12,それぞれの仕事
以前から見たかったホラー映画をサブスクで見つけて、ここぞとばかりに鑑賞を始めたのに、まったく頭に入ってこなかった。
自分にとって絶対面白いはずの作品が面白く感じられないのは、出会うべきタイミングではないということだ。いまは見るときじゃなかったらしいとアリスは了解し、テレビを消す。ソファの座面に投げ出していたスマホを、手に取る。
時間は、直前に確認したときから三分も進んでいない。
夜は残酷なまでにじわじわと更けるばかりで、このまま朝など来ないのではないかと弱気に襲われた。
アリスは悩みながら、海からきた最後のメッセージを画面に表示させる。
そこには、秘書の城戸氏の電話番号があった。
どうしても困ったときは、ここに連絡してと言われて、連絡先を受け取った。
相手は、アリスがどうしても困ったときは連絡してくると了解している。
「これは、遠慮するところではないのでは……?」
タップして電話するべきか否か。アリスは悩みすぎて、そこからたっぷり十五分ほど身動きせず、同じ姿勢のまま固まっていた。
普段のアリスなら悩むまでもなく「勤務時間外だし、絶対ご迷惑のはず」と考えて、その方法を思いついたとしても、行動に移すには至らない。
だが、はからずもいまは生きるか死ぬかの経験をした後だ。
しかも、まだ危機を抜けきってはいない。それどころか、真っ只中にいる。
些細なことでテンションが上がり下がりして、保護者的存在の海の姿が見えなくなるだけでこの世の終わりのように落ち込むなんて、普通ではない。
(いまの私は判断力がまったく働いていない。食事ができていたり、会社に行けているから自分では大丈夫だと思おうとしているけど。ひとりにしてはいけないという、弓倉さんの見立ては正しくて)
自分は「困っていない」という決めつけこそ、過信ではないか。
自死のニュースのたびに取り沙汰される様々な言動を、頭に思い浮かべてみる。「そんなに悩んでいたなんて」「言ってくれれば」「あなたはひとりじゃない」……
「適切なタイミングで『助けて』を言えないと、人間は死んでしまう。その瞬間は他のひとにとって迷惑でも、恥知らずでわけがわからない奴でも、そういう自分のメンツばかり気にして『助けて』を言えないと、死ぬ。死んだらおしまい。生きていればどこかで、迷惑かけた相手に対して挽回できるかもしれない。それこそ『あの日あなたに助けられたマンボウです』とか、そういう熱い恩返し展開になるかもしれないし!」
散々言い訳を羅列したあげく「人間なんてどんな心がけでいても、生きているだけで他の誰かにとっては迷惑なんだ! 遠慮がなんだ!」と吠えて、電話番号をタップした。
――はい、城戸です。白築さんですね。
「はやい」
さすが秘書課と称えるべきシーンなのに、少しだけ怯えてしまった。コールが鳴るか鳴らないかのタイミングでつながるのは、いくらなんでも早すぎる。
――待機していましたので。何かありましたか。
城戸はアリスの動揺を黙殺し、すらすらと滑らかな口ぶりで尋ねてくる。
アリスは、とっさの返答に窮した。
繋がったら話そうと思っていたことが、一瞬で頭から消え去ってしまい、なかなか言葉にならない。
そこでひとまず、深呼吸をしてみる。
(これはきっと、連絡して大正解だったということ。城戸さんが、私から連絡がくると信じて待ってくれていたのなら「どうせ迷惑ですよね」と独りよがりに決めつけて遠慮するのは、やめよう!)
彼は、上司である海から連絡を受けて、自分の仕事をしている。
上司と平社員であるアリスの個人的なわがままに巻き込まれたのではなく、会社の問題で仕事の範囲として処理するつもりで。
その完璧な仕事ぶりが、アリスにはからずも深い安心感と感動を与えてくれた。
つられて「私も仕事頑張ろう、ひとに感動を与える仕事をしよう」と決意を新たにしつつ、城戸に尋ねる。
「ありがとうございます。白築です。聞きたいことがあって連絡しました。弓倉部長の状況はいま、どうなっていますか?」
――とても悪いです。
「えええええっ、どういう意味でですか!?」
聞いたことに対してごまかさずに回答をもらえたのは良かったが、簡潔過ぎて意味がまったくわからなかった。さすが上司と部下、マークシート方式でお揃いだ! と納得しそうになったが、もちろんそんな場合ではない。
城戸は、アリスの絶叫に動じずに淡々と話を続ける。
――白築さんも関わりのある件ですが、現在社内で大きな問題があります。まず、斎藤さんの件については片がつく見通しです。が、弓倉部長がもともと気にして調べていたのは、課長の牧野さんだったんですよ。
「課長は、斎藤さんに加担しつつ、自分でも他に何か悪事を?」
――前提からご説明さしあげます。これは白築さんも入社後のことで周知の事実でもありますが、弓倉部長はあの若さで部長になる前に、前任者を蹴落としています。弓倉部長の叔父にあたる、吉野さんという方です。失脚の理由は女性問題です。取引先や、本社内、視察に行った地方の営業所など至る所でその手の問題を起こしていました。
「ああ……」
もはや、相槌を打つしかできない。
まだ新入社員の頃だが、アリスもその問題に関わったことがある。
地方の営業所、つまりリゾートホテルに現場職として研修に入っていたときに、本社から視察にきた部長から妙な誘いを受けたのだ。
(「悩みがあるなら聞くよ」とか「仕事が終わった後に話したいことがあるから、部屋に来て欲しい」とか……)
当時のアリスは、概念として「不倫」や「浮気」を知っていても、まさか自分が他人から「そういう対象」に見られるとは考えたこともなく、怪しい誘いを受けているとは気づかなかった。
だが「仕事が終わった後の時間」を指定された上で「本来なら自分のような新入社員が直接話すようなことはありえない、本社の重役」から個人的に部屋に呼び出されるという状況にアリスなりに違和感を覚えて、同期や先輩社員たちの目の前であっさり言ってしまったのだ。
『部長が、社員の悩みを聞く会を開くみたいなんですけど、これって交代制でしょうかね。順番に呼ばれているなら、みんなで時間調整をするのですか?』
おそらく、新入社員の中にはアリスのようにその時点でまったくわかっていないひともいたとは思うが、先輩たちの慌てぶりは大変なものだった。
『部長が白築さんに声をかけたのなら、用事があるのは白築さんだけじゃないかな』
『みんなの前ではなく、個人的に呼び出されて時間を指定されたなら、それはみんなの前で話しちゃいけないことだと思うよ』
『もうちょっと空気読まないと。部長にも恥をかかせることになるから。そういうのは査定に響くよ』
『本社勤務取り消しどころか、会社にいられなくなるから!』
何か取り返しのつかない失言をしたらしいとは気づいたものの、納得できないアリスはそこで絶対に引かなかった。
新入社員なりに、胸騒ぎがしたのだ。
これは「常習的な何か」で、社員の間で「暗黙の了解」とされていることで、表沙汰にしてはいけないと信じられていることなのだと。
しかし、それを放置しておくほうが会社的にも後々問題なのではないか?
この際、何も知らない新入社員として、突っ走っておいたほうが良いのではないか?
後から思えば、必ずしもその瞬間にそこまで計算できたわけではないが、アリスは直感的に自分に危機が降り掛かっていると察知し、断固として先輩たちに歯向かった。
『なんかよくわからないんですけど、クソダサイですねそういうの。親族経営の会社だからですか、そういう因習村みたいな謎のイベントが黙認されているのは。私、仕事に関してはいまのところ特に悩みはないので、上層部のひとに直接相談する必要はないです。部屋に来いって言われたけど、勤務時間外なので絶対行きません。その程度のことで進退に関わるくらいの問題になるなら、私だって今日のこと本社でハッキリ言います』
それはもう、全力で。
会社員になった途端に身分社会に放り込まれ、理不尽を強いられるなど冗談ではないと、あえて空気を読まない新人として言うべきだと思ったことは言った。
先輩たちも「そういう社員」だと思った様子で、しらけた空気となり、その話はそこまでで終わった。
アリスは当然、部長の部屋には行かなかった。
その後、研修が終わってもそのときのことを誰かに蒸し返されることをなく、アリスは本社勤務となった。
本社に戻ってみると、部長は人事異動になっており、別の人物がその役職に収まっていた。仮の人事だったらしく、少しバタついていたようだが、そこから一年程度で、社内で頭角を表したプリンスがその座についたはずだ。
「言われてみると、たしかに弓倉部長の人事は吉野部長の後任ですね。私は一度お目にかかったことがあるだけで、ほとんど存じ上げない方ですが、急な人事だったと聞いた覚えはあります。何か問題のある方だったのかもしれないと思っていましたが……」
明言を避ける形ながら、相槌を打つ。
海がコンプラに厳しく、ことに女性問題は警戒して場合によっては契約を切ると言っていた事情も、うっすら見えてきたように感じた。
(取引先から「前任者である吉野部長を接待していた感覚」で女性を紹介されていたりしたら……。身辺はすごく気をつけていそう。それで失脚した相手の後釜なんだもの、同じ轍は踏まないようにするだろうし。もしハニトラだった場合、それを利用した誰かに今度は自分が陥れられることも考えるだろうから)
アリスの考えを裏付けるように、城戸が話を続けた。
――吉野さんは度々問題を起こしていた方ですが、親族経営の弱さといいますか、完全に会社から切ることはできず、地方の営業所に役職を用意して異動となっていました。そこで定年までおとなしくしてくれていたら良かったのですが、再起を図ったようで。
「わぁ……」
――以前、不倫をしていた本社の女性とよりを戻して、プリンス弓倉を引きずり下ろそうと画策していたようです。
「ん? 城戸さんもプリンス呼び知っていたんですか? 弓倉部長は気づいてなかったのに? あ、すみません話の腰を折って失礼しました。続けてください」
――はい。プリンス呼びは存じ上げています。知らぬは本人ばかりです。そのプリンス打倒計画に加担していた本社の不倫相手が、牧野課長です。
「ドロドロ過ぎる……! 私の知らない世界……!」
――私も知りたくなかったです。
「秘書さんって、大変な仕事ですね……」
――仕事はみんな大変ですよ。白築さんも、お疲れ様です。
(城戸さん、いいひと……! さすがプリンスの選んだ秘書さんだけある。世が世なら宰相とかだったかもしれない。見た目は騎士団長だけど)
暴漢のように振る舞った斎藤某を取り押さえたときに見た城戸の姿は、とても大きかった。肩幅も広くてSP感があって……とアリスはそのときの光景を思い浮かべてみたものの、肝心の顔はよく思い出せなかった。
ということは、自分はいま顔もよくわからない相手に助けを求め、業務のことで労り合っているんだなと妙な気持ちになったが、それはそれで少し面白い。
面白がっている場合ではなかった。
「それで、弓倉部長はいったい、何に巻き込まれてしまったんです?」
――お家騒動ですね。吉野さんの奥様が副社長で、社内クーデター計画には呆れていたんですけど、不倫だけはさすがにもう許せないと。会議室に呼びつけた吉野さんと牧野さんの首を落としかねなかったので、弓倉部長が止めに入っています。
「……? あの、いまの首を落とすって、リアル方面の話をしています? 『fire』ではなく『neck 』を『cut』するほうで」
――その通りです。『neck 』を『cut』するほうです。副社長をおさえられるのは、子どもの頃から可愛がられてきた海君だけ! って頼りにされて呼び出されたわけですが、ああいうのを見ると親族経営の会社の恐ろしさを感じます。
「それは本当に、大変そう……」
割り切り型のインドア青年なのに、似合わないことをしている……とは思ったが、それを言えば海が本当にシビアな人間ならいまこうしてアリスに手を貸しているわけがないので、全部まとめて「弓倉海」らしいのかもしれない。
――以上の話を、白築さんから聞かれたら、べつに隠さず話してもいいと弓倉部長から言われていました。自分で説明するつもりだったみたいですが、なにぶん本人に時間がなくて。
「ありがとうございます。私用か仕事かぎりぎりの内容だと思いますが、私は城戸さんがそれを快く引き受けてくださったことで、とても助かりました」
――こちらこそ、そのように感謝していただいてありがとうございます。……俺がこうして多少時間外だったり、グレーだったりする仕事をしているのは、プリンスの影響です。あれだけスマートぶっているのに、しょうもない雑用や親族経営に心を砕いて振り回されているプリンスをそばで見ているうちに、自分も杓子定規に割り切った仕事だけしているのはつまらないなと思い始めて。いい刺激になるんですよ、プリンスは。
(城戸さん、完全にプリンス呼びをマスターしてる。これで弓倉さんだけ知らなかったって、逆に遊ばれてない……?)
実際のところ、どういう力関係なんだろうこの二人と気にはなったが、アリスはほっとして「もう十分です、大丈夫です」と告げた。
「本当に落ち着きました。いろいろ腑に落ちて、悪い想像もしないでぐっすり眠れそうです。ご迷惑おかけしましてすみません、城戸さんももう待機は必要ありませんので、休んでくださいね」
――はい。会議室の悲鳴が断続的になってきたので、こちらも終わりそうです。白築さんもお疲れ様でした。本当に、迷惑だとは思っていないので、そこはお気になさらず。ひとは迷惑に対して意外と耐性がありますし、場合によっては頼られているみたいでちょっと嬉しいまであります。白築さんと長電話をしたと言ったら、プリンスが床に転がって悔しがるかと思うと今から楽しみです。それでは、これにして失礼します。
「はい。……お疲れ様でした」
最後の最後に何か悪どいことを言われたような気がしたが、気にしたら負けに違いない。
アリスはスマホを置くと、ソファから立ち上がり、思いっきり伸びをした。
「あ~、なんか落ち着いたら急にお腹空いてきた。いまならあのローストビーフ一本いける。でも、弓倉さんの分残しておかなかったら、あてにして帰ってきたときにがっかりするかな……。食い尽くし系はひとの心がないって、よく炎上するし」
言いながらキッチンに戻り、手を付けないまま冷めたローストビーフに取り掛かることにする。食い尽くしはいけないが「美味しく食べてもらうのが嬉しい」という海だけに、少しも食べていなかったらそのほうが落ち込みそうだ。
よって、食べるのは海のためでもある。
その意気込みで、アリスはローストビーフをざくざくと切り分ける。途中で止まっていたホラー映画を最初に戻して、真剣に見ながら食べた。
「リアルで『neck 』を『cut』はシャレにならないですね……。プリンスが体当たりでホラー映画みたいな体験している間に、私は映画で楽しんですみません……」
見ているうちに帰ってくるだろう。そう高をくくって待つも、なかなか海は帰って来ない。
食べた後の皿を片付けたり、歯を磨いたり、用事を済ませながら、アリスは二本目の映画にとりかかる。
そのうち、自分でも知らぬままソファのベッドで寝落ちしてしまったのだった。