1,腹黒王子様は絶好調のようです!
(認められて……しまったんですけど?)
アリスは呆然として、海の美しい横顔を見上げていた。
これまで遠目に見るだけだった海は、その整った顔立ちとほっそりとした外見から、どこか女性的な印象だった。
だが、近づいてみるとそれは間違いであったことに気付かされる。
弧を描く眉は凛々しく、目元はまさに涼やかで、瞳はびっくりするくらいに澄んでいる。
顔のパーツひとつひとつが、どれをとっても美しい。
しかも、高い鼻梁や形の良い唇には、仄かな色気と自信に満ち溢れた強気さが漂っていた。
さらに、触れ合った腕の熱さや力強さにも、男らしさを感じる。
細く見えていた長い指は、がっしりと骨太でしっかりとした握力があり、アリスを強く抱きしめていた。
その場に居合わせた社員一同の、目の前で。
(こ、この状況は……? 通りすがりの王子様を問答無用で巻き込んだのは私ですが、絶対逃がさない勢いで捕まっているのは、なぜ?)
笑顔のままうっすら冷や汗を浮かべていたアリスであったが、ふと人垣の向こうから鋭い視線を向けられていることに気づく。
驚いたように目を見開き、食い入るように見つめてきていたのは彰久だ。
アリスと視線がぶつかった瞬間、思わずのように声を上げる。
「白築……、お前二股までかけていたのか!?」
ん? とアリスは素早く思考を巡らせた。
一方的にはめられて陥れられて、このまま退職かと弱気になりかけていたのは、ほんの三分前までのこと。
そのままだったら折れていたかもしれないが、出会い頭の海を巻き込み、自分の意志でとんでもない状況を加速させた現在、頭の一部が妙に冴えていた。
こんなところで、負けてたまるかと意地になっていたせいかもしれない。
「斎藤くん。いまの、誰がどう聞いても失言だと思う。ストーカーされていたと自認しているひとが、その相手に『二股』なんて言うわけないよね? どういう意味かな」
うっと、彰久が怯んだ気配があった。
普段のアリスなら、ここで手心を加える。
大勢の前で同僚とやり合い、正論で相手を追い詰めるのはいかにも大人げないと勝手に身を引き「あとでゆっくり、二人で話し合いましょう?」などと妥協案を提示するのだ。
しかし今は、状況が違う。
彰久はアリスの尊厳を貶め、嘘を吹聴し、結果的に辞職に追い込まれかねないことをしたのだ。
(しかも、お金まで奪った! なんだかおかしいなー怪しいなーと思いながらも、毎回何万円も渡していた私が馬鹿ですよ。ええ、馬鹿ですとも。でも、困ってるって言われたら、昔からころっと騙されてきたのよ私。馬鹿だから!)
こうなると、事態はもはや、殺るか殺られるかまで逼迫していると言っても、言い過ぎではない。
彰久の落ち度を絶対に見逃さない強い意志で、アリスはジャケットのポケットからスマホを取り出した。
「斎藤くん、ずいぶんあらぬ噂で私を誹謗中傷してくれたみたいだけど。会社に来るなり変な空気だったから、今の今まで全部録音しておいたの。『二股』は失言よね? ちなみに、斎藤くんとは何回かメッセージのやりとりをしていたけど、結構な頻度で送信取り消しをしているなってことは気づいていたのよ。私、打ち合わせの取り決めをしたときは、場所とか時間を忘れないように、一度メッセージをスクショする習慣があるから、消された内容は手元にほとんど残っているんだよね。流出したら、斎藤くんの話を信じるひと、誰もいなくなると思う」
職場に親しい友人がいないとはいえ、伊達に入社以来真面目に働いてきたわけではない。
嘘で塗り固めた噂を流され、上司主導で反論できない空気を作られてしまい、周囲も口を出しにくい雰囲気になっていたが、アリスの仕事ぶりを信じ、彰久の言い分を疑っているひとだっているはずなのだ。
(録音はハッタリだけど、スクショは本当よ。デートの予定、全部スクショしてた! 死にたい! 「好き」「愛してる」とかスタンプ送っていた履歴もあるから、流出させる気はないけど! ああもう考えたら、猛烈に腹が立ってきた! 甘々スタンプ、ダウンロードから全部削除しよう! 「お前はもう死んでいる」とか「無様だな」「言いたいことはそれだけか?」とか、殺伐としたドSなスタンプだけ入れておこう! 「好き」は生涯使わないいいいいい)
悔しさのあまりに妄想が迸りかけたが、いまはそれどころではない。
明らかに、彰久が「しまった」という顔をしているのだ。
ここで猟犬のように追い込み、狼のように蹴散らしにいかねば、とアリスはさらに意気込んだ。そのとき。
「ちょっといいかな。俺を置いてけぼりで話さないでほしいんだけど、アリスは二股なんかしていないよ?」
海が、横から口を挟んできた。
「あ、アリス……?」
愕然として、アリスは呟く。
きらっと瞳を輝かせ、まとう空気まで煌めかせた海が、アリスを見下ろしてきた。
「ごめん、つい。社内で公私混同はいけなかったね。アリスは線引きがきっちりしているから、普段は目も合わせてくれないのに、今日は俺のところまで走ってきて、頼ってくれたのが嬉しすぎて。ときめき死するかと思った。もしかして聞こえちゃっているかな。俺の心臓の音」
ん? とアリスは引きつった半笑いで海と目を合わせたまま、首を傾げる。
(どういうこと。プリンス弓倉って、結構変わってるひと? というか、その偽りの記憶はいったい何? 私のその場限りの嘘に合わせてくれるにしても、ノリが良すぎない!?)
リハーサルも打ち合わせもなしの、ぶっつけ本番だ。
しかも舞台は出社直後でだいたい全員揃った朝のオフィスで、弓倉劇場に釘付けになっている観客は、右を見ても左を見ても本物の社員たちだ。
吹けば飛ぶ平社員のアリスはともかく、創業者一家のエリート若様の場合、社員の前でのこの所業はさすがに「ふざけました」で済まされる範囲を軽く飛び越えてしまっている気がしてならない。
海は、アリスを抱く腕にきゅっと力を込めてから、顔を上げる。
「アリスが付き合っているのは、正真正銘俺一人だ。それとも、斎藤さんは俺の彼女と何かあったって言いたいのかな。結婚を控えているんだよね? しかも、婚約者はうちの事業所の従業員だって聞いているよ。まさか、相手が地方の事業所だから、本社で何をやってもバレないと思っていた? 不倫も浮気も個人の自由という考えもあるけど、俺は好きじゃない。全員社内の人間ともなれば、会社としても見逃せないよ」
立板に水のごとく。
(「アリスが付き合っているのは、正真正銘俺一人だよ」は完全に嘘なんだけど……。ここまで堂々と言われると、私までそんな気がしてきちゃう……。私、弓倉さんとは付き合ってなかったはずだけど……。あれ?)
いつのまにか、平行世界に来ている? などとアリスが自分の正気を疑い始めたところで、海が爽やかに声を張った。
「とりあえず、就業時間内なので、業務以外の話題はここまでにしましょう。皆さんどうぞ仕事に戻ってください。今日も一日、よろしくお願いします」
さらっと弓倉劇場に幕を引き、スマートに散会を命じる。
三々五々「そうだ仕事しよう」という空気で社員たちが散り始めると、アリスへの偏見に満ちた険悪ムードどころか、彰久への結婚・栄転祝いやストーカー被害への労りに満ちた空気まで嘘のように消え去った。
後に残された彰久の女性上司は気まずそうに海から目を逸らし、彰久もまた納得がいかない表情ながら背を向けて歩き出す。
(なんだろう、この憑き物の落ちた感じ。……ハッ、もしかして夢? 夢を見ていただけかな?)
通帳アプリで、残高の減った預金を見れば現実をつきつけられるかもと思いつつも、アリスは夢にワンチャンかけようかという気になっていた。
そのとき、ふっと風の流れを感じた。
「アリス」
耳元で、声優のような深みのある低音ボイスで囁かれて、アリスは「どわーっ」と、まんがでも聞かないような野太い悲鳴を上げてしまった。
とても近い位置で、再びくすっという笑い声を響かせた海は、そのまま囁いてきた。
「オフィスものの定番っぽく、鍵のかかった資料室か、なぜか押さえてあった小会議室でこの後打ち合わせをしたいんだけど、君はどっちが好みかな?」
「な、何を言い出しました?」
絵に描いたようなイケメンエリート上司と、密室で二人きり、とは。
(オフィスものの定番展開に持ち込まれても……困るんですが!)
弓倉海レベルのイケメンは、遠くから愛でるものであって、決して同じ空間で息を吸いたい相手ではない。
いまだって、近すぎる距離のせいでアリスの足はがくがくとしており、力強い腕に支えられていなければその場にへたりこんでしまいそうになっている。
考えた瞬間、海と接触していることを意識してしまい、心臓が止まりかけた。
「あはは。困ってる困ってる。ごめん、いきなり難しい選択肢過ぎたかな。とりあえず、時間合わせるからランチでもどう? 後で誘いに来るから」
明らかに、一癖も二癖もある本音らしきことを笑いながら口にし、海は「またね」と言ってアリスから手を離した。
数歩進んでから、肩越しに振り返ってひらっと手を振り、ウィンクまでしてくる。
(三次元の人間じゃない。ウィンクなんて初めてされた……。プリンス弓倉恐るべし)
その恐ろしい人間を、自分の人生の土壇場で豪快に巻き込んでしまったのは、他ならぬアリスである。
まな板の上の鯉の心境で、ランチの時間を待つことになった。