第二話 同棲
レンタルビデオショップで時間を潰していたら、いつの間にか日が暮れてしまっていた。新作映画のDVDが入荷していないかとうろうろしていたが、なかなか観たいものがなく、人も減ってきたのでなんとなく帰ることにした。
今はサブスクが主流らしいが、映画は月額を払ってまでたくさん観たいものはないし、ビデオショップの雰囲気が好きだからレンタルで済ませている。ただ、音楽は別だ。月額を払うだけで豊富な種類や数の曲が聴けるし、いちいちCDを入れ替える面倒もない。適当に再生しているだけで好きな曲や気になるアーティストが増えるというのは、結構便利だ。
──さて、今日の夕飯は何かな。
なんて考えているうちに家に着いた。そして、薄暗い闇の中で、一点の赤い火がほのかに夜を照らしていた。
「禁煙したんじゃなかったの、爺ちゃん」
「ん? おう、夏翔」
夜の庭でタバコを喫っていたのは、父方の祖父でありこの家の主──俺の爺ちゃんだった。ごま塩頭をポリポリと掻きながら、笑顔でこちらに手を振ってくる。
「遅かったな。おかえ──ごほっごほっ!」
思い切りむせながら、爺ちゃんは口から鼻から煙を吐き出す。やれやれと、俺はその背中をさすってやった。
街は静まり返っている。夜のとばりが少し肌寒い。
「ったく……声がでけぇって、一応禁煙してる身なのにバレたらどうすんだ」
「二度と喫わないって約束したのはそっちだろ。彩陽にバレたらまたどやされるぞ」
「へへっ、大丈夫大丈夫。怒られたらそのときだし、禁煙するのは簡単だからな。ワシはこれまでに四回成功してる」
「それ四回失敗してるってことだから。もう聞き飽きたよそのセリフ」
何度繰り返したかわからないやりとりに辟易しながら、つい口の端から笑みが漏れた。爺ちゃんと話していると、気を遣わなくていいというか、いつでも自然体になれる。
俺に両親はいない。幼い頃に亡くなった。今はこうして爺ちゃんの家で暮らしている。最初こそ寂しかったが、爺ちゃんはとても優しくて、まるで悪友みたいな存在で、虫取りとか野良猫の手懐け方とか、いけない遊びも色々と教えてもらった。寂しさもそのうち忘れて、今ではすっかり爺ちゃんが俺の大事な家族だ。
生憎祖母の顔は覚えていない。俺が産まれて少しして亡くなった。爺ちゃんも当時は寂しかっただろうに、この家を守ろうと頑なに両親の世話にはならず、独り身を貫いた。祖母と同じ時間を過ごしたこの家が、今でも大事なのだろう。
だからだろうか、俺がこの家に住むようになってからはとても可愛がってくれて、大事な家族の一員として迎えてくれた。俺も、そんな爺ちゃんのことが大好きだ。
「それよりその頬の傷はなんだ? まーたいじめられたのか?」
「いじめられたんじゃない。喧嘩したんだ。売られた喧嘩は買うのが俺の信条なの」
「ははっ、一方的に殴られたんじゃ喧嘩とは呼べないんじゃねーか?」
「だ、誰も一方的に殴られたなんて言ってないだろ」
「お前のことだ。またついカッとなってやり返されたんだろ。お前は喧嘩っ早い割に弱っちいからな。でもそんなんじゃいつまで経っても彩陽ちゃんにカッコつけられねぇぞ」
「あ、彩陽は関係ないだろ!」
「──アタシがどうしたって?」
「「うわあっ!」」
鬼の居ぬ間になんとやら。振り返ると、腕組みしながら彩陽が苛立ちも露わに立っていた。そう、同じ高校の同級生であり、奉仕部の部長である、あの百舌川彩陽だ。
彩陽はずんずんこちらに歩み寄ってくると、呆然と立ち尽くす爺ちゃんの手から強引にタバコを取り上げ、手にしていた灰皿に押し潰す。
「健康! ちゃんと守ってくれないと困りますおじいさま!」
「へ、へい!」
力の抜けていた爺ちゃんの背筋が、ピンと伸びる。思わず俺も姿勢を正した。
「居候の身であまり強く言えないですけどね、おじいさまには夏翔がいるんだから長生きしてもらわないと」
「すんません……」
「今度こそ禁煙してくれないと次からご飯はお肉抜きですからね。野菜だけですから」
「わかりやした……」
「はははっ、言われてやんの」
平身低頭する爺ちゃんを、他人事だと笑っていると。
「アンタもよ夏翔!」
「え⁉︎ なんで俺が?」
思わぬとばっちりを食らった。彩陽は顔面をぐいとこちらに近づけてくると、有無を言わさぬ口調で言い切る。
「おじいさまが禁煙破ってるのこれまで何度も黙認してたでしょ! 知ってるんだから!」
「それはほら、俺と爺ちゃんの仲だし……」
近い近い近い。顔が近いって。息がかかりそうなんだけど。
「お爺様に長生きしてほしくないわけ?」
「し、してほしい……です。これからは気をつけます……」
痛いところを突かれた。全く彩陽には敵わない。
「よろしい。あと夕ご飯できたから、二人とも早くうちに戻りなさい。今日は青椒肉絲よ。肉抜きの青椒肉絲にしたくなければ冷めないうちに一緒に食べること!」
踵を返して、彩陽はふんと家に戻っていく。嵐のような、すごく緊迫した瞬間だった。爺ちゃんと一緒にほっと胸を撫で下ろす。というか肉なしの青椒肉絲は青椒肉絲と言わないんじゃないの?
「肝が冷えた。ありゃ婆さんよりおっかない」
「お婆ちゃんってあんな風だったんだ……」
彩陽が、一体なぜこの家にいるのか。というより──なぜ俺たちと三人で一緒に暮らしているのか。それは話せば長くなるが、一言で言えば家出だ。彩陽には家にいられなくなったとある事情があり、それで唯一の友達だったという俺の家に逃げてきたのだ。それがおよそ三ヶ月前。最初は迷惑をかけて申し訳ないと萎縮していたのだが、やがて炊事洗濯などの家事を引き受けてくれるようになり、今ではすっかりこの家に馴染んでしまった。
それが彩陽との腐れ縁。学校では話せない、竜胆を除けば二人だけの秘密の関係だった。
「夏翔、彩陽ちゃんとはどうよ」
「どうって、見たまんまだけど」
「例の竜胆ってやつに押され気味か? 告白するなら先にしとけよ」
「こ、告白⁉︎ なに馬鹿言ってんだ! そんなことするかよ!」
そうだ。彩陽とはあくまで腐れ縁で、一緒にこの家に住んでいるだけで、何か特別な関係というわけではない。そう、あくまで腐れ縁。どうして俺が彩陽なんかに……。
「そうか? ワシには十分脈アリに見えるがな」
「……確かに彩陽は……か、可愛いし、優しいところもあるし……料理も上手だけど、俺には高嶺の花だよ」
あまり意識したことはないけれど、彩陽の容姿は学校でもトップクラスだ。事実、他の男子の人気も高い。困っている人を放っておけない優しい性格の持ち主で、とても女の子らしい面を持っていることも、これまで一緒に奉仕部の活動をしてきて十分伝わってきた。
でも、同じ屋根の下で暮らすようになって三ヶ月。何も進展がないどころか、異性として意識されたような素振りもない。だから俺もあまり意識しないようにしているのだが……。
「高嶺の花、ねぇ……ところで夏翔、お前がいじめっ子たちと喧嘩する本当のわけは──」
「もう二人とも! ご飯だって言ったでしょ! 冷めないうちに早く食べなさい!」
玄関から響いてくる彩陽の声に、思わずまた背筋が伸びる。爺ちゃんも同じだったようで、ついおかしくて笑い合った。
一緒に玄関の方へ歩く爺ちゃんに、「さっきは何を言いかけてたの」と問うと、冗談まじりに「また今度な」と返されるのだった。
× × ×
夕飯を食べ終えて、俺は自分の部屋に戻る。そのまままっすぐベッドの上にダイブした。
腹が重い。少し食べすぎたようだ。彩陽の料理は美味いからついついいつも食べすぎてしまう。青椒肉絲に肉がたっぷり入っていたから、今日はそれもあるのかもしれない。
──こんな毎日がずっと続いたら……いや、彩陽に申し訳ないか。
寝返りを打って、ぼーっと天井を見上げる。土壁の色褪せた、年季の入った手狭な和室。パチパチと音を鳴らす切れかけの電球。
俺の自室は彩陽のより少し狭い。彩陽はもともとお婆ちゃんが使っていた、半ば物置と化していた部屋を片付けて使用しており、俺のすぐ隣──壁を一枚隔てた向こうにある。古い家だから互いの生活音がたまに聞こえてくる。聞き耳を立てるような真似はしないけれど、聞こえてくるとなんだか安心する。ああ、すぐ隣にいるんだなと。
まだ部屋には戻っていない様子だ。食事の後は共同で食器を洗うから、今頃きっと爺ちゃんと駄弁っているのだろう。二人はあれでなかなか話が合う。
「っ……! 痛ってぇ……」
思わず頬の傷を触る。喧嘩の勲章にすらならない、敗北者の証。一方的に殴られた痛みが、まだズキズキ疼く。この世の理不尽への怒りが沸々と湧き上がってくる。
「あいつら、今度こそ絶対負かしてやる」
俺は理不尽なことがこの世で一番嫌いだ。
瞼がどんどん重くなってくる。身体がベッドに沈み込む。今日は奉仕部の活動もあったからか、今頃になってどっと疲れが押し寄せてきた。
まどろみに身を任せ──そのまま眠りに落ちてしまった。
『お、俺は知らねえぞ! そのガキが急に暴れるから!』
散らかった食卓。冷たい床。知らない男の叫び声。
男は狼狽えながら、震える手で一本のナイフを握りしめている。
ギラリと濡れ光る、真っ赤に染まったナイフを。
──あれ……たしか俺、刺されたはずじゃ……。
ぼうっとした意識で、目を覚ます。気を失っていたらしい。硬い床の感触に、なぜか自分が横たわっていると気づく。痛いところはどこもないけど、なんだか記憶が曖昧だ。
──たしか……さっきまで父さんと母さんが僕の誕生日を祝ってくれてて、それで……。
ようやく思い出した。今日は僕の誕生日で、父さんと母さんがお祝いのパーティーを開いてくれて、一緒にケーキを食べようとしたら──知らない男が、ナイフを持って現れたのだ。
ピンポーンと、あのときインターホンの鳴る音が響いて。母さんが玄関を開けたら、知らない男が母さんの首元にナイフを充てがって家に押し入ってきたのだ。金を出せと大声で叫びながら。僕は混乱して男に飛びかかって、それで──。
咄嗟に辺りを見渡す。ぐちゃぐちゃに潰れたバースデーケーキ。乱雑に倒れた椅子やテーブル。カチカチと秒針を刻む時計。
そして、見てしまった。
血の海に倒れる──父さんと母さんの姿を。
──ああ……あああっ……!
『こんなっ……殺すつもりじゃ……うわああああぁああああ!』
男が錯乱して家から飛び出す。僕はなりふり構わず二人のもとへ走った。
父さん。母さん。
どうしてこんなことに。
『か……ける……?』
か細い声に、不意に足を止める。血溜まりの中からこちらを見つめる、優しい、けれど生気のない目つき。声の主は、うつ伏せにうずくまる母さんだった。
『母さん!』
『よかった……生きてた、のね……』
急いで母さんの元へ駆け寄る。
生きてた。生きてくれていた。
死んじゃ駄目だ。絶対に。
『待ってて! いま救急車呼ぶから!』
『もう……助からない、わ……それより聞いて、夏翔……』
そっと。血まみれの手で、抱きしめられる。温かくて、けれど全く力の感じられない、弱々しい手だった。
『母……さん?』
『あなたは……すごく、優しい子だから……』
ただ、呆然と。母さんに包まれながら、その声を聞いていた。優しくて、静かな。静まり返った家の中で。その手から徐々に力が抜けていくのを感じながら。
『どうか……人の痛みが、わかってあげられる大人に……育ってね』
その手が、だらりと垂れ下がって──血溜まりに落ちた。
『母さん? 母さん……?』
冷たくなった身体に、何度も呼びかける。でも、答えは返ってこなかった。
母さんの体重を預かったまま、ようやく感情が現実に追いつく。そのぐちゃぐちゃの感情は、やがて声になって溢れてきた。
母さんが死んだ。違う、殺された。
『あ──』