プロローグ
どうせ会社を辞めるのだ、どうなったって構いはしない。
* * *
その日、白築アリスはそれまでの二十六年の人生で、一番自暴自棄になっていた。
理由はありふれたもので、婚約者の浮気である。
(婚約していると思っていたのは私だけで、実際は結婚詐欺だったみたいですが!?)
まさか、SNSなどで知り合った身元が怪しい男性ではなく、社内の同僚で周囲のひともよく知っている相手に結婚詐欺をされるなんて、思ってもみなかった。
後から考えてみれば、同期入社で給料はさほど変わらないはずなのに、交際中からずいぶん彼からお金をせびられていた。そこで気づくべきだったのだろう。
祖母が危篤で、九州の実家まで飛行機ですぐ帰らないといけないだとか。
北海道の交通の不便なところに嫁ぐ従姉妹から結婚式の招待を受けたけど、親戚だからご祝儀だけでも十万円包まなければいけないのに、旅費もかなりかかってしまう、とか。
(「そっか、大変だね」「ううんいいよ、今度ボーナス出てからで」「でも、結婚すると思えば、彰久の貯金は結婚資金に取っておいたほうがいいよね。大丈夫、私は私でもう貸したお金は自分で使ったくらいの気持ちでいるから」「結婚するときに家具を新調するとして、彰久が揃えてくれればいいかな。私の意見は聞いてよね?」あ~~~~なんて都合のいいあほ女~~~~! 私で~す!)
貢いでいた。
だが、踏み倒されるなんて思いもしなかったのだ。
なにしろ、結婚の約束をしていたのだから。
もっとも、その交際内容は年齢から考えると「清い交際」だった。仕事帰りにデートをしても、食事をするだけでいつもさっさと解散しており、いわゆる「お泊り」イベントはついぞ発生しなかった。
休日はいつもなんとなく予定が合わなかった。
祖母が危篤だとか従姉妹が結婚だと言われてしまえば「いってらっしゃい!」と言うしかないからだ。
これが半年や一年も続いていたのであれば、さすがにアリスだって不審に思って追求するなり調べたりはしていただろう。しかし、知り合ったのは数年前の入社時とはいえ、交際期間はたった三ヶ月だったのだ。
夜のオフィスでキスをして「付き合っちゃおうか?」とノリで付き合い始めたばかり。デート回数だってそれほど多くない。その間に不審なほどすぐに「結婚しようか」「今度親同士で顔合わせを」と盛り上がり、アリスは堅実に貯めていた貯金から百万円も渡していたのだ。
脇が甘いどころではない。
その相手、斎藤彰久が職場で突然の結婚宣言をしていたのだ。
アリスが出社してきたときにはその話題でもちきりで、上司に相談済だったという彰久は、この機会に転勤もするらしい。
職場は、国内でも有名なリゾートホテルグループの本社であり、アリスも彰久も入社時に現場経験は積んでいる。
今でも繁忙期には応援に入ることもある上に、地方の営業所に管理職として配属されるのも人事としてはよくあるものだった。
彰久は、信州営業所によく応援に行っていたが、そこの女性とお付き合いしていたということで、転勤の希望を出していて通ったということだった。
アリスにとっては、すべて寝耳に水の話だった。
「ちょっと、どういうこと? 私と結婚するっていう話は、なんだったの?」
驚いたアリスは、上司のデスク周りで和気あいあいとしていた一団に突撃してしまった。
その途端、さっと女性社員に行く手を遮られ、さらには女性上司からもきつく睨みつけられたのだった。
「白築さん。斎藤くんから聞いていた話は、事実だったのね」
「はい?」
「あなたが、斎藤くんにストーカーしているっていう話」
上司に冷たい声で言われて、アリスはまさに血の気がひくという感覚を味わった。
男性社員が「課長、みんなの前で言うのは」などと上司に声をかけていたが、上司は一切耳を貸す様子もなく、むしろきつい調子で「この際だからはっきり言いますけど」と切り出してきた。
「入社以来『彼女がいるから、付き合うことはできない』といくら斎藤くんが断っても、あなたのほうから『遠距離なら少しくらい遊んでもバレないから』と執拗に迫ったのだとか。しかも最近になって『ホテルに行かなくても、一緒に食事してくれるだけでもいい』としつこく言って、何度も奢らせてずいぶんお金を使わせたんですって?」
創作にしても、悪質過ぎる。
唖然としたものの、言われてみればアリスにも思い当たることはいくつもあったのだ。
(「付き合っていることは、会社ではまだ秘密にしてほしい」「二人で話しているところをひとに見られると勘ぐられるから、なるべく話さないようにしよう」って言われて、私も会社で「浮かれてる~!」って思われたくなくて、はいはいって聞いちゃっていたわ……)
彰久は、最初からアリスのお金だけを狙っていたのだろう。
デートが食事だけですぐ解散なのも、アリスは「大切にしてもらっている」と考えていたが、万が一にもホテルなどに出入りするところをひとに見られないための対策だったに違いない。
お金の貸し借りに関しては、借用書も作っておらず、この場では何も証明できない。
完全に不意打ちのアリスに比べて、彰久はこの三ヶ月周到に策を張り巡らせてきたに違いない。
挙げ句、新天地に栄転した上で結婚するという。
アリスは、社内で恨みを買うような振る舞いをしてきたつもりはないが、プライベートで付き合うほど他の社員と親しくもしていない。ランチをする仲の友達はいたものの、真面目な性格があだとなった形で、彰久の話を打ち明けるどころか「彼氏ができた」などの匂わせ会話をしたこともなかった。
こうなると、アリスはお金を搾り取られた上に、会社では悪評を流されて孤立無援、この先非常に肩身の狭い思いをするだけだ。
彰久に対しては「なんで? 私、あなたにそこまで恨まれるようなこと、何かした?」という疑問でいっぱいだが、人垣の向こうに見える彼はとても冷たい表情をしており、アリスとは目を合わせようともしていない。
ここでアリスは「おそらく私はこの後、いたたまれなくなって会社を辞めるんだろうな」という未来予想図を描いた。
彰久が本社に残るであれば、挽回できたかもしれない。
地道に仕事で信頼を獲得し、周囲に働きかけ「白築さんがそんなことするはずないよね」という空気に持っていくのだ。
だが、敵である彰久が悪評をばらまくだけばらまき、いざ転勤となったら即日消えるとあらば、アリスにはもう打つ手がないように思えた。
(きっと「白築アリスにストーカーをされている」って、私が知らないだけで社内では結構メジャーな噂になっていたのかも。それで、周りも気を遣って、ぎりぎりまで転勤の話が伏せられていて、オープンにしたら私と接触させずに一気に異動……逃げ足最強!)
自暴自棄な気持ちになったアリスの視界に、顔だけは知っている社内有名人が入ってきた。
弓倉海。
創業者一族の若手エリートで、有名大学卒業、海外勤務経験を経て入社。
華々しい業績に貢献しながら実力で最年少昇進を果たし、現在は二十代で広報部の部長をしている。
才色兼備とは彼のためにある言葉のようで、容姿も端麗。茶色がかった髪に、彫りが深く端整な顔立ちはまさに「甘いマスク」で、いつも笑みを絶やすことはない。百八十センチを超える長身で、オーダーメイドらしいブランド物のスーツを隙なく着こなしており、足の長さなどおよそ一般人とは思えないスタイルの良さだ。
ぼんやりと見ていると、目が合ってしまった。
これまで一度も会話をしたこともなく、海がアリスを個人として認識しているとは思えなかったが、彼らしい爽やかな笑みを向けられた。
その余裕のある態度を見ていたら「弓倉さんだったら良かったのに」という思いがふと浮かんでしまった。
(惨めに陥れられるにしても、相手が彰久じゃなくて、王子様の弓倉さんだったらまだ全然納得できたと思う。人生で一度巡り逢うか逢わないかの最高のイケメンだったら「仕方ない! 私もいい思いをした!」って割り切れたかもしれないのに)
詐欺は誰にされても最低であることに変わりなく「相手が王子様だったら」というのは短絡的過ぎる発想なのだが、この瞬間のアリスは、その思いに取り憑かれてしまったのだ。
一度きりの人生、しょうもない男にはめられて落ちぶれていくなど、つまらなすぎる。
どうせ派手に振られるなら、弓倉海レベルがいい。
アリスは、つかつかと海の元まで歩み寄り、ぎりぎり触れ合わない程度にぴったり幅を詰めると、周囲に向かって明るい声で宣言をした。
「斎藤くんとの恋愛トラブルって、なんのことかわからないんですけど。私、弓倉さんと結婚を前提にお付き合いしています! 来月の誕生日に入籍しようねって、昨日も話し合ったばかりで」
嘘だった。
(もうどうにでもなれ。どうせこの会社は辞めるんだから!)
ただ、こんなことに無関係な海を巻き込んだのは、非常に悪いことだという自覚はある。
アリスは、隣に立つ海を見上げて「ごめんなさい。この五秒だけで私はもう十分です」と目だけで告げた。
なぜか、海はものすごくいい笑顔でアリスを見ていた。
「え?」
海は、ぐいっとアリスを抱き寄せると、そのいい笑顔のままきっぱりと言い放った。
「実はそうなんです。僕たちお付き合いしているんですよ。いい機会だから皆さんも知っておいてください」
どよっとその場の全員が動揺した様子で、空気が揺れる。
海の力強い腕に抱き寄せられたまま、アリスは驚いてその顔を見上げた。
え……
ええーーーー!?