1,香空リゾート本社
副社長・秘書課編!
大手リゾートホテル経営会社「香空リゾート」は、伊豆の一軒の温泉旅館から始まり、数年前に創業百年を迎えている。
会社の経営規模が拡大したのは、現在会長職にある大空太陽が二代目として入社して辣腕を振るい始めた以降のことだ。
高級温泉旅館、避暑地のペンション、都市型ホテルやウェディング事業など手広く手掛け、海外進出も果たしている。
いまや、国内外で広く知られた「日本の高級リゾート」の代名詞ともいうべき存在だ。
「本社は都心の高層ビル最上階を含む数フロア、支店は国内外に多数あり、従業員は多く取引先も多岐に渡ります。これだけ規模が大きくなっても、会社の上層部や主要役員の多くは創業者一族である大空家の関係者によって占められており、昔ながらの同族経営体質の会社と言えます。一般の方はあまり経営者を意識することはないかもしれませんが、同業者だけではなく政財界において『大空一族』を知らない者はいないとまで言えるでしょう」
秘書課の先輩としてタブレットを手にしてレクチャーをしてくれる城戸を前に、白築アリスは神妙な顔で頷いてみせた。
(入社四年目、それなりに会社のことはわかっているつもりだったけど、こうして聞いてみると一流企業、なのよね)
前の週の金曜日まで、アリスは本社の売店商品開発部門に在籍していた。
それが、週明けの月曜日からは、その日付で秘書課へ異動となっている。
通常であれば、平社員の配置換えなど大して話題になることではない。しかし、アリスのように完全なる訳ありの人事ともなれば、話は別だ。
アリスは前の週に、創業者一族のひとりで広報部部長である弓倉海と「婚約者宣言」を行っている。
社内では、一躍時の人だ。
この状況で、引き継ぎを無視し諸手続きを簡略化した強引な異動が行われたのだ。
社員たちの間では、いよいよ無責任な憶測や噂がさかんに飛び交っていることだろう。
アリスが出社しフロアに姿を見せただけで視線が集まり空気がざわつく中で、ガラス張りの一室へと案内してくれた城戸が、今後に関わる話をしてくれているところだった。
テーブルの上には、各種香空ブランドの宣伝パンフレットが広げられている。
「実は私、一般のひとどころか一応この会社の社員なんですけど、これまで創業者一族を意識することはほとんどなくてですね。最初の一件で『どうせ上層部のお偉方なんて、ろくでもないオッサンばっかりなんだろうな』って、偏見を持ってしまったせいで」
話の途切れたタイミングでアリスが言うと、城戸はタブレットから顔を上げて、ちらっと視線をくれて「それはまあ、仕方ないですね」とサバサバとした口調で言った。
「白築さんの場合は、新入社員研修のときに、前広報部部長の吉野さんの一件があったわけですから。本社の偉そうなオッサンなんて、ろくでもない奴らだって認識にもなるでしょう。その点はご愁傷さまというか、お疲れ様でした」
「いえいえ。それはもう、自分の中では整理がついているんですけど……。ただ、今まで経営陣にはほぼほぼ興味がなかった上に、噂を気にもとめなかったもので……」
「弓倉部長の立ち位置が、いまいちわかっていないと?」
ずばっと言い当てられたアリスは、観念して「左様でございます」と頭を垂れた。
城戸はすべて見通していたと言わんばかりに、小言を口にすることもなく、すらすらと話を続けた。
「上層部は大空一族に占められていると言いましたが、厳密に言うと大空姓を名乗っている方は多くありません。対外的に大空家として名前が知られているのは会長と、その二人の娘である副社長と海外事業部部長。副社長の暁子さんが次女で、海外事業部部長の宙子さんが長女であり、弓倉部長のお母様にあたります。つまり、弓倉部長は会長のお孫さんです」
「名前が違うのは、何か理由がありますか? あの、つまり社内的にあまり触れてはいけないような事情とか。秘書として当然知っておくべきような暗黙の了解などっ!」
個人的な興味ではなく、あくまで仕事であることを強調して尋ねたアリスに、城戸は「気にするのは当然です」と答える。
「宙子さんは、現在ハワイ支店在籍の弓倉泰平さんと結婚されていて、戸籍上は弓倉です。仕事をする上では大空姓の方が通りが良いので、そのまま使っています。ちなみに弓倉部長のお姉様である一香さんも社内にいますが、仕事では大空姓で通しています」
「プリンスのお姉様、つまりプリンセスもうちの会社に!? 全然お見かけしたことはないのですが……」
アリスが言うと、城戸は遠くを見るような目をして「あの方は、なんというか……」と呟いてから、視線を戻してきた。
「一香さんは、トルコ支社に行ったきり、ここ数年帰国していません。白築さんの入社する前でしょうか。本社にいた頃はいまの弓倉部長のように注目の的でしたが、入社一年もしないうちに海外事業部の出張で不在がちになり、いつの間にかいなくなったようなもので。若い社員は知らなくても当然です」
「じゃあ、弓倉家は家族全員でこの会社の社員で、弓倉部長以外は皆さん海外と日本で二重生活、ですか?」
そういうことです、と城戸が相槌を打った。
薄々気づいてはいたが、一家揃って華やかというのが、アリスの受けた印象だ。
(さすがプリンス、本物の王子様なのでは……。知らないって恐ろしい! 私はとんでもない相手を「婚約者」という嘘に巻き込んだようで)
今更ぞくっと寒気がしてきたアリスに、城戸は淡々と説明を続けた。
「会長は今でもカリスマ的存在として社内に強い影響力を持っていますが、実際の業務は佐々木社長と暁子副社長が引き継いでいます。佐々木社長は、会長のお姉様のご長男で、大空姓ではないですがやはり一族の方です。社内には奥様と息子さんがいます」
「そうなんですね……! 佐々木さんって名前だったら、事情を聞かない限り一族とはわからないです。本社の目立った役職ではなく、重役といっても本店とか支店の店長、支配人職もありますよね」
「そうですね。佐々木さんのご一家は、皆さん本店をはじめとした香空リゾートのメインブランドである温泉旅館『煌』系の店舗に配置されています。そのへんは追々……。白築さんがいま頭に入れておくべきは、副社長の暁子さんのご事情です。やはり社内結婚をされていまして、旦那様は前広報部長の吉野さん。白築さんもご存知の」
あ~……と、アリスは控えめに相槌を打った。
知っているも何もといった相手ではあるが、今はその話題を蒸し返して話の腰を折りたくない。
城戸も心得たもので、苦い思い出話には触れることなく進めてくれた。
「吉野さんは暁子副社長と結婚したときに大空姓となり、不倫騒動後も離婚はしていません。ただ、大空会長がいたくご立腹でして。大空姓は香空リゾートの『顔』なので、面汚しのような奴に名乗らせるわけにはいかないと、騒動後は大空姓を使うのを禁じました。そのため、社内的には旧姓の吉野さんとしてお仕事をなさっています」
「大空姓というのは、この会社ではかなり重いものなんですね」
「そうですね。そういった意味では、会長はご自身の後継者としては大空姓の方を念頭に置かれていると思います。直系として最有力なのが、現在『大空』の名前を使っている弓倉一香さん。ですが、一香さんは本店『煌』系の店舗を経験しないまま海外に行ったきりで戻りません。となると、会長が次に気にしているというか、実質本命として考えているのが本社で香空リゾートの顔としてご活躍中の弓倉部長です。ここまでの流れは大丈夫ですか?」
「……はい」
冷や汗を浮かべながら、アリスはなんとか返事をした。
(ある程度予想はしていたけど、予想以上の展開といいますかっ。海さんは、国内屈指かつ業界最大級の一流企業の後継者……。私は、その御曹司と婚約者宣言……。夢? 夢オチで終わらない?)
決して、海本人に対して思うところがあるわけではなく、むしろ海個人のことは恋人として大好きだ。
しかし、聞けば聞くほど背景が重すぎる。ファンタジー世界なら王子と平民、現実でも御曹司と平社員の間の壁は高く分厚い。
「弓倉部長の暮らしぶりをご覧になったらおわかりいただけると思いますが、経営陣重役クラスともなると、収入は一流企業としてふさわしい額面かと。ただし本社勤務であっても社歴の浅い社員や、主に店舗配属の高卒や専門学校卒の社員は同業他社と同水準か低い場合もあるかもしれません。地方採用で異動もなく本社に足を運ぶ機会もなければ『一流企業』というより、『同族経営の古い体質の会社』の印象の方が強いかと、個人的には思います」
城戸の淡々とした説明に、アリスはこくこくと頷いた。
「わかります。私、自分が一流企業勤務なんて考えたこともなかったですから。就職も総合商社とかほど難しい感じじゃなくて、普通に内定もらえたんです」
「そうですね。人手が集まりにくい上に離職率も高いサービス業ということもあり、広く門戸を開いています。採用を高偏差値の大学に絞るということもありません。本社はともかく、現場の離職率は高いので、店舗によっては社員よりパートやバイトの方が多いです。ただ先程も申し上げた通り、創業者一族である大空家に関しては、血筋優遇と侮ることはできません。どこの会社にいても頭角を表すであろう、雲の上のスーパーエリート集団です」
「わぁ……」
アリスから見ると、十分切れ者でできる男感のある城戸に断言されて、思わず声が出た。
(つまり海さんは、超ウルトラスーパー優秀なハイスペック御曹司……!)
異存はない。理解もできる。
婚約者として、気持ちだけが追いつかない。
「白築さんの話を聞く限り、あまり噂好きではなく、これまで社内の力関係や人間模様にも関心がなかったようですが、この先はそういうわけにはいきません。いかに些細なことに気づき、記憶し、必要なときに思い出せるかは、業務上非常に重要になってきます」
「はい」
「特に、現在何かと社内で注目の的である白築さんをご自身の専属秘書に任命したのは、大空家の暁子副社長です。子どもの頃から香空リゾートの本店や系列店で『お嬢様』としてすべてを見てきた方で、有名大学卒業後この会社に入社しています。そして、他の追随を許さない優秀さで昇進し、現在は副社長職。とても厳しい女性です」
「今日から私の上司……ですよね! はい! 心してお仕事に向き合います!」
気合を入れて宣言したアリスに対し、城戸は実直そうな顔で「お願いします」と言い、「それでは引き続き業務の説明に移ります」と話を進めたのだった。
*再開します!「秘書課編」は6万字弱ですでに書き上げている状態ですが、改稿等手を加えながらの連載となります。のんびりお付き合いいただけますと幸いです!
*前エピソードのあとがきで「コンテスト参加のため」等書いておりましたがコンテストはかすりもせず落ちました(*´∀`*)作者的には書籍化打診お待ちしております状態ですが、
それはともかくとして、読者さんにおきましては海さんとアリスの生活を楽しんでいただけますように!




