白築さんと俺が個人的に仲が良いからといって、会社を離れた場で必要以上に会社の内情を話すことはありませんよ」
「あら、そうなの」
暁子もまた、海に向けて隙のない笑みを浮かべて、ほほほと楽しげに相槌を打つ。
(ごく普通に笑顔で話しているだけなのに、二人の緊迫した空気がこちらにまで……!)
これまで良くも悪くも「一般人」として生きてきたアリスは、いわゆる「雲の上のひと」と接することがなく、一般人と何が違うのか肌感覚として知らなかった。
だが、二人の会話を見ていると、大げさではなく業界の最先端で経済を回しているひとの迫力を感じる。
オーラのような。
ちらっと、暁子がアリスに視線をくれる。
「今朝は、二人で一緒に出社したの?」
早速、当意即妙の受け答えを試されている! と、アリスは理解した。
前の週に身辺でごたごたがあった関係で、アリスは現在海のマンションに間借りしている。
同じ家を出て同じ会社に向かうわけだが、海は普段電車通勤と自家用車での通勤が半々とのこと。
この日の朝は、車で出勤していた。
当然のようにアリスには「満員電車にアリスがひとりで乗るなんてありえない。行き先は同じなんだから、助手席に」と言ってきた。過保護なのである。
アリスは「弓倉部長と一緒の車で出勤というのは目立ち過ぎる」と断った。妥協案として会社近くまで乗せてもらい、途中で車から下りての出社となった。
事情通の暁子に対し、下手に隠してもどこでボロが出るかわからないので、アリスは正直にそのまま言うと決める。
「途中まで、弓倉部長の車に乗せてもらいました。会社の近くからは歩いてきました」
「あら? あなた、運転免許はお持ちではないの? 弓倉部長の車に乗るなら、運転するのは当然よね。嫌だわ、私は運転が得意ではないから、秘書に任せているのに」
あー! そういうことですか! とアリスは質問の意図を掴んだ。
いまにも海が何か言いそうな顔をしていたが、試されているのは自分だからと、アリスは前のめりになって答える。
「免許はあります! ペーパーで数年運転していませんけど、業務上必要とあらば運転できるようにしますね! お任せください!」
黙っていられなかったようで、海が暁子を軽く睨みつけながら口を挟んだ。
「副社長、嘘はいけないですよ。秘書の白築さんが、運転をする必要はないです。都内の移動は駐車場を探すだけで一苦労です、タクシーの方が効率が良いです。地方の視察も、新幹線の駅まで先方が車で出迎えにきていますよね。だいたい、副社長の『運転が得意ではない』が嘘すぎる。趣味は『車』だったと思いますが」
叔母の駆け引きを一蹴する甥に、暁子はわざとらしく「そうだったかも」と笑う。
アリスの背後に控えていた城戸が、アリスに対して助言をくれた。
「駐車場には、副社長の自家用車の他に社用車も数台ありますけど、車種によって細かく操作が違ってきますから、慣れるまで大変ですよ。よほど車が得意でない限り、事故の危険性もありますから、無理に運転をする必要はありません」
「そうは言いましても、城戸さんは弓倉部長の車の運転をしていましたよね。他の社用車も、運転したことがあるということですよね?」
それが秘書の基本スペックだというのなら「出来ない」「無理」は禁句ではと覚悟を新たにするアリスを見下ろし、城戸は冷静な声音で淡々と説明を続けてくれた。
「社用車に車種がいくつかあるのは、その日会う取引先によって車を乗り換える必要があるからです。たとえば、自動車会社とつながりのある企業であれば、その会社の車に乗って行かなければ失礼なので」
「秘書の心得……!」
なるほど! と拳を握りしめて意気込んだアリスに対し、城戸はつられたようにくすっと笑った。
「会議や会食の際に、こちらや相手方へのタクシーの手配をする場合も、気を付けるところですよ。普段お願いしているタクシー会社さんは、相手先に合わせて車種を指定すれば対応してくださいます。たとえば接待相手が飲料メーカーだったとして、親会社に車の関連企業があるということも考えられますので、事前に関係性は全部頭に入れておいてください」
平社員だったアリスにとって接待は縁のない話であるが、副社長の立場であれば当然企業のトップとの会食があるはず。
(秘書の仕事は、高級料亭やレストランでの食事の終わり頃に道に飛び出てタクシーを止めるんじゃなくて、すべて事前準備の上、完璧に手配すること……! 移動手段ひとつでも気遣いが試される世界ですか!)
脳内メモを取っているアリスに対し、暁子が声をかけてきた。
「そのくらいのこと、現場の支店長や支配人も言うまでもなく理解しているわよ。香空リゾートの極意は『もてなし』ですもの」
キリッとした暁子の顔を前に、アリスは目を輝かせて勢いよく返事をする。
「はい! 奥が深いですね! 学ぶことがたくさんありそうで面白いです!」
口をつぐんで見守っていた海が、満面の笑みを浮かべつつ暁子に暇乞いを告げた。
「叔母さまが白築さんの人事に介入してくださったことには感謝しています。よろしくお願いします。それでは、俺は今から打ち合わせがあるので」
「そうだわ、弓倉部長。クルーズ船『白鳳』の、バーラウンジとダンスホールの件は順調?」
「はい。それぞれ関係部署と進めています。副社長の裁可が必要な案件がありましたら、随時報告を上げるようにしますので、ご心配なく」
用件のみの無駄のない会話を最後に、海は室内に視線をすべらせて、アリスにほんの少し長く微笑みかけてから出て行った。
暁子も、止まっていた時間が動き出したと言わんばかりの様子で「さて、と」と声に出して呟き、アリスを見た。
「早速行きましょう、白築さん。城戸さんは弓倉部長にかかりっきりでしょうから、結構よ。白築さんには高瀬さんについてもらうつもりでいたの。入社年次は関係ないわ、高瀬さんは先輩としてよろしくね。ぎっしり予定が詰まっているから、こうしてはいられないわよ!」
さっとドアから出ていく暁子の背を見て、アリスは穂波を振り返る。
「行って来ます!」
「白築さんのことは、副社長が専属に指名していますからね、最優先にしてください。高瀬くんも、しっかりサポートをお願いします」
「はい!」
アリスと高瀬は同時に返事をして、部屋を飛び出す。
「さすが、白築さんは度胸がありますね! 副社長を前にして、初仕事でも全然物怖じしていないのが、頼もしいです!」
分厚い絨毯の敷かれた廊下を、肩を並べて早足で進みながら高瀬が声をかけてきた。アリスは足を止めずに返事をする。
「とにかく、目の前の仕事には全力で立ち向かうって、入社したときから決めているんです! 高瀬さん、何卒よろしくお願いします!」
★連載再開後たくさんお読みいただきありがとうございます!
→クルーズ船「白鳳」
副社長秘書課編、またの名を「豪華客船編」です……!




