第七話 神様を名乗る少女
ゆっくりと、瞼を開く。
目に飛び込んできたのは、一面の闇だった。けれど至る所に光る点のようなものが散らばっていて、それがぼんやり辺りを照らしている。
星空みたいだ──それが最初に心に浮かんだ感想だった。
それほどこの景色は綺麗で、ずっと眺めていたいと思った。
けれど僕は起き上がる。ここは一体どこなんだろう。なぜこんな場所にいるんだろう。
闇の中に立つと、不思議な違和感があった。立っているという感覚が、ない。地に足をついている、足に自分の体重が乗っているあの独特の感覚が、一切ないのだ。
それどころか暑くも寒くも、ない。自分の息しか聞こえない。
下を見て──思わず声が上がった。
足場がどこにもないのだ。上も下も、前後左右まで星空のような闇が広がっていて、果てが見えない。なのになぜか立っていられる。混乱して、胸がざわざわしてきた。
──今日は僕の誕生日で、父さんと母さんがお祝いしてくれて、それで……。
思い出した。腹の底にどすんと雷が落ちたようだった。
ピンポーンと、インターホンが鳴って。母さんが玄関を開けると、強盗が乱入してきたのだ。母さんを人質にとって。それを目の当たりにして僕は──。
──そうだ。ナイフで、胸を刺されたんだった……。
母さんの首に、ナイフが充てがわれているのを目撃した、瞬間だった。恐怖より怒りが爆発して、本能的に身体が動いて、強盗に飛びかかったのだ。
無我夢中で。母さんを放せと叫びながら。
それで錯乱した強盗がナイフを振り回して、それが──。
──僕の心臓を、貫いたんだ。
あの冷たい感触を思い出す。鋭い切っ先が肌を突き破って、肉に侵入し、心臓に当たるあの感触を。思い出すだけで身震いする、あの感触を。
急いで服をはだけて、胸を確認する。ところが──。
──傷跡が、ない……?
ナイフで刺されたような跡は、どこにもなかった。痛みはおろか、出血すらなくて、余計に頭が混乱した。
夢、だったんだろうか? 気が動転したせいで見た幻覚? いや、あの痛みはあまりにリアルだった。勘違いなどでは決してない。確かに僕は胸を刺された。
じゃあ、なぜ僕は生きてるんだろう? ここは一体どこ?
『目が覚めたみたいだね。逢真夏翔くん』
突然の声に、肩が跳ねる。振り返ると、少女が一人立っていた。
不思議な少女だった。腰まで伸びた透き通るような銀髪に、立派な巫女服。顔には狐の面を被っている。けれど僕と同じくらいの歳だというのは、背丈でなんとなくわかった。
その姿は星空にも似た闇の中で、一際異彩を放っていた。
おそるおそる、尋ねる。
『なんで僕の名前を知ってるの? 君は……だれ? ここは、どこ?』
『ここは生と死の狭間みたいな世界だよ。私はこの世界の神様みたいなもの』
神様? こんな小さな女の子が? 俄かには信じ難かった。
けれどその口調には年不相応の落ち着きというか、威厳みたいなものがあって、表情の読めない狐の面も相まって、不思議と納得させられた。
でも──生と死の狭間だって?
『だから君のことならなんでも知ってる。今日が誕生日なことも、強盗に殺されたこともね』
殺された──その一言に、絶望した。
ああ、そうか。やっぱり僕は死んだんだ。心臓を刺されて、無事なわけないもんな。
俯く僕に、少女は続ける。
『絶望するにはまだ早いよ。君のご両親も殺されたんだから』
『え……』
耳を疑った。
父さんと母さんが、どうしたって?
『言ったろう。私はこの世界の神様だって。神様は未来を見通すこともできるんだ。だから君が死んだ後のこともよく知ってる。強盗は君を誤って刺したあと、錯乱して君のご両親まで手にかけた。……いや、正確には違うな。君が殺されたから、ご両親が動転して強盗に襲いかかった。そのせいで返り討ちに遭ったんだ』
少女の言葉が、とても信じられなかった。
すーっと、全身から血の気が引いていくのがわかった。
『嘘……そんなの絶対嘘だ! だって、ついさっきまで一緒に僕の誕生日を祝ってくれてて、二人とも病気なんか罹ってなくて、悪いことなんか何もしてないのに!』
『──それが〝理不尽〟というものだよ。逢真夏翔くん。日常なんていつも理不尽に踏み躙られるものさ。それが天災だろうと、人為的であろうと』
目が眩んだ。頭がどうにかなりそうだった。
父さんと母さんが死んだ。違う、殺された。
いや、そうじゃない。少女の話が本当ならまるで──僕が二人を殺したようなものじゃないか。僕が暴れさえしなかったら、強盗の言いなりになっていたら、二人は死なずに済んだかもしれなかったじゃないか。
胃の中がむかむかする。喉の奥から逆流しそうになるのを、必死になって堪える。
『強盗は……捕まったんだよね。ちゃんと二人を殺した罰を受けるんだよね!』
縋るように、乞い願うように問う。だが狐の面から返ってきた答えは、残酷なものだった。
『自殺したよ。誰も殺すつもりなんてなかった、ってね』
『そんな……それじゃ──』
それじゃ勝ち逃げされたようなものじゃないか。好き勝手に家に入り込んで、二人を殺して、償うべき罰も償わないまま命を絶った。
そんなのずるい。ありえない。
気づけば、叫んでいた。声を上げて泣いていた。
嫌だ。許せない、そんなの。
だったら僕は、僕は──誰を憎めばいいんだ。何のせいにしてこのまま死んでいけっていうんだ。
復讐すべき相手ももういない。それなら僕は、何を糧に逝けばいいっていうんだ。
『……君のお母さんの最期の言葉はね、〝人の痛みがわかってあげられる大人に育ってね〟だったよ』
憐れむような口調で、狐の面の少女は言う。奥歯を噛んで、僕は涙を強引に拭いた。
『……そんなの、無理だよ』
そう。いくら母さんの最後の頼みだからって、そんなの不可能だ。
ある日突然、平和な日常を壊されて。奪われて。蹂躙されて。その上、他人の痛みがわかる人間になんて絶対なれない。なりたく、ない。
だって。
『この世界が理不尽なものだっていうんなら、僕はそいつらに思い知らせてやりたい。世界中の理不尽が、全部そいつらに返ってくればいいのにって思う』
与えられた痛みは、返さなくてはならない。
『強盗みたいなやつらに──同じ痛みを味わわせてやりたい!』
拳を、強く握りしめながら。
闇の中に、その声は盛大に響き渡って。やがて沈黙に包まれた。
少女は僕を見つめたまま、無言を貫いている。けれど狐の面の向こうに映る瞳には、どこか悲しそうな、憐れむような色が滲んでいた。
『そうか……やっぱり君は、その道を選ぶんだね』
わずかに下を向いたあと、やがて少女はまっすぐこちらを見つめてきた。
『君は、まだ生きたいと願うかい? 自分の望むような人生を送ってみたいと思うかい?』
迷わず、頷く。
もし再び生きることが叶うなら、僕は決してこの世の理不尽を許さない。絶対に強くなって、奪い、壊し、踏み躙るような連中を、この手で懲らしめてやる。
『なら私は、君に命と力を授けよう。命は、君の凍えた心臓に再び鼓動を蘇らせるだろう。力は、君に自分の望む生き方を実現させるだろう。その力がどんな形で現れるか、全ては君の魂の在り方次第だ』
少女が僕の胸に触れる。手の平から、ほわっと白い光が浮かび、指先を通じて僕の胸に伝わってきた。
ドクン。
熱く、心臓が跳ねる。全身の血が滾り、今なら何でもできそうな気分だった。
そうか。これが少女の言う、〝力〟か。
必ず、使いこなしてみせる。必ずだ。
『君はここで過ごした記憶を忘れてしまうだろうけど、どうかこれだけは覚えていてほしい』
決して忘れるものか。違えるものか。全てはこの世の理不尽を打ち倒すために。
『この世から……ヨモ……ツ……を葬り去れ』