第八話 忌術解放
はっと、意識が覚醒する。
夜の住宅街。半狂乱の男。血溜まりに倒れる身体。
さっきと何も変わらぬ景色。
痛みが全身を襲う中、両手の平をゆっくり空へ伸ばす。瞼に力を込め、かっと目を見開く。
身体の自由が効く。さっきとは明らかに何かが違う。
長い夢を見ていた。決して忘れまいと誓った、けれど長年忘却の彼方へ置き去りにされていた、幼い頃の記憶を。
そうだ。俺はあのとき、強盗に胸を刺されたんだ。母さんが人質にされていることに激昂して、錯乱した強盗が振り回したナイフが不運にも心臓を貫き、一度死んだ。
そこを、神様を名乗る不思議な少女に蘇らせてもらった。星空のような世界で。
嘘みたいな、まるで映画のような話。けれど実際に起きたことだと、心が叫んでいる。嘘などでは決してないと、魂に刻まれている。
どうして今の今まで忘れていたんだろう。こんな大事なことを。
──『なら私は、君に命と力を授けよう。命は、君の凍えた心臓に再び鼓動を蘇らせるだろう。力は、君に自分の望む生き方を実現させるだろう。その力がどんな形で現れるか、全ては君の魂の在り方次第だ』
そして、同時に力も授かった。この理不尽にまみれたクソったれな世界に対抗し得る、俺の魂の在り方次第だという力を。
『死んじゃえええええええええええぇッッ!』
男は大きくナイフを振りかざし、渾身の一撃を刺そうとしてきた。
──俺の魂の在り方が力になるってんなら。
男に向かって、俺は両の手の平を突き出して。
──これしかねぇだろ!
本能的に叫んでいた。
「忌術……解放!」
そのときだった。
男の身に、異変が起こったのだ。
『ぎゃあああああああああぁああ!』
ナイフを取り落とし、地面にのたうち回る男。その周りには夥しい量の血が。そして、男の身にはナイフで刺したような刺し傷が無数に刻まれていた。
──そうか……これが、俺の力。
かたや女の、否、俺の身体からは傷はおろか痛みも全てなくなり、一転、立ち上がって男を見下ろすにまで至っていた。
先ほどとは真逆の立場。まるで。
──与えられた痛みを、そっくりそのまま返したみたいだ。
思わず手の平を見つめる。今自分が初めて使った力に、動揺を禁じ得なかった。まさか自分にこんな力があったとは。
いや、違う。きっと忘れていただけで、ずっと魂の奥底に眠っていたのだ。
──妙な感じだ。初めて使った力なのに、なぜかしっくりくる。これが俺の魂の在り方……ってことなのか。
当惑していると、目の前の景色が揺らいでいることに気づいた。異変にぐるりと辺りを見回す。周囲の風景はまるで霧のように溶けて、やがて消えていった。
夜の静寂。肌寒い冷気。闇の中に佇む校舎。そこに立ち尽くす、自分。
元の学校に戻っていた。さっきの男も、血溜まりも、住宅街もどこにもない。最初から何もなかったかのように、そこには元の世界があった。
白昼夢でも見ていた気分だった。誰に話しても信じてもらえない、やけにリアルな悪夢にでも囚われていたようだった。
──そうだ、俺の身体!
急いで我が身の状態を確かめる。制服の白いシャツに、黒いパンツ。男らしい筋肉。よかった。ちゃんと身体も元通りになっているようだ。
──傷が、どこにもない……。
男に刺された傷は、どこにもなかった。出血も、それどころか痛みすら全く残っていない。さっき別人の身体で体験した通りだ。傷が消え、そのまま向こうに与え返した。こうまで悪夢の痕跡が残っていないとなると、本当に嘘のことのように思えてきた。
だが、あの痛みは偽物などでは断じてない。
〝アアアアァアアアアアアアアアッッ!〟
この世のものとは思えない、おぞましい絶叫。
びくりと全身が跳ね、背後を振り返った。
──まさか、仕留め損ねた⁉︎
黒い鳥居は、健在だった。
その闇の向こうから、黒い骸骨が長い髪を振り乱しながら叫んでいたのだ。のたうち回りながら、苦痛に悶えるように。
やがて骸骨と視線が合い──大口を開けて、こちらに迫ってきた。
「ヤバいヤバいヤバい!」
蜘蛛のように地面を這う骸骨。耳をつんざく叫び声。
足が竦んだ。目が離せなくなった。
さっきのリアルな悪夢と違い、あまりに現実離れした恐ろしい光景に、どう対処すればいいかわからなくなった。
だが。
──彩陽……!
視界の端に、映るもの。
同じ悪夢に囚われていたのか、地面に彩陽が仰向けになって倒れていた。
苦しそうな表情からして、きっとまだ死んではいない。だがこのまま立ち竦んでいては最悪の結末を迎えてしまうだろう。
──くそっ、しつこい男は嫌いだ!
よく見ると骸骨にはあちこちに刺し傷のようなものがついている。先ほど与え返したダメージが残っているのだろう。なら、こいつの正体はあの男は怨霊か何かか。
この骸骨こそ、俺たちを悪夢に閉じ込めた主に違いない。
だったら、俺の力はまだ通じるはず。
意を決して、再び両の手の平を突き出す。
「忌術──」
待て。何かおかしい。
黒い骸骨は長い髪を振り乱しながら襲いかかってくる。そう、まるで女性の髪みたいに。あの悪夢の中で、男はそこまで髪は長くなかった。あんな髪をしていたのは、むしろ──。
──もしかしてこいつ、女の方……なのか?
考えている暇などない。隙を与えれば間違いなく殺られる。
余念を捨てて、再度手の平を構えた。
「忌術……解放!」
〝ガアアアアアアアアアァアアアッッッッ‼︎〟
地を震わす断末魔。
骸骨の至る所がザクザクと切り裂かれ──黒い霧となって、鳥居もろとも霧散した。
夜の学校に静けさが戻る。やっと平和が、訪れた。
「はあ……はあ……」
心臓がバクバク暴れる。肺が酸素を求めて急速に収縮する。冷たい汗が、額を伝う。
終わった。これで、ようやく。
安心感で倒れ込みそうだった。今しがた体験した不可思議な出来事の数々など二の次にできるくらい、安堵の方が勝った。
彩陽はまだ気を失っている。早く無事か確かめないと。
「うっ……」
直後、背後の何者かの気配を感じ──うなじにトンと一撃を食らった。
今日はよく気絶する日だ。そんなことをぼんやり思いながら、視界は暗転した。