第一話 知らない天井
〝……って……じゃない……添って、分かち合う……〟
誰だ? 誰の声だ?
頭の中で響くような声がして、俺──逢真夏翔はゆっくり目を開く。
眼前には真っ白な天井が広がっていた。でも、家の天井とは違う。それにやけに柔らかなシーツの感触。鼻をつく薬品と潔癖な匂い。
──そうか。ここは保健室か。
ずっとベッドで眠っていたのだろう。でも、どうしてだっけ?
「知らない天井だ……」
「なーにが『知らない天井だ……』よ。このおバカ」
声の方を振り向くと、知らない……いや、見知った顔がこちらを睨んでいた。百舌川彩陽──同じ高校のクラスメイトで、二年生に進級したばかりの頃知り合った腐れ縁の友達だ。
腰まで伸びたツーサイドアップの茶髪に、射抜くような鋭い吊り目、ムッと一直線に結ばれた唇。どうやら相当ご立腹らしい。ベッドの横の椅子に腰掛けながら、彼女は険しい表情をしていた。
でも、頭がぼーっとしているせいか、俺はそんなこと気にも留めなかった。
「お前、俺が寝てる間なんか言ってたか?」
「別に何も言ってないわよ。気を失ってる相手に話しかけるわけないじゃない。ていうか大丈夫? ひどい顔してるわよ、アンタ」
「顔? 痛っ……」
手で触れて、初めて気づく。頬にガーゼが貼られている。誰かに殴られでもしたのか、だいぶ腫れているようだ。保健室の先生が手当てしてくれたのか。いや、それ以前に。
──なんだよ、この顔……。
感触だけでわかるくらい、顔がくしゃくしゃになっていた。まるで今にも泣き出しそうな子供みたいに。それくらいみっともない顔をしていたのだ。
「なーに? もしかして怖い夢でも見たのー? ぷぷっ」
「み、見てねえし!」
からかう彩陽に、強引に顔を擦る。
「でもなんでだろ……よくわかんねえけど、とにかくお前に謝らなきゃいけない気がして」
「謝るよりそこはありがとうでしょ。誰が気絶したアンタをここまで運んだと思ってんのよ」
「気絶って……あー、だから保健室で寝てたのか」
「覚えてないわけ? アンタ学校に着くなりあいつに喧嘩売って殴り返されたんだから。それで鼻血出しながら気絶して、もうとっくに放課後よ」
そういえば、もう日が暮れかけている。あー、だんだん思い出してきた。
あれは今朝のこと。家を出て、いつも通りの通学ルートを行き、学校に到着した。それまではよかった。よかったのだが。校門に入ってすぐあいつに遭遇してしまったのだ。
その態度たるや。俺を一目見るなり鼻で笑って、取り巻きの女子グループの笑い話の種にしてきた。それでついムカついて突っかかったら『やれるもんならやってみろ』とばかりに火に油を注いで来、怒りが爆発した俺は果敢にも殴りかかった。そう、殴りかかったのだ。
ところが実際に殴られたのはこちらの方で、俺の拳は掠りもしなかった。正直、そこから先は意識が暗転して覚えていない。だがこうして保健室で眠っていたということは、完敗を喫したのだろう。
あの拳は、痛かった。
「くっそー! 思い出したら腹立ってきた! ちょっとリベンジしてくる!」
「待ちなさいったら!」
布団を勢いよくどけてリベンジに赴こうとした矢先、彩陽が声を張ってきた。
「アンタ今朝やられたばっかりなのに、今なら勝てるとでも思ってんの⁉︎」
「そ、それは、その……」
返す言葉がなかった。彩陽の言は正論だ。認めたくないけど。負けたばかりの相手に再び立ち向かって、今度こそ勝てる保証などどこにもない。同じ日に二度も負けたら失意のあまりどうにかなってしまいそうだ。
それに……。
「それにアンタ喧嘩っ早いくせに喧嘩に勝ったこと一度もないじゃない! 運動音痴でいつも負けてばっかだし、そんなだからあいつらに笑われんのよ!」
グサッ。言葉のナイフがもろに刺さった。一番気にしてたことなのに。
そう。俺は理不尽なことが許せない性格だとは自覚しているが、喧嘩に勝ったことはない。彩陽の言う通り、一度も。運動神経もゼロだし、勉強もできないし。要するに今朝殴られた相手にもいつも負かされてばかりなのだ。
「夏翔、ちょっとそこに正座しなさい」
「でもよぉ……」
「早く!」
「はっ、はい!」
つい気圧されて、急いでベッドの上で正座の体勢をとる。まったく彩陽には敵わない。きっと男を尻に敷くタイプだろうなと、内心で思った。
彩陽はこちらを睨みながら、ビシッと人差し指を突きつけてくる。
「いつも言ってるけど、勝てない喧嘩なら最初からしない!」
「はい」
「売られてない喧嘩なら買わない! 相手の思う壺なんだから!」
「はい」
「喧嘩っ早い性格を直すこと! 竜胆を見習いなさい!」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はい!」
思わず背筋が伸びる。相変わらず彩陽の説教には凄みがある。調子に乗ってしまったことを恥じて、だが俺は言わずにはいられなかった。
「けどよ彩陽……やっぱり俺は、理不尽なことがこの世で一番許せない」
「……わかってるわよ。そんなの」
気まずい空気が流れる。だがその沈黙は、無作法にも破られた。
「おうおうおう。相変わらずシケたツラしてんなぁ」
「お邪魔するわよー」
噂をすれば、だ。あいつ──剛田と、その取り巻きの女子グループがやって来た。今朝、いや、いつも俺をボコってくる張本人だ。見下すような薄ら笑いを浮かべて、ズカズカと保健室に入ってくる。
「どんなツラして眠ってんのか拝みに来たら……お前ら夫婦喧嘩でもやってんのか?」
「誰が夫婦よ!」
「誰が夫婦だ!」
ハモってしまった。取り巻きの女子グループの間からクスクスと笑いが漏れる。バツが悪くて、せめてもの抵抗に胡座をかいて剛田を睨み上げた。
「今朝はよくもやってくれたな!」
「弱っちいオメェが悪い。それとも今から二回戦目行くか?」
「おう望むところ──だはぁ!」
言い切る前に、横から彩陽が顔面にチョップを食らわせてきた。そのまま椅子から立ち上がると、剛田にぐいぐいと迫る。あの彩陽さん、すごく痛かったんですけど?
「ちょっと剛田! それが暴力を振るった相手への態度⁉︎ 謝罪の言葉はないってわけ?」
「こいつが先に殴りかかってきたんだ。正常防衛だろ」
「なんですって⁉︎」
「オメェも威勢だけは──ん、どうした?」
トントン。女子グループの一人……剛田と付き合っている彼女であり、実質この女子グループのリーダーである真田が、剛田の肩を叩いて耳打ちした。
「たっくん、それを言うなら〝正常〟防衛じゃなくて〝正当〟防衛」
「……お、おうそれだ。正当防衛な。それが言いたかった」
「だからって!」
彩陽はあくまで食い下がった。
「殴ることはないでしょうが!」
売り言葉に買い言葉。言葉の応酬を繰り広げる剛田と彩陽を、俺はただベッドの上から傍観することしかできなかった。彩陽は一度言い出したら聞かない。俺がここで口を挟んだら「アンタは黙ってて!」と叱られるのがオチだ。剛田の拳を受けるより、正直そっちの方が怖い。
男としては……すごく、複雑な心境だ。
「大体アンタ恥ずかしくないの? 何人も女子を侍らせて、数の力で逆らえなくして!」
「別に頼んでつるんでるわけじゃねぇよ。男として魅力溢れる俺が悪い。──なあお前ら、この俺よりそこの雑魚の方がいいか?」
クスクスと、あちこちから笑いが起こる。その嘲るような女子の視線は明らかに俺を向いていて。──畜生、見てんじゃねえよ。
その嘲笑がよほど心地よかったのか、剛田は自信満々な態度で彩陽に迫った。
「オメェだって本当は、そこの雑魚より俺と一緒にいたいんじゃねぇの?」
言いながら、剛田は彩陽の顎をクイっと指で持ち上げる。あの野郎、ふざけた真似を──と思ったのも束の間、彩陽はその手を軽く払い除けた。
「夏翔とアンタみたいなのを一緒にしないで」
「……後から懺悔しても遅いからな」
彩陽……。内心、安堵を禁じ得なかった。もし愛想を尽かされていたらどうしようかと。
「たっくん」
再び、真田が剛田の肩を叩く。
「それを言うなら〝懺悔〟じゃなくて〝後悔〟」
「……お、おうそれだ。後悔な。それが言いたかった。……つーかかさっきからうるさいんじゃ! わかってるわそれくらい!」
「ていうか百舌川」
逆上する剛田を尻目に、真田が彩陽に詰め寄った。
「あんた、自分の立場弁えてる?」
「……っ!」
ここに来て初めて、彩陽が困窮した様子を見せた。なんだ、立場って? 一体何の話をしている? そう思っていると。
「うーっす。だいぶ賑やかなことになってんな」
「「竜胆!」」
第三の男が現れた。西河竜胆──一ヶ月前この学校にやって来た転校生で、俺の数少ない友達の一人だ。いつも冷静で、喧嘩も強く、これ以上ないほどの頼れる味方。
「竜胆様だ!」「竜胆様!」「きゃー! こっち向いて!」
女子グループの間から、黄色い歓声が湧き起こる。竜胆はそのクールな性格と整った容姿から女子の間で人気が高い。転校してきてまだ一ヶ月だというのにもう何人もの女子から告白されたという噂だ。……だが取り巻きよ、お前たちはそれでいいのか。案の定、剛田が睨みを送り、みんな気まずそうに押し黙った。
竜胆が歩を進める。サッと女子グループが道を開け、剛田と彩陽の間に割って入った。彩陽の身を庇うように、剛田の前に立ち塞がる。
「よう剛田。うちの夏翔が世話になったみてーだな」
「へ、へっ! そっちが勝手に喧嘩売ってきやがったんだ。自分の身を守って何が悪い!」
「身を守った、だと。殴ったの言い間違えだろーが。急に弱腰になりやがって。さっきまでの威勢はどうした。まさかお前……ビビってんのか」
「び、ビビってなんか! お前なんか怖くねえ! オラ一発食らえや!」
怒りに任せて、剛田は竜胆めがけて拳を振り上げる。その拳が顔面を振り抜こうとした──寸前、剛田の身体が宙に浮いた。
「へ?」
間抜けな声が保健室に響く。剛田の身体はそのまま宙を舞い、勢いよく吹っ飛んだ。一体何が起こったのか──竜胆は、剛田の拳が顔面に当たる寸前にその腕を鷲掴みにし、勢いを利用して逆にその体躯を投げ飛ばしてみせたのだ。
さすが竜胆。頼りになる。そう感心すら覚えていたら。
「グガァ!」
「ぎゃああああっ!」
剛田がこちらに降ってきた。腹部にもろに落下し、思わず叫び声が漏れる。竜胆が投げ飛ばした体躯が運悪く命中したようだ。痛ぇ。すごく痛ぇ。
「くっそー! これで勝ったと思うなよ!」
そう言い残すと、剛田は俺のことなど意にも介さず取り巻きを連れて去っていった。ついでにもう一度俺の腹を踏みつけて。後には俺と彩陽と、竜胆の三人だけが残された。
「ふー……やっと帰ってったわねあいつら。やっぱ頼りになるわ竜胆は。誰かさんと違って」
「おう、いつでも駆けつけるから任しとけ」
俺を置き去りにして話を進める二人。ねえ、さりげなく俺のことディスってない?
「なあ竜胆、さっきの本当に偶然か? わざと狙ってやってなかったか?」
「なに馬鹿言ってやがる。偶然に決まってんだろ」
「そうよ。被害者ヅラはやめなさい」
示し合わせたように、似たような答えを返してくる彩陽と竜胆。
──こいつら、浅いところで俺のこと舐めてやがる。いつかぎゃふんと言わせてやる……。
結局、この日はなんだかんだで下校となり、三人一緒に帰途についた。