11,長い夜に
リビング、推定二十畳。
大きめのディスプレイがあり、見やすい配置でローテーブルとソファのセットが置かれている。
壁一面の掃き出し窓は開いているらしく、レースのカーテンが夜風にゆるくはためいていた。
部屋の照明をつけていないため、カーテンが持ち上がった拍子に、バルコニーの向こう側に夜景の光が煌めいているのが見えた。
窓の周りには背の高い観葉植物が並んでいるが、全体的にすっきりとしていて、モデルルームのように物が少ない。
(知ってた。お邪魔するのは初めてだけど。こんな急なタイミングで「うちに来る?」って言えるひとが、大掃除の必要な部屋に住んでいるわけがない。御曹司キャラっぽくギラギラしていないとか、私服はチャラいとかそれなりのギャップはあるのに、こういう基本的な生活部分で予想外な方向へ外すことはないのが、まさにプリンスのプリンスたる王道仕草……!)
照明が煌々とついたキッチンはオープンカウンターで、作り付けのテーブルの端には、リビングに向けてカフェ仕様のエスプレッソメーカーが置いてあった。
普段はちょっとした休憩や食事に使っているのか、ハイチェアが二つ並んでいる。
「リモコンにあるサブスクは契約しているから、見たいのがあったらどうぞ。部屋の明かりをつけるなら、窓閉めるよ。虫は入ってこないけど、外から絶対見えないといえるほど、高層階じゃない」
海から言われて、アリスはもう一度部屋を見渡してみた。
身の置所を真剣に検討してから、ソファに向かうことなく「ここいいですか」と声をかけて、ハイチェアに手をかける。
「最前席、かぶりつきで。料理作るところが見たい?」
楽しげに笑う海の手元で、水しぶきが上がる。手早く洗われて千切られる、新鮮そうな色合いのレタス。
本当に自分で料理しているとじんわり感動しつつ、アリスは椅子に腰をしっかりと落ち着けて、控えめに声をかけた。
「いま映画とか見ても、あんまり頭に入ってこない気がするんです。邪魔にならないようにしますので、ここにいたいです」
大型スクリーンよりも、明るくて人の気配のあるキッチンに気持ちが引き寄せられてしまったのだ。
指先まで綺麗な海が料理をしているところは、ずっと見ていても見飽きないに違いない。
「なるほど。白築さんは、俺と話している方が良いか。どうしよう、改めて何かの話をしようと思うと、何も思いつかないな。俺、普段あまり話す方じゃないから」
真面目くさった調子で言われて、アリスは「それは嘘です。昨日居酒屋で、すごくしゃべって……」と言いかけて、口をつぐんだ。
とっさのこととはいえ、きつい口調になってしまったことにようやく自分で気づいて、自己嫌悪に陥る。カウンターに頭を打ち付けそうな勢いで、頭を下げた。
「すみません。弓倉部長が話しやすいせいで、っていうと他人のせいにしている感じになるので良くないんですが、私、調子に乗ってます。何度かご指摘頂いていましたが、たしかに私いま他人への当たりが強いです。気が立っているというか……。それでなくても、弓倉部長は上司であって、身分差とまでは言わないまでも、もう少しわきまえるべきなのに」
「べつに、不愉快に感じたり、怒ったりはしていないよ。俺はずっと楽しんでいただけ。しかも、それを言うなら、俺も昨日からハイになっていると思う。今まで白築さんときちんと話したこと、ほとんどなかったから。それなのに、昨日は雰囲気に流されてお酒を勧めすぎたのも、本当に悪かった。どう考えても、飲ませすぎた」
反省していたのはアリスなのに、なぜか海まで反省を始めてしまった。
顔をしかめているのを見て、アリスは「そんなことはないです」と慌てて主張する。
「昨日は全部自分で注文したものなので、勧められたから飲んだわけではないです。たしかにちょっと飲みすぎましたけど。家に帰ってひとりになってから、何も考えずにぐっすり寝られたので、良かったです。今朝もいつも通りに出社できましたし、何も問題はなかったです」
海は手を止めて、真剣な様子でアリスを見つめてくる。
「いや問題だよ。俺は今度から、白築さんが飲み会参加のたびに『飲みすぎてないかな』って心配すると思う。『行かなくていいんじゃない?』って言いそうだし、なんだったら会食の予定とかぶつけて参加阻止するだろうな、俺ならやりかねないなってところまで妄想した……。俺のいない飲み会には行かないで欲しい、とか。言いそう」
真面目そのものの口ぶりで切々と告白をされて、アリスは胸に痛みを覚えた。
(これはもう親心……。私がしっかりしていないから、プリンスが私の保護者になってしまった。未成年のお父さんみたい)
よほど昨日心配かけてしまったらしい。煩わせて申し訳ないとの思いで、アリスは丁重に頭を下げた。
「今度から、お酒には慎重になります……」
「うん。とりあえず、今日はお酒無し。飲み物はどうする?」
目の前に、洗ったレタスのサラダと、ミネストローネっぽいスープが置かれた。おそらくスープは作り置きで温めたところなのだろう、とても良い匂いがする。
食欲を刺激されながら、アリスは一番簡単なものでと思いながらお願いした。
「お水がいいです」
「了解」
海は、さっとワイングラスを取り出し、冷蔵庫から出したミネラルウォーターを注いでくれた。水道水のわけがないのだった。
他人の家なので、アリスが「自分でやります」と出しゃばるのもどうかと思うのだが、さすがに接待されすぎだと内心落ち着かない。
「何から何までありがとうございます。プリンスにこんなに働かせるなんて」
「その王子様設定、プライベートでも生きているんだ?」
割り箸ではなく塗り箸を渡されて、受け取りながらアリスはじっと海を見つめた。
「……兄者?」
「義兄弟設定か、このやろう。もうそろそろ、俺のことは名前で呼べばいいのに」
「弓倉部長」
「会社じゃないよ」
にこっと、香り立つほど爽やかな笑みを向けられる。
数秒見つめ合って、アリスはギブアップした。顔を逸らしながら「これはひどいことです」とぼそぼそと言う。
「弓倉さんは、自分の顔の良さを自覚していないです。そんな顔で笑われたら、写真撮りたくなるじゃないですか……! 食事中なのに、スマホ構えたくなりますよ。こんな美味しそうな料理を無視している場合ではないので、まずはいただきます」
最終的に食欲に負けて、アリスはレタスに箸をつけた。
ひとくち食べて、思わず「美味しい」と声に出てしまう。
「美味しい塩をひとつまみって感じですか? 見た目は普通のレタスなのに、すごく味わい深いです。スープもいただきますね……。あ、美味しい」
またしても会話が途中になってしまった気がしたが、美味しい料理を放っておくのは作り手に失礼、つまり海に対して失礼になると決め込んで、アリスはばくばくと食べる。
まだ何か言い足りない空気であった海も、アリスの食べっぷりを見て苦笑すると、次の料理にとりかかるべく動き出した。
「美味しそうに食べてくれて、ありがとう」
「こちらこそありがとうございますです。あんなことがあったのに、昨日から『食事が喉を通らなくて』って一度もなってないですから。ほんと、こんな時にひとりだったらどうなっていたのかと、ぞっとします」
言っているうちに寒気がしてきて、アリスは慌ててスープをすくって飲み込んだ。
(大げさじゃなくて、私がいま生きているのって、弓倉さんのおかげだと思う。弓倉さんは、仕事だとしても、どうしてここまで良くしてくれるのでしょうか……! 六本木のクラブにつれていってくださいって言わないから? たしかに私は、そういうことは絶対言いそうにない地味な女ではありますが)
何か過去の因縁でも? と不思議な気持ちになり、キッチンに立つ海をじっと見てみる。
光の中でてきぱきと動く姿は、会社で見るスーツ姿とは、やはりずいぶん印象が違う。アリスのように鈍い人間からすると、別人と認識することは十分に考えられた。
アリスは普段たとえどれほど「素敵だな」と思う相手がいても、見知らぬ他人である限り、執着して追いかけようと思ったことがない。記憶力はごく普通であり、知り合いではない状態で一、二回会った程度では、長く相手の顔を覚えることはない。
(接点、接点……。接点ある?)
考えているうちに、軽く焦げ目がつくくらいにカリッと焼かれたバゲットを目の前に出される。
気取っていない家庭料理メニューといえるが、提供のタイミングが絶妙で、ひとつひとつがしっかり美味しい。
「弓倉さんも、働き詰めじゃなくてそろそろ食べませんか?」
「うん。メインをオーブンに入れたら時間ができるから。後から食べても、すぐ追いつくから気にしないで」
そう言う海の顔を、穴があくほど見つめてしまってから、アリスは思い余って質問をした。
「私と弓倉さんって、今までどこかで会ったことありますか? 会社以外で」
お? というように海が目を向けてきた。
その反応ひとつで、アリスは確信した。
おそらく、会っているのだ。アリスは覚えていないが、海は覚えているに違いない。
「あの……」
さらに言いかけたとき、カウンターの隅に置いてあった海のスマホが鳴る。
海もまた、何か言おうとしたように見えたが、スマホにちらりと目を向けて「社用だ。金曜日のこの時間にくる連絡っていうことは、緊急性が高い。ごめん、電話だから」と断りを入れて、スマホを手にする。
リビングから出て行きながら廊下で電話を取ったようで、遠ざかる話し声がかすかに聞こえた。
「なんだろう。全然覚えていないけど、接点あるかな……?」
戻ってきたら聞いてみようと思っていたのだが、数分後戻ってきた海は、すでにスーツに着替えていた。
「大変申し訳ないんだけど、どうしても行かなきゃいけない用事ができた。帰宅は絶対に遅くなるから、起きて待っていなくて大丈夫。家にあるものは好きなように使って、冷蔵庫も開けて構わない。俺の部屋は、見られて困るものはないけど、パソコン関係あるから一応鍵をかけておく」
「ありがとうございます。ぜひお願いします」
海の部屋に入る気などなかったが、おそらく機器類以外にも自分が考えもつかないような貴重品があるに違いない。万が一何かなくなったという話になるとアリスには手に負えないので、自衛してくれるのがありがたい。
「連絡は……つかないかもしれない。会議だから。どうしても困ることがあったときは、城戸に連絡して。あとで連絡先をメッセージで送る。城戸にも知らせておくから。メインはローストビーフ、オーブンに入れていくから焼けたらどうぞ」
忙しなくそれだけ言い残すと、海は風のように出て行ってしまった。
アリスは玄関で「いってらっしゃい」と見送り、施錠を確認して広すぎる他人の家のリビングに戻る。
食べかけの食事。
もぬけの殻のキッチン。
作業途中だったはずだが、片付けながら進めていたようで、水回りはきっちり整理されていた。あっという間に海がいた痕跡がなくなり、がらんとした空気にひとり取り残される。
「私は……ええと、どうしよう?」
声に出してみたものの、勝手のわからない他人の家なので、どうにもならない。
ひとまず食事を再開してはみたものの、極端に手が進まない。焼けたローストビーフを食べようと思ったが、やはり急に食欲がなくなっていて、食べられなかった。
自宅のワンルームとは比べ物にならないほど開放感のある広い部屋で、そのうち海も帰ってくるとわかっているのが救いだ。
待たなくていいとは言われたが、どうしたって待ってしまう。
(会議って、もしかして斎藤さん絡み? 弓倉部長が絶対外せないとなると)
ふと、窓から夜風が吹き込んでいることに気づいた。
寒くはなかったが、不用心な気がして、さっさと閉めてカーテンもきっちりと閉じた。
海は仕事であり、わがままは言えないのはわかっているが、静まり返った部屋の中にひとりでいるせいか、どんどん心細くなってくる。
スマホを手にして、さきほど二人で撮った写真を表示し、海のほうをじっと見た。
暗く、長い夜の訪れ。
アリスは身を縮こまらせて、早く時間が過ぎてくれるのを願った。
※レタスだけのサラダ=let us only(二人だけにして)=ハネムーンサラダ
海サン……!!