9,理にかない過ぎていたので
頭の上で、誰かが話している。
(ずっとこうしているわけにはいかなくて……。ええと、今日の予定はなんだったっけ。献上品は、いらないって言われた。他に何かやることあったかな。なんだろう、頭が全然働かない)
海は、アリスが支えなくても倒れないで一人で立っていると気づいたらしい。アリスの背中にまわされた腕は、触れるか触れないか程度の絶妙な距離に移動していた。
強く抱きしめられているわけではないが、仄かなぬくもりは感じる。
胸に触れた額も、じんわりと温かい。
見るともなしに視界にあるものを確認すると、プリンス弓倉の今日の装備は、いつも通りの絶対お高いブランドのシャツとネクタイに、エグゼクティヴ感満載のスリーピーススーツであった。これまでは遠目に見たことがあるだけだったが、抜群のプロポーションの海が二十代の若さでビシッと着こなしているのは、得も言われぬ迫力があると思ったものだ。
(そういえば、昨日居酒屋にいたときは、ベストは着ていなかったはず。それでも全然庶民には見えないんだけど、メリハリの付け方もさすが。今日は威圧感増しましだけど、これが本来のプリンス……)
この服に涙や鼻水をつけるわけにはいかない、という現実的な考えがアリスの胸を過ぎる。
しかも海は、メッセージをやりとりした際に、まだ仕事が残っていると言っていた。いつまでもぐずぐずと拘束していてはいけない。
アリスは俯いたまま、ひとまず「もう大丈夫です」と言おうとする。
ちょうどそのタイミングで、海は「サンキュ」と誰かに向かって言ってから、アリスに声をかけてきた。
「白築さん、城戸に車をまわしてもらったから乗って。家まで送るから」
意味を掴みかねて、アリスは無言のまま顔を上げる。
海と目が合った。
じわじわと、恥ずかしさに襲われる。
(ひどい顔見られた……! なんてこと、プリンスのお目汚しを)
動揺するアリスに対し、海はおっとりとした笑みを向けてきて「後ろ荷物あるから、助手席で」と声をかけてくる。
城戸というのは海の秘書の名前らしい。
先程のボディガードのような青年が、助手席のドアを開けて待っていた。
あまり車を停めておける場所でもないので、アリスは押し問答を避けて「ありがとうございます」と言って乗り込み、シートベルトを締める。
適当に駅で下ろしてもらおうと思ったが、運転席に乗った海から、先んじて言われてしまった。
「白築さんの住所、だいたいはわかるつもりだったけど、城戸がナビに入れてる。個人情報確認できるパスがあるから、俺の意向を汲んで秘書の仕事としてやっているんだ。悪用はしないから心配しないで」
「家までだと、結構長距離運転していただくことに」
「混雑具合にもよるけど、一時間くらいかな。運転は好きだから、全然たいしたことない。昨日は車置いて帰ったけど、普段の通勤でも自分で運転してる。今朝はまだアルコール残っていたかもしれないけどね、時間的に今はもう大丈夫だ。白築さんは疲れただろうから、寝ていていいよ。起きて俺と話していてもいいけど。気が紛れる方で」
気が紛れる……と呟いてから、アリスはシートに沈み込み、両手で顔を覆った。
「なんだか、すみません。すごく疲れたみたいで……。いろいろ任せてしまいまして」
いろいろどころではない。アリスがぼんやりとしている間に、海は電話をかけたりしていたはずだ。車だけではなく、各所に対して事案に関する手配してくれていたのは、聞かずともわかる。
(申し訳ない……。私を送ったら、また会社に戻るのかな。借りが山積み過ぎて、来世まで持ち越しても、返しきれる気がしない)
どっと疲労を感じているアリスに対し、海は凪いだ声で淡々と言った。
「任せておきなよ。会社の問題で、俺は経営側の人間なので、これは自分の仕事をしているだけだ。斎藤さんは、会社の金を横領したわけではなくても、同僚からお金を捲き上げていた。他の社員も関与していたみたいだし、余罪で何が出てくるかわからないから、法務部を入れて対応する。全額とはいかないかもしれないけど、白築さんからのお金の流れも追えるだけ追うから。証拠、本当にありがとう」
「それは全然、御礼を言われることではないです。私は被害者とはいっても、会社から見れば『騙された鈍臭い奴』ですよ。極論、私がいなければ斎藤さんも問題を起こさなかったかもしれなくて。私がカモ過ぎたせいで、悪い気を起こさせて」
自責が止まらない。
生産的ではない愚痴だとわかっているのだが、心の中が真っ黒に染まっていて、嫌な言葉が口から溢れ出してきてしまう。
(これは、私の後悔。プリンスに聞かせるようなことじゃない。もっと楽しいことを言わないと。プリンスには、昨日みたいに楽しそうに笑っていて欲しい)
顔を覆っていた手を外し、ちらりと窺うと、海は声と同じように凪いだ表情で前を見ていた。
びっくりするくらい、整った横顔だ。
目を奪われかけて、アリスはまたもや俯いた。
「すみません。運転していただいているのに、ぐずぐず言ってしまって。黙ります……」
すると海はすかさず「黙らなくてもいいよ」と前置きをしてから、さらっと言った。
「話す元気があるなら、俺も話したいことがある。いま決断を迫るのは難しいのはわかっているけど、今日このまま家に向かった後、荷物を持ってうちに来ない? 一人暮らしだけど、ゲストルームはある。狭くて申し訳ないけど」
「……ん?」
「うん。不思議そうな顔するのはわかる。だけど、俺の直感が、今日このまま白築さんを一人にしない方がいいと言っている。どうせ明日うちに招待していたんだから、二、三泊するつもりで荷物まとめて、今晩からもう来たらどうかな。滞在自体は、土日だけじゃなくて一週間でも一ヶ月でも延びて全然いいけど」
少し考えてみたが、頭が働いていないせいか、本当に何を言っているのかわからない。
「私が……プリンスの家に? つまり、王宮に?」
「そう。なんか調子戻ってきたみたいで、嬉しい」
前を向いたまま、海がにこにこと笑う。楽しそうで何よりだが、アリスはまったく笑える心境にない。
「いえいえ、調子は戻ってないです。というか献上品も断られているのに、平民が王宮に滞在なんて、ありえないです」
「大丈夫大丈夫、うちなんて王宮の犬小屋くらいの規模感だから、何も気にしなくていい。それより、今日みたいに白築さんが斎藤さんに追われたり、それが怖くて家から出られなくなったりするのが心配で。ボディガードをつける特別対応はさすがに難しいけど、俺がボディーガードになるならギリ可能」
「特別対応を避けた結果、スペシャル感が天元突破してませんか。プリンス弓倉をボディガードにするなんて、贅沢の極みですよ」
「そこまで言ってもらえると、照れるけど嬉しい。白築さん限定の提案だけどね。他の女性にはこんなこと言わないよ」
「それはなんといいますか、プリンスが女性を守るつもりでいても、当の守ろうとした護衛対象の女性から襲われそうですもんね……」
顔良すぎだし、と流れるままに言いそうになって、アリスはぎりぎり言わずに耐えた。
(すごいセクハラでコンプラ違反になりそうなこと言いかけた! 単に「私は襲うような気力も戦闘力もないです!」って安心させようとしただけだけど、変な空気になりそうな気がする! 直感で!)
どうにか話を逸らさなければと考えて、思いっきり話を戻すことにした。
「仕事……は、大丈夫ですか。残業は」
赤信号で停車。アリスの方へ顔を向けてきた海は、にっこりと笑って言う。
「緊急時にまでデスクにしがみつく判断しかできないのは、かえって問題だよ。今日は帰って美味しいごはん食べておしまい。料理は俺に任せて。白築さんはたくさん食べて寝たほうがいいよ。そのほうが回復が早い」
美味しいごはんのひとことに、アリスの心はがっしりと掴まれてしまう。
たしかに、この疲れた状態で暗い家にひとりで帰っても、買い置きのカップ麺を食べて寝るだけだ。明日の朝起きても気力が回復しておらず「横浜かー……」と、お呼ばれそのものが面倒になっている可能性も非常に高い。誠に遺憾ながら「休日に家から出るのが嫌」に関しては、実はアリスも他人事とは思えないほど、身に覚えがある。
「理にかない過ぎていますね……」
「そう。断る理由ないと思う。おいで」
信号が変わり、海は前を向く。
その横顔をぼーっと見ながら、アリスは考えるのをやめた。
「わかりました、お願いします」
そこで、話がまとまった。