第五話 黒い鳥居
「なーんてことがあったわよねえ」
「〜〜〜〜っ!」
彩陽の語りが終わり、俺は思わずしゃがみ込んだ。
あれ? 俺あのときそんなこと言ったっけ? そんな態度だったっけ? たしかにあれが彩陽との出会いだったけど、恥ずかしさのあまり頭を抱えた。
「はぁー……俺女子の前で超カッコつけてんじゃーん」
「そんなことないわよ。あのときの夏翔はアタシにはヒーローに見えたもん」
まあ、ここまで本当に喧嘩が弱いとは思いもしなかったけどね、と彩陽は付け足す。
「……でも、そのせいでいじめのターゲットが夏翔にすり替わったのは、申し訳ないと思ってる。本当に、ごめんなさい」
暗い面持ちで目を伏せる彩陽に、俺は反射的に立ち上がった。
「よせってそんな顔。あれは俺が好きでやったことだ」
「でも……」
「俺がヒーローだってんなら、あいつらなんてコテンパンに蹴散らしてやっから」
シュッシュッと、シャドーボクシングの真似をしてみせる。彩陽の表情にわずかに笑みが戻った。
「ふふっ……変わらないわね、夏翔は」
夜の学校。俺たちの出会いの場所に、しばしの沈黙が降りる。想いを馳せるように遠い眼差しをする彩陽。かたや俺はだんだんと胸が高鳴り始めていた。
──『夏翔はヒーローよ。あのときのアタシの目にはそう映った』
──『実は……さ。大事な話があるのよ……アンタに』
これってやっぱりそういうことだよな? 俺のことヒーローって言ってくれたし、大事な話があるって言ってわざわざ初めて出会った場所に連れてきてくれたし。
俺から切り出した方がいいのか? 女子の方から告白させるなんて男として不甲斐ない気がするし、俺の方からすべきなのか? 一体どうすりゃ──。
「夏翔……大事な話があるの」
「は、はい!」
思わず背筋が伸びていた。緊張で声が裏返る。心臓がバクバク暴走する。全身の血が熱く沸き上がる。
「アタシ……アタシね、夏翔と──」
ゴクリ。
「夏翔と──友達やめるから」
「不束者ですがよろしくお願いしま──え?」
耳を疑った。
今、なんて言った?
友達をやめるって、言ったのか?
「ど、どうしたんだよ急に。ははっ、これってドッキリ? エイプリルフールだっけ」
「真面目な話よ。アタシ、アンタと絶交するから」
人が変わったように冷徹な表情を浮かべる彩陽に、動揺を禁じ得なかった。
頭がパンクしそうだった。理解が追いつかなかった。
さっきまで良い雰囲気だったじゃん。告白してきそうな勢いだったじゃん。それがどうしてこうなった。まるで異世界にでも迷い込んだ気分だった。
「アンタみたいな弱い男、前から嫌いだったのよね。喧嘩っ早いくせにいつも負けてばかりでカッコ悪いし、ガサツだし。アンタと一緒にいるとアタシの価値も下がるっていうか、もう我慢の限界なのよ。これからはアタシに関わらないでちょうだい」
腕組みをしながら、彩陽は侮蔑も露わに睨んでくる。
眩暈がした。立っているのもやっとだった。聞き間違いじゃ、なかった。
彩陽は本当に友達をやめると、絶交すると言ったのだ。
彩陽の言葉が信じられない。信じたく、ない。だってさっきまで色々話して、今日だって一緒に奉仕部の活動をしたじゃないか。
「嘘……だよな。冗談に決まってる。だったらなんでさっき昔の話なんかして、ヒーローみたいだなんて言ってくれたんだよ……」
「あれは過去を清算したかったの。アンタに借りなんて作りたくなかったからよ。あんなのあくまで当時の話で、今のアタシは違うわ」
見下すような笑みを浮かべて、彩陽は言った。
「ヒーロー? ぷっ、笑わせないで。あのときの子供だった頃のアタシとはもう違うの。これからは他にカッコいい男見つけて、金輪際、アンタとは縁を切るわ」
これ以上聞きたくない。耳を塞ぎたい。
でも、身体は言うことを聞いてくれなくて。ただ立ち尽くすばかりで。彩陽の言葉が頭の中でぐるぐると渦巻いていた。
一体何が起こってる。今日、彩陽は剛田に殴られた俺を看病してくれて、一緒に奉仕部の活動に専念して、晩飯を作ってくれて、悪夢にうなされた俺に優しくしてくれて──。
──まさか。
「お前……例の母親に何か言われたのか」
「……っ」
彩陽の母親が教育熱心なあまり、彼女を抑圧し傷つけたことは知っている。それが家出の理由の一つであることも。その教育が行き過ぎて付き合うべき友達を厳選していることも。
俺みたいなやつと付き合っていることが知られ、あまつさえ一緒に暮らしていることがバレたなら、彩陽に友達をやめるよう無理強いしてもおかしくはない。
「最初にお前がうちに来た日、俺言ったよな。何があってもお前を守るって。お前の居場所はここだって」
「……覚えてない」
低い声で、彩陽は視線を逸らす。その目は明らかに泳いでいた。おそらく図星なのだろう。
だったら俺も、放っておくわけにはいかない。
「本当のことを話してくれ。でないと何も──」
「関係ないって言ってるでしょ!」
そのときだった。
しゃりん、と、鈴のような音が鳴って。
そして。
目の前に、鳥居が立っていた。
人一人が余裕で潜り抜けられる高さの、おそろしく朽ち果てた、どこか異様な雰囲気を放つ黒い鳥居が。
「なっ、何よこれ。アンタの仕業⁉︎」
「知らねーよ。こいつどこから現れた⁉︎」
混乱のあまり、後退りした。
黒い鳥居は俺と彩陽の間を隔てるように、彼岸と此岸を分つように立っていた。鳥居は木造で、至る所が剥がれ落ちていて、芯の部分まで真っ黒だった。そのてっぺん、神社の名前などが書いてあるべき部分には「黄泉」とうっすら読み取れ、得体の知れない不気味さを感じた。
──なんだよこれ……まるで依頼の鳥居と一緒じゃねえか。
奉仕部に来た依頼を思い出す。『神社で不気味な黒い鳥居を目撃しました。怖くなってすぐに逃げましたが、あれが一体何だったのか今となっては気になります。是非とも正体を突き止めてはくれないでしょうか?』
冷気がひんやり肌を撫でる。嫌な汗が、額から流れた。
──よくわかんねえけど、とにかく嫌な予感がする。
今すぐここから離れた方がいい。本能的にそう思った。
「彩陽! 早く逃げよう!」
焦燥感に駆られて叫ぶ──が、その声は虚空に消えた。
ふと、目を離した瞬間の出来事だった。
彩陽の姿が、ない。
ついさっきまで鳥居の向こうにいたはずの彩陽が、忽然といなくなっていた。
「彩陽? 彩陽!」
急いで周囲を見渡す。が、影すら見当たらない。音もなく、前触れもなく、彩陽はどこかへ消えてしまった。
一体何が起こってる。どうしたっていうんだ。
夜の学校は不気味なほど静まり返っている。というより、空気がガラリと変わった。この黒い鳥居が現れてから──。
「!」
黒い鳥居の方を振り返った、その瞬間。
それと、目が合った。
鳥居の向こう側。門になっている場所が、そこだけ違う世界のように深い闇に沈んでいて。
その闇の中に、黒い髑髏が浮かんでいた。長い髪を揺蕩わせながら、まるでこちらを見つめるように。
その真っ黒な眼窩から、目が離せなくて。脚が竦んで。息の仕方も、忘れてしまって。
恐怖で身体が硬直したわずかな時間。見えない力が俺を引っ張って──なす術もなく、鳥居の向こう側へ吸い込まれてしまった。