14,鼓動の速さ
温かくて、いい匂いのするものに包まれて安らかに眠りながら、アリスは夢を見た。
夢自体は、特別の意味を持つものとは思わなかったが、夢の中のアリスには奇妙に冴えた感覚があり、眠りに落ちる直前のことを考えていた。
城戸から聞いた話だ。
(私が入社した頃、問題を起こして失脚した元広報部長……。タイミング的にもしかして、それまでみんな気づいていながらどうにもできなかったその問題行動を、社内で事件化するきっかけを作ったのって、私……?)
当時、アリスの「クソダサイっすね!」発言に、先輩社員たちはドン引きしていた。アリス自身、禁忌を犯したらしいとは感じており、会社にいられなくなるようなことが自分の身に起きるのかと内心ドキドキしていたのが、無風だった。
びっくりするくらい「お咎め」がなく、ごく普通に本社勤務ができていたのだ。
その時は、まさか自分のような新入社員が会社に変革をもたらしたとは露ほども考えておらず、「意外と平気なんだな」くらいに受け止めていた。
ポジティヴな変化もなく、まさに無風で、褒められたり特別待遇を受けることもなかった。
詳しい事情を話せと、呼び出されることすらなかったのだ。
それは、アリスの件に関しては「未遂」だったからと考えれば、一応説明はつく。元部長に目に余るほどの問題行動があったのなら、わざわざ「何もなかった」社員から事情聴取せずとも、それ以外の関係者から十分な証拠が揃ったのだろう。
アリスは、その采配に救われた形だったに違いない。いくら相手が悪いとはいえ「新入社員が、経営者の親族である重役にとどめを刺したこと」が公に取り沙汰されていたら、やはり無事には済まなかったと思うのだ。
その一件の後に、海外帰りの弓倉海が社内でめざましい活躍をして、昇進をもぎとって部長就任。
(自分の成果と手柄を主張する気はないけど……、私は知らないうちに弓倉部長誕生に関わっていたのかも。だとすれば、元部長の失脚のあたりから、弓倉部長には私の存在は認識されていたと……?)
アリスと海には、アリスの知る限り、接点が無い。
そのため、アリスから海に対していかなる段階でも「会社を変えて」「頑張って上に立つひとになって」と要請した事実はない。
ただ、アリスの作ったきっかけに海が気づき、自分の力で幹部入りすることで、親族経営でグダグダになっていた部分を立て直そうとしていたとすれば。
海が、アリスを気にかけていた理由はわかる。
無風で終わり数年が経過したことで、アリス自身は思い出すこともなかったが、深く関わったひとほど事件を覚えていたはずだ。
失脚した幹部の不倫相手だったという牧野課長は、アリスのことを逆恨みし、陥れる機会を虎視眈々と狙っていたとしても何も不思議はない。
一方のアリスはといえば、入社してすぐに謎の社内ルールに反発した経緯から、その後も社内政治や人間関係の圧力に敏感だった。
自分は流されまいと警戒するあまり、噂話などには極力首をつっこまないように気をつけていた。
仕事以外のことなど知るものかという、強い意志で。
そのせいで周囲からは浮いていた自覚があり、孤立しがちであったところを、同僚にはめられた……。
(魔が差したにしても、あれはなかったなぁ……。でも、良いタイミングで別れられて良かった。弓倉部長のおかげで、全然ダメージもなかったし)
考えながら寝返りを打とうとするものの、うまくいかない。思ったより、狭い場所にいるらしい。
おかしいな……ここはどこだろう……と目を瞑ったまま一生懸命考えて、アリスは恐ろしい可能性に思い当たり、体を強張らせた。
その一、場所は弓倉海宅
その二、弓倉海は一度家を出たものの、帰宅していた
その三、アリスはゲストルームの使用を禁じられ、ソファで寝直すことにした
その四、なぜか海まで「俺もここに寝る」と宣言していた
その五、結果を見届けず、アリスは二度寝した
(この流れ、どうなっているの? 部長がソファに寝る理由は、全然ないと思う……)
どう考えても、途中からまったく流れを無視した発言がある。海だ。
いや、でもさすがにそれは無いんじゃ、と思いながらアリスはそーっと目を開く。
とても近い距離に、海の顔があった。起きていた。
しかも、感覚的にわかる。髪を整えていないせいもあるが、これはチャラい方の海だと。
にこーっと笑っていた。
耳に優しい美声で囁かれた。
「おはようございます」
ソファではなく、ラグの上に寝ていた。海から、がっつり腕枕をされている。向かい合う形で、体のあちこちも触れ合っていた。
「……状況がわからないんですが、私、弓倉部長を襲いましたか……?」
「俺が下に寝ていたら、白築さんがソファから降ってきただけ。襲われたわけでは」
「寝相……! 私の寝相が大変ご迷惑をおかけしまして」
「俺もそのときは眠くて、落ちてきたなと思いながら寝てしまって、さっき起きた」
言いながら、海は体を起こす。腕枕をされていた関係で、アリスも同じように身を起こすことになった。
近い。完全に、海の広い胸に抱きかかえられるような体勢になっている。
(ゆるっとサイズのロンT着ているだけなのに、チャラさが! 普段とのギャップが! なんかピアスもつけてる……。このプリンス第二形態は、完全に私を殺しに来てる……)
昨晩、海の私服姿に動揺させられたとはいえ、アリスはそこまで自分の趣味嗜好をさらけだしたつもりもなかったのだが、海は最小限の情報からアリスの好みをしっかりラーニングしていた様子だ。
何から何まで、殺傷力が高すぎる物騒なイケメンになっている。
自然界の雄は、気迫が違うのだと思い知った。
殺るときは殺るオーラが出ている。
「……心臓がもたないんですが……」
アリスは、なんとかそれだけの言葉を、喉の奥から絞り出して告げる。
海はふっと笑って、アリスの手を取り、自分の左胸にあてた。
「やっと俺の心臓と同じ速さになった」
その声の甘さに、アリスは打ちのめされてしまった。
ぷす、と頭から煙が出たような気がする。その勢いで、顔に血が上ってきていた。
「やめてください……。弓倉部長みたいな顔面レベルのカウンター振り切れたイケメンに見られると、消し炭になります」
「『海サン』」
「……どうしても?」
「どうしても」
殺される……と呻きながら、アリスは俯いて呟いた。海サン、と。
聞こえないかもしれない音量だったのに、アリスの唇にほぼゼロ距離まで耳を寄せてきた海にはしっかりと聞こえたらしく、くすっと笑いながら「うん」と言う。
居ても立ってもいられず、アリスは「うわああ」と叫びながら立ち上がろうとしたが、ぱしっと海に手首を掴まれて、動きを封じられた。
そのまま引き寄せられて胸の中に抱きとめられて、顔をのぞきこまれる。
「キスしていい?」
「だ、だめです」
「いつならいいの?」
「いつ……」
しっかりと視線を絡めて、海は笑顔で尋ねてきた。
「俺のこと好きだよね? 俺にしておこうよ。幸せにする」
「イケメンの本気怖い……」
なんでこんな怖いイケメンに捕まっているのかと。
掴まれた手首や、布越しに触れ合った体の硬い感触から、絶対的な強者の余裕を感じ取り、アリスは抵抗を放棄して身を任せた。
海の腕に抱きしめられたまま、恐る恐る尋ねてみる。
「私と海さんにはこれまで接点はなかったと思うんですけど、何かきっかけってありました?」
その問いかけに、海は滲むような笑みを浮かべた。
「城戸は話さなかったのかな。良かった。言うなら自分で言いたい」
「ええと、結構ヒントはもらってます。たぶん、私は『弓倉部長』の前任者の失脚に関わっていて……部長就任をアシストしましたか?」
「城戸許さない」
「責めないでください! あの方は自分の仕事をしただけです!」
アリスが暴れると、海は不承不承という形で「わかった」と言う。
それから、気を取り直したようにアリスへと目を向けてきた。
「その理解は正しいけど、少し違う部分もある。俺はあの頃、会社に誘われていたけど、まだ社員にはなっていなかった。会社を外から見ていただけだ」
「私より後なのに、すごい昇進……」
正直な気持ちが口をついて出てしまう。海は爽やかに笑って「そこは頑張りましょう」と言ってから、話を続けた。
「うちの会社は、幹部が営業所に視察に行くと、宿泊のお客様よりもよほど社員に気を遣わせるばかりか、えぐい接待をさせていた実態がある。噂には聞いていたけど、俺はそれがどういうものかわかっていなかった。だから、一度見ておこうと思って、吉野さんと同じタイミングで一般客として予約を取り、宿泊したんだ。俺は社長と名字も違うから、会社を通さずに予約すると関係者とは気づかれないからね」
「それで、もしかして、私のクソダサ発言がお耳に」
「うん。白築さんがあの件を呑み込んでいたら、俺はあのタイミングでは気づかなかった。だけど、従業員控室を見に行ったときに、社員の間で変な騒ぎが起きているのに気づいて、発生源が新入社員の女性だと知ったんだ。その後吉野さんを問い詰めたけど、白築さんが部屋に来なかったことで不機嫌になっていて、連れて来いって言われた。俺が」
ドラマみたいな悪役ですね! と軽口を叩こうと思ったが、無理だった。もう何年も前の出来事なのに、寒気がした。
「海さんは……」
「そんな命令をきく筋合いじゃない。だけど、もし何かあったら大変だなと思って、不審者扱いを覚悟の上で、宿直の休憩室の前で、寝ずの番をしました」
「全然知りませんでした」
俺が勝手にしたことだから、と海は笑って続けた。
「その頃の俺は、髪が長くて、ピアスもばちばちつけててアロハシャツ、みたいな感じ。今とは結構違う。その日は何も問題は起きなかったし、俺は朝に部屋から出てきた白築さんに、一般客のふりをして『おはようございます』って言って帰ったよ」
言われてみると、うっすら記憶があるような気もしたが、わからなかった。
「私は、海さんになんて言ってました?」
「おはようございます! ってすごい笑顔で言われた。ああ、こんないい社員が入ってくる会社なのに、あんなのが幹部にいたらだめだなってそのときにすごく感じた。そこから東京に戻って、社長と副社長に直談判して、吉野さんを降格させることを条件に入社した。と言っても、別にその時点で後釜として部長職が内定していたわけではないので、そこからは意地。一番だめになってるところだから、自分がやるしかないと思って」
真面目に話している海をしげしげと見つめて、アリスは思わずぽろっと呟いた。
「めちゃくちゃかっこいいです、それ」
海は、心の底からほっとしたような笑顔になった。
「ありがとう。その時から俺はずっと白築さんを知っていたけど、自分からは接触できなかった。理由は色々あるけど……。上司から部下へのセクハラを追求して降格に追い込んでいるわけだし、その俺が自社の社員に手を出すわけには、とか」
「しかも私は、吉野さんの失脚のきっかけを作った新入社員、ですからね。弓倉さんと親しくしていたら、必要以上に目立ったと思います。たとえば、騒動のときには接点がなかったと言っても、それで弓倉さんが昇進しているので、ひとによっては私と弓倉さんが共謀したと疑うかもしれません……」
「そう。だから、俺からは絶対に動けなかった。まあ、そろそろ動こうとは思っていたんだけど、限界だったし」
ぼそっと、海が独り言のように呟く。
「それでは……もしかして、私の婚約者宣言は……」
知らなかったとはいえ、虎の尾を踏んだのだと、ようやく了解した。
海は少しだけ遠い目になり、笑いながら答える。
「ふつうにめちゃくちゃ嬉しかった。たまに目が合う気がしていたけど、勘違いじゃなかったんだ、二人の心は離れていても通じ合っていたんだなって舞い上がりました。マジで。居酒屋で話しているあたりで、なんか違うなって思い始めたけど……」
「スミマセン」
「怒ってないよ。女の子と目が合っただけで『俺に気がある』と思うのなんて、男の勘違いあるあるだから、全然気にしてない。これは惚れさせるとこからなんだなって了解したし、そのための努力は惜しまない男だ。使えるものは全部使う」
にこっと笑って小首を傾げた海の耳で、ピアスがきらりと光る。
アリスは、海を精一杯の強気で、睨みつけた。
「だからって、寝るときにまでアクセも装備するとか、気合の入り方が怖いですよ。朝起きるなり、目の前に自然界の雄だーって思いましたから」
「それ、昨日から気になっていたんだけど、煽ってる? 雄になっていいって意味なのかな。獣になった海サンが見たいと」
「怖い」
いきなり本気を出さないでくださいと目で懇願するも、海はにこにことしたまま、アリスに返答を迫ってくる。
「少し時間経ったけど、キスの準備できた?」
一回りも大きな体を持つ海に膝の上に抱え上げられて、完全に拘束された状態で。
ここからは絶対譲歩するつもりのない笑顔で迫られて、逃げ切れるはずが。
観念して、アリスは目を閉じる。
「……………………はい」
海の笑い声が、耳のそばで響く。唇に唇を重ねられた。