災いは転機
「ちょっと窓開けて」とリアシートに並んで掛けた従姉の久保麻衣がハンドルを握る叔父さんに言った。
都心では見ない手回しで窓を開ける車もすっかり馴染みになった。
伊豆大島を一周する島内道路を走る。磯の香りがふわりと車内に流れ込んだ。
それに釣られて久保凪も物憂げな視線を窓の外に移した。
『凪はココロが風邪をひいているのよ』
もう正直飽きたこんな言い訳。この歳になればわかる。精神疾患という言葉がお似合いということも、そんな娘を気に病んだ母親にもその片鱗が現れ初めているということも。
昔から人一倍敏感だった。誰かと話すとき相手の気配を感じてしまうと言葉が出なくなてしまうから、耳で音情報を拾ってそれに適当な返答を選んで返していた。そうするようになると根暗とか、生成AIとか陰でたくさんの二つ名が生まれた。だけどそれが辛いとか、思っていた分けじゃない。そうなることは必然でそれを流しながら過ごせば良い、そう思っていた。
だけどココロはそうも行かないよだった。
ある日、昼休みにズキンと痛む頭を抑えてトイレに駆け込み頑張って右手が箸を操って口に運んだものが便器の中に広がった。それを境に半日だけ学校に通うようになった。正確には午後を保健室で過ごして帰ると言うものだった。
家に引き篭もれば母親のどろどろとした圧力で息が詰まるから、それが最良だった。
結局、父が二人が距離を置くべきというカウンセラーの声を上手い具合に取り込み、小さいときから交流のある父方の親戚が住む大島に静養しに来たというわけだ。
二月の最終週、三ヶ月の静養生活を終えて東京の両親の元へ帰る日が来た。
北西の季節風が吹き荒れ高速ジェット船は軒並み欠航になり、午後の定期貨客船で帰ることになっていた。温泉や三原山ハイキングを楽しんだ観光客が岡田港の船客待合所に溢れていた。なにせ今日帰る術はこの船に乗るしかないのだから。
窓口で乗船券を発券した叔父さんが戻ってきた。
「またちょっと淋しくなるな」
「麻衣も来年大学だもんね」
「まあ、またいつでもおいで。この島なら台風でも来ない限りこうやって何かしらの船が来るから帰れなくなることはないよ」
「うん、またすぐ来るかも」
「父親《圭介》もぎりぎりまで逃げる癖があるからな。でも根は良いヤツなんだよ本当に、弟の俺が言うんだから間違いない」
「他人の家の父親どうこう言えるほど立派なの?」
決して細いとは言えないザ・オバサンな外見の叔母さんが睨む。
ああ、なんて幸せそうなんだろう。ずっとここが良い、これが本当の家族であれと何度願ったことだろう。現実は変わらない。
「とーさーん!」と遠くから麻衣の声がする。
「車どけてって、バスが出られなくなってるから」
「え、マジで」
「ほら早く」
ポケットに手を突っ込んでじゃらじゃらと鳴らしながら走っていった。
「お母さんはトイレ行くからちょっと休んでて」と叔母さんも気を遣ったのか消えてしまった。
潰れたスライムみたいな形の吹き抜けの二階に上がった。ジオパークとしても名高いらしいこの島のあれこれを紹介するブースにお行儀よく並んだ席の一つに掛けた。
「一人で帰れそ?」と口角を上げた麻衣が言う。
「大丈夫だよ、竹芝から乗り換え二回だし」
「ほんとか?凪は方向音痴だからな」
「だから大丈夫だって、この春から麻衣が大学で一人暮らししに来たら毎日居候しにいくから」
「毎日は却下」
「じゃあ、三日に一回か最低週一」
「最高週一」
ケチだな、と笑う。
家族や身内の前では問題なく会話できる。だから母親《あの人》も「たまたま上手く行かなかったのよね」と言い寄ってくる。凪だってそうだと思いたいのにどうして親に圧力をかけられるのか。学校で腫れ物同然で話しかけてこない人たちの方がよっぽど良い人だ、と思う。
「いや、参った」と苦笑する叔父さんから乗船券を受け取り乗船票に必要事項を記入する。住所も、電話番号も大島の住所を書いた。叔母さんは長いトイレから戻ってくると大きな袋を手渡した。島の名産である椿を使った土産物の数々だ。
十四時三〇分——船は岡田港の岸壁を離れた。
辺りが騒がしい。
目を擦り硬い二等和室の床から身を起こし一方向に流れる人の群れについて外に出た。
世界そのものが歪んだようなそんな光景だった。
岸壁に並んだガントリークレーンが轟音と共にドミノのように折り重なって倒れていく。船は瞬く間に反転して引き返して行く。背後に明かりを失った首都の影が黒々と浮かび上がる。数刻前までビルの合間で煌々と橙の光を放っていた東京タワーも、艶やかさを纏っていたレインボーブリッジも消えてしまった。
一瞬にして日常を奪い去られる様をただ傍観する者で溢れたデッキに取り付けられスピーカーから放送が流れた。それはまもなく竹芝に着くことを知らせた口調とはかけ離れ不安を抑えつけた声色だった。
『先ほど、相模湾付近を…えぇ、震源とした最大震度六強の地震が発生したと気象庁より発表がございました。それに伴いまして竹芝桟橋港内状況の確認を行っております。また津波の…可能性があるため東京湾外へ向けまして航行して参ります。現在のところ仕向け港に着きましては未定でございます』
小さく呼吸が置かれ。
『これより先、安全確保の為外部デッキを閉鎖いたします。また、乗組員より救命胴衣の着用指示がありましたら落ち着いて速やかな行動にご協力ください』
遠ざかる街を背に船は増速を続けている。先ほどとは明らかに景色の流れる速さが違う。
誰もが情報を欲している。加えて海の上であることも合わさって電波は全く入らない。諦めていると誰かが点けたTVに流れた見慣れたアナウンサーのヘルメットと眉間の皺が不安を煽る。画面が渋谷スクランブル交差点に移る。闇の中で白いスマホの灯りが寄り集まって揺れ動く様が映し出され、肝試しみたいなライティングでインタビューを受けるサラリーマンは息が荒い。
『足元がグラってきたら、なんか、カミナリみたいな音してそしたらガラスが頭からわーーてほら、あのビルから……』
よく見るオーロラビジョンは灯りを失い窓ガラスは木っ端微塵に砕け散りモザイクが追いつかないのか血だらけの人が画面の脇に映り込むとカメラは慌てて濃紺に染まる空を仰ぎ見る。
もはや時計でしかないスマホに視線を落とす。
一九〇三——あの人たちどうしてるかな?
そのとき『ビー、ビー』と耳障りなアラームが鳴り響いた。画面の脇にある日本地図の太平洋岸が黄色と赤で表示されている。津波だ。予想到達時間は一時間四十分後となっている。どの地点で襲来するかはわからない。心臓が縮こまるのがわかる。
「助けて、おかぁさ、おと、は……」声が出ない。今更ながらに過敏な心が疎ましいし、自分達のエゴを押し付けきて辟易していたあの二人を口にして助けを求めようとしている自分に腹が立つ。
視界が細く小さくなっていく。呼吸が荒くなる。
気付いた誰かが凪に何かを言っているけれどまともに聞こえることはない。
二等和室の硬い床にばたりと倒れ込んだ。
2
あれ、夢か?
そう思ったのは白い格子模様のある天井が見えたからだ。病院……だろうか、気を失っている間に何処かの港に入って病院に搬送されたのだろうか?
「目が覚めたのね」と本を閉じた見知らぬ少女が言う。セミロングで外側にカールした髪を小さく揺らしてクスッと笑った。
「玄関に降りたら蹲っているのだもの、驚いたよ」
「私、船に乗って、あれ地震はもう大丈夫なの?」
「地震? そんなもの起きていないけれど何かまだ記憶が混乱しているのね。苦しくて会館に転がり込んだのだろうから無理もないけれど」
「会館?ここは病院じゃないの?」
「ええ、でも安心してお医者には見てもらったしここは私の部屋だから誰かが来ることもないわ」
同世代のはずなのに妙にお高くとまった口調が鼻に付く。
『会館』とは何のことなのだろう。東京の近辺なんだろうか。怪訝そうに視線をそちらに向けると清楚な笑みを浮かべながら「なに?」と何かを見透かしたように問いかける。
「あの、ここは何の会館なの? あと最寄り駅はとか」
「極地会館、最寄りは電停なら本山新町、停車場なら杉浦かな」
キョクチ? デンテイ? テイシャバ?
取り敢えず陸に戻ったのだからスマホにメッセージが来ていないか確かめよう。そう思って取り出した画面の右上には電波がないことの印があった。データ通信を入れ直してみてもだめだった。
「ねえ、それ何?」と少女が問う。
「いやスマホ誰だって持ってるでしょ、もしかしてガラケー?」
「少なくとも庶民階級では持ってる人はいないかな、それにガラケーだったかしら、それもよくわかない」
「は、庶民階級って?」
そのときだった。ノックとと共に扉の向こうから声が聞こえた。
「ツバキさん、ユキです。体調は良くなりましたか?」
「ちょうど良かった、入って」
「はい」と小さな返事のあと黒のダブルコートの制服に身を包んだ子が入ってきた。
こちらと目があって眉が怪訝そうに動いあと、ペコリとお辞儀をしてツバキと言うらしい彼女の下へさっと駆け寄った。
「この方は?」
「今朝玄関で倒れ込んでいたから部屋で様子を見ていたの。おそらく異邦人なのだけれど…、そうだ名前まだ聞いていなかったわね」
唐突、と言うか今更。というかイホージンとは?
「久保凪……です」
「久保さんね、私は鮫島ツバキ」
波に乗り遅れまいと。
「ユキです」
役者は揃ったと満足気にツバキが頷きつつ「あ、お腹空くんじゃない?」と言った。
確かに空腹を感じる。タチの悪い夢の中ぐらいに思っていたけれどその感覚はとても現実的で、過去に例のないほど強い気がした。
ツバキは腰を上げると「ユキが作りに……」とスッと後を追うように席を立つ。だがツバキはドアの方に向いたまま「ねえ、ユキ」と呟いて振り返った。奥行きのない笑みを浮かべていた。
「共用の戸棚のうどんってまだあったかしら?」
「はい、右の奥に」
「そっか、ありがと、午後から学校戻りるのよ」
早口に言い切ってドアの向こうに消えた。
部屋は静寂で満たされる。交わせなようにお互い泳がせた視線がぶつかって苦笑いを浮かべる。やがて空間に漂う気色悪い得体の知らないものにかゆくなるような感覚に襲われ、先に言葉を口にしたのは凪だった。
「大変だね…、ユキさんも」
「いえ、むしろ楽しいくらいで。あとユキで良いですよ」
「Mっ気強いな、ツバキ…さんてなんかお高く止まってるというか……、別に悪口じゃなくて」
「お高く、と言うかお嬢様ですよ」
如何にもな悪口に気を悪くした様子もなく事実を伝える。
「なのでツバキお嬢様とお呼びしたいのですが、こちらにいる間はお許しが出なくて」
「許し?」
「帝都におられる間はなんでもお友達なんだとか。侍女が主人の友達だなんて変な話ですよね」
「ただの一人暮らしではないの?」
「まさか、私たちは帝国大学院で勉強すべくトウビから帝都に来たのです。この極地会館も私たちのように帝都で学びたい人が格安で下宿できるように帝国政府とトウビ支庁が出資して建てたんです」
「そのトウビ?は遠いの?」
「やっぱり帝都の方には馴染みがないでしょうか、約四五〇〇キロ北にあって船で丸三日です」
なんだか頭が熱くなって内容が頭に入らない。
徐にユキはベッドの脇にある窓に向いた机から写真立てを取って凪に見せた。
モノトーンの世界。
ここがもう一つの現実であると言う事実が固まりつつある。
「これは?」と落ち着いた口調でユキに問うた。
「トウビを離れるとき船の上から撮った写真です」
「船?海が見えないけど」
「トウビは一年を通して溶けない定着氷と呼ばれる厚い氷に島を囲まれているので、桟橋のあるヤトマリの辺りで海は見えません」
「じゃあ、船動けなくない?」
「氷を破りながら進むんです。結構迫力がありますよ」
写真の端に『冬燈・八宿桟橋 G39,3,4.』と几帳面に角が立った字で書かれていた。
一年を氷に閉ざされた世界なんて凪には想像もつかないし、そこに生活が在る事実とそこで生活を送っていた人を目の当たりにして一度落ち着いたショックが再発してしまった。
してやったり顔のユキに訊いた。
「里帰りはしてる?」
「……」
あ、やってしまったか……
「…ツバキさんがしたくない」
「うどん出来たよ」とドアが開いた。
机にうどんが載ったお盆を置いて「どうかした?」と凪に振り返ると手元に写真立てを見つけてそう言うことか、と口角をあげる。
「自分で食べられそ?」
「あ、うん、机借りても良い?」
どうぞ、と椅子を引いた。
大きな木製の上下窓。初めてみるこの世界の景色だ。軽自動車がギリギリすれ違えるくらいの細い坂道の両脇に並ぶ古めかしい街並みと木の電柱が並ぶ。鰹出汁の効いたうどんを啜りながらぼんやりと外を眺める。
ベッドの上に取り残された写真をツバキが手に「何処まで話したのかしら」と不適な笑みを浮かべる。
ユキは「島のことと私がお嬢様の侍女であること、ですかね」と笑いかえす。
ツバキは机に写真を戻して。
「まったく、家に来たときは私の掌で上手に踊っていてくれたのに」
「私も自立したんです(エッヘン!)」
「それもそーね」
今度は誇らしさの溶けた顔つきだった。
ボーン・ボーンと廊下から時計の音が鳴る。
「ツバキさん、私戻ります」と席を立つと黒いネクタイを締め直して金のボタンも左右を揃えて扉の方へ足早に向かう。
その背中にツバキが声をかける。
「ユキ、学校に戻ったら吉岡教授に編入希望の見学者がいるって伝えてもらえるかしら」
「はい……、でも」
「わかってる、でも可能性はあるのだもの」
翌朝、ウィンドブレーカーとスキニーパンツしかなかった私にツバキが服を用意してくれた。と言っても去年の春までツバキが着ていた地元の学校の制服だ。学校を卒業するとすぐにこちらにくる為、正装用に制服を着てくるのが一般的なようだ。進学先で制服を受け取るまでの代打なのですぐに箪笥の奥で息を潜めることになる。
中高ブレザーの凪は初めて着るセーラー服に鏡の前でくるくる回って確かめた。最後に枕元に置いていたスマホを胸ポケットに仕舞った。
参考までに言っておくが昨晩ツバキはソファーで寝てくれたのだ。
ツバキは昨日ユキが着ていたものと同じ制服に身を包み、下ろしていた髪も後で一纏めにしている。
朝八時過ぎに会館を出た。坂の下まで降りると路面電車が走る大通りに出て、件の本山新町電停から六駅揺られる。ドラゴンの彫り物がされた灯籠のある橋が目標の栄橋で降りて橋の袂にある石造りの階段を降りると木船が軽油臭いエンジンをガタガタと震わせて待っていた。
薄暗い橋の下に入り込んだ船には屋形船のより簡素な屋根がありランタンが下がっていた。
不気味な船を前に「コレの乗るの?」と声をかけた。
「そうだけれど」
「え…」
「もしかして一銭蒸気は初めて?」
首を縦に振りながら恐る々乗り込もうとすると。
「おい、ガンネル踏むな、足飛ぶぞ‼︎」
嗄れた怒鳴り声が耳をつん裂く。
顔を上げると黒々と焼けて皺の深い船頭が睨んでいた。
苦笑してツバキが服の裾を引っ張って言う。
「縁を踏み外すと桟橋と船に足を挟まれるから」
「あ、はい」
朝一番叱り飛ばされた凪を乗せて船はゆっくりと水面を滑り出した。
この世界がいま何月なのかわからないが今朝は少し冷える。人や荷物を乗せたたくさんの船が行き来している。帝都と言うのは本当によく栄えているようだ。川の両側の道も人や大八車が行き交い呼び込みの声があちこちから響いて来る。
二十分ほどの水上クルーズを終えて行幸橋の桟橋で降りて階段を登れば、目の前に見覚えのある煉瓦造りの建物が現れた。左右にドームを備えた横長な佇まいは間違いない——東京駅だ。
「あれ…」と声を出すとツバキもコレくらいは知っているのか、と微笑んだ。
「そう、あれが帝国大学院本館」
「そ、うなんだ…」
向かって右側のドームから中に入った。元の世界にいた頃、東京駅はいつも通過点でしかなかったたため内装がどれくらい似通っているのかと凪は首を傾げていた。改札がある方向に進むと無論そこにホームも地下通路もなく、同じ煉瓦造りの建物で囲われた中庭が広がっている。中庭の一番奥には朝礼台とフラグポールが三本立っていた。
二人は外廊下をなぞるように歩き『二號館』と書かれた札のかかった入り口で中に入った。
「おはよございます、教授」とツバキの声がした方に振り向くと物腰柔らかそうな小柄な丸メガネの男が立っていた。茶色の背広がよく似合っている
「おはよう、鮫島君」
「君が久保凪君ですね?」
君とか、女子に君付けなのが何故か鼻に付かない柔らかな笑みを浮かべている。三十代くらいに見えるが何処かお爺さんのようにも見える
「僕は電信科主任の吉岡太一、もし入学となれば通信法規と通信工学で会うことになると思います」
「あ、はい……」
入る学科まで決まってるの?
昨晩この学校について色々話を聞いた。帝国は実力主義を謳っており全国から選抜された優秀な学生のみが入学を許され毎年入試の平均倍率七倍になる。だか、そんな学校に編入の余地があるのか、と思っていると欠員補充があるのだと言う。勉強も難易度も高く一年でどの学科に置いても五、六人前後の退学者が出るので一年後補欠編入試験が行われるのだとか。
大学院は大きく三部に分かれ国務官(官僚らしい)や医者を養成する第一学生部、軍下級士官を養成する第二学生部、そしてその他生活インフラや経営などを学ぶ第三学生部がある。またこれとは別に爵位を受けた家の女子が通う華族部女学科と呼ばれる男子禁制の園があるのだとか。
ツバキやユキは第三学生部電信科の学生と言うことになるようだ。
ニスの薫る立派な木の階段を登って教授室に入ると両側の壁は全て本棚になっており、奥の上下窓が三つ並んだその前に机が置かれていた。その手前の応接セットに視線をやると学生らしき男子が座っていた。
吉岡教授は「新庄君、待たせたね」と声をかける。
「いえ、大丈夫です」
私は視線が合うと取り敢えずの挨拶をして席についた。
「さて」と手を擦り合わせて教授が言う。
「知らない人ばかりで緊張するだろうけれど楽にしてくださいね」
凪は硬いままだった。
「新庄君は久保君がここにいる上で助けになってくれる存在だと思うので頼ると良いですよ。学年は一つ上になると思うけどね」
「はい、新庄さんはどう言う?」
「君と同じ異邦人、いわゆるここへ迷い込んだ人ですよ」
「え⁉︎」
「ユキ君から話を訊いたときもしかするとと思ってね」
教授の視線に促され新庄が口を開く。
「まず最初に断っておきたいことがあるんだ。今、久保さんはきっと元に戻れるか心配で仕方がないと思う。……正直に言う、俺はここに来てもう七年になる」
「……」——言葉が出ない。
「頼ると良いなんて教授は言ってくれたけど、俺にできることって元の世界の思い出話くらいで何の解決ににもならないかもしれない。強いて言うならこの世界で七年過ごしてた体験談を披露することくらいだ」
「でも決して希望は潰えてないでしょ」
ツバキは睨むような鋭さと凛々しさを宿した目で言う。
「この逆境で耐え抜いたことはきっとどんな世界でも生きていける力になる」
どうしてツバキはそれほど強く生きていられるのだろう。短いながら生きてきた凪の人生には特に目標みたいなものはなかった。進路調査で書けと言われたから書いた極短期的な未来のそれは在ってもそれが本心か訊かれた頷ける自信はない。
教授が腕時計を見て「鮫島君、一旦二人で話させてみたいんだけど良いかな?」と微笑んだ。
理由を察したのかツバキは外に出て行くとスピーカーから『課業開始五分前』と放送が流れた。
新庄も腰を浮かせたが「二人でと言ったでしょ」と教授が静止し部屋を後にした。
気不味い沈黙が流れる。
「あの、さっきのこと別に久保さんを失望させるつもりで言ったわけじゃないんだ。ヘンに期待をさせて苦しませるの嫌だったから、少なくとも俺はこの七年それに縋り続けて辛い思いをしたから、だから、嘘はつきたくなくて」
俯いたその瞳の輝きはほぼ消えかかっている。
凪はゆっくりと口を開いた。
「思い出話、しましょうか」
「え?」
「出身はどこですか?」
「鍛冶屋町の…」
「そうじゃなくて日本での」
新庄の瞳が微かに揺れた。
「ニ・ホ・ン……久しぶりの響きだな」
凪は静かに待った、そして。
「神奈川の菊名だよ」
「私は東京の東中野です」
「そっか、割と近いね」
小さく笑った。そして思い出したように。
「名前なんだけど偽名なんだ」
「偽名?」
「新庄洋介は今の家に養子で入ったことと下の名前がこちらの世界で聞かない名前だったから。本名は水本怜也」
まるで千と千尋みたいだろ、と初めて笑みを見せた。
「じゃあ、私もしばらくするとこの名前とは……」
「そうしなくて良い手が無いわけじゃない」
「?」
「鮫島の協力が得られればの話だけど彼女の侍女になることだ。侍女は苗字を省略して名前のみで呼ぶし久保さんの場合は馴染みやすい名前だから恐らく変える必要はない」
「だけどユキさんが居るし、そもそも侍女は何人もいるもの何ですか?」
「鮫島の故郷の話は聞いてるか?」
「はい」
「なら早い、鮫島みたいな極地や逆に南方から名家の女子が帝都に進学してくるときは侍女を同行させるのが一般的なんだ。二、三人連れてくる家もあるくらいだから相談してみると良いんじゃないか」
以外とお喋りじゃないか、とほくそ笑んだ。
ずっと心細かったんだろうな、とも思う。突然迷い込んだ世界の知らない家で七年も過ごして、目下帰れる兆しはないなんて惨いにも程があるだろ。凪は自分ならとっくに卒倒して新たな世界に送り込まれていたかも知れない。
不安の晴れたような笑みを浮かべた新庄は「俺からも良いかな?」と尋ねる。
「今の日本はどんな感じなんだ」
大袈裟か、と頭の裏を掻きながら無邪気に笑う。
凪は硬直する。何と答えよう。せっかく取り払われた彼の不安を私が再来させてどん底に突き落としてしまうかも知れない。そのとき私は言い訳も浮かばないくらい……
「久保さん…」と気ずけば膝の上で所在なげにうじうじとしている手に落とされていた視線を引っ張りあげる。
震えないように整えた声で答える。
「私の最後の記憶は東京周辺で大きな地震があって、私は…、色々あって大島から船で帰ってる途中だったんですけど港がダメになったみたいで引き返したんです。津波が、来るかも知れないとかで、東京湾の外に。でも、途中で気を失って……」
「そっか…」——失望しちゃったよね。
せっかく上がった視線がまた下がって行く。
そこにとても温かい、多分、少なくとも私にはそう聞こえた声で。
「よくここまで頑張った」
「へ?」
「きっと家族とも連絡とか取れてないんだろ。久保さんももしかしたらを信じてるから、ここじゃお守り以下のスマホを持ち歩いてるんだろ」
胸ポケットからほんの少し頭をのぞかせるスマホを指した。
今更だがそれにそっと手を当てる。
「さっき鮫島が言ってた『希望を絶やすな』だけど、微かな希望を信じて生きることはとても残酷なことだ。でも俺も久保さんも独りじゃなくなったからさ、例えどちらか片方の望みしか叶わなかったとしてもその日までは同志として闘ってくれないか」
「……う、う」ダメだ、涙が止まらない。
やがてこの苦しみは終わる日が来るかも知れない。例え夢の中だったとして現実世界で再会が果たされるかもわからないけれど、もし叶ったならこれから綴られる冒険譚を語り合えたら良いな。少なくとも今はそれが生きる希望であり、意味になり得ると凪は思った。
「私も闘わせてください」
初めて仲間が出来ることに高揚感を覚えた。