第六話 鮮烈な悪夢
深夜の住宅街を、足早に歩く。
追われるように。逃げるように。
吐く息は白く、指先はふるえている。
──何が、どうなってる……? ここはどこだ? 彩陽はどうなった?
目に入ったのは、星明かり一つ届かないまっくらな夜空。住宅に囲まれたまっすぐな道。カチカチと明滅をくり返す、切れかけの街灯。
そんな人気のない深夜の住宅街を、なぜか自分はひたすら歩いているようだった。
わけがわからない。思考がうまく回らない。
俺はさっきまで夜の学校にいて、彩陽と話していて、そしたら急に黒い鳥居が現れて──。
──まさか、ここが鳥居の中?
こんな場所見たこともない。来たこともない。なのに自分の身体はさっきからずっと歩き続けている。自分の意思とは無関係に。
──くそっ。止まれよ。言うこと聞けよ俺の身体!
焦燥感と、言い知れない恐怖だけがつのる。
そう。気づいた時からこうだった。俺はなぜか深夜の見知らぬ住宅街にいて、そこを歩いて──いや、歩かされているのだ。謎の強制力によって。
ここはどこだと視線を動かそうとしても、立ち止まろうとしても、俺の身体は全く言うことを聞いてくれない。
それだけでは、ない。
足取りは何かを急ぐように。呼吸はせわしなく。心臓は早鐘を打っている。
まるで誰かに追われているように。逃げるように。
身体の緊張はやがて心にも伝わってきて、本当に逃げているような、先を急いでいるような気分になってきた。
まるで──。
──ちっ。自分の身体じゃないみたい……だ……?
視界の端をカーブミラーがよぎり──そこで、ようやく気づいた。
自分が髪を肩まで伸ばし、スカートを履いて、女物のバッグを持っていることに。顔が全くの別人に──女になっていることに。
まるで、ではない。本当に、自分の身体は別人のものになっていたのだ。
驚愕に、わずかに瞳孔が開くのがわかった。
信じられなかった。目を疑った。まさか自分は変身でもしたというのか。
いや、ちがう。これは。
──ありえない……この女の身体に、俺自身がとらわれちまってる!
今こうして動いているのは俺ではない。この知らない女の身体だ。その身体が動くままに、自分の意思は逆らえずにいるのだ。魂を置き去りにして、心だけ憑依しているかのように。
混乱した。頭がおかしくなりそうだった。
そもそもこの女は誰なんだ。なぜこんな深夜の住宅街を歩いているんだ。架空の人物か。それにしては五感があまりにリアルすぎる。この女の感情にまで支配されてしまいそうだ。
──こいつ、さっきから何をそんなにこわがってるんだ。
女の足が、ふと止まる。
やっと止まってくれたかと、安堵した。
が。
女の足音に遅れて、背後から、不審な足音が止まるのが聞こえた。
──まさか。
肩がびくりとはねる。爪先がかすかにふるえる。呼吸が不規則に乱れ、視界が揺らいだ。
女が何から逃げているのか、やっと理解した。
いったい何から逃げているのか。何を恐れているのか。
大声を上げようとしても、喉が動かない。振り返ろうとしても、びくともしない。
女の恐怖心に、心が呑まれるのがわかった。
──逃げろ逃げろ逃げろ!
願いが通じたのか、最初からそのつもりだったのか、女は走り出した。
脇目もふらず、ただまっすぐに。
しかし恐怖ゆえか、足は強張ってなかなか速度が出せない。
背後からすかさず足音が追いかけてくる。ドタドタと無遠慮に、獲物を決して逃すまいとするかのごとく。
理解した。女はストーカーか通り魔から逃げているのだ。その気配のせいで身体が恐怖に支配されているのだ。
女は──いや、俺は走る。ただひたすらに。
ここがどこなのか、なぜこんな目に遭っているのかはわからない。ただ、背後の恐ろしい気配に捕まれば最期ということは、本能的に理解した。それがこの女の身体であっても。
息が乱れて、喉が裂けそう。口腔が乾いて、からまった唾液が気持ち悪い。
背後からは乱暴な足音と荒い鼻息が迫ってくる。その距離は徐々に近づいてきて、あと少しで追いつかれそうだった。
嫌だ。死にたくない。
悪い夢なら早くさめてくれ。
漠然とした恐怖心は今や死への恐怖へと変わり、背中を突き立てていた。
住宅街を駆け抜ける。迷路のような入り組んだ道を彷徨う。
どれだけ長いこと走っただろう。やがて息切れを起こし、もう体力は限界だった。
一旦立ち止まって、膝に手をつく。呼吸を整えながら、おそるおそる後ろをふり返った。
誰も、いない。
怪しい足音も、聞こえない。
ほっと、安堵のため息をついた。
ひとまず逃げ切れたようだ。
『きゃあっ!』
女の発した声に、思わず怯む。
顔面にアスファルトの硬い衝撃。鼻先から広がる鈍い痛み。追跡者に肩を掴まれ、その反動で顔面から思い切り地面に倒れてしまった。
物陰に隠れていたのか。とうとう、追いつかれた。
命からがら上体を起こす。すると追跡者が強引に両腕を掴んで覆い被さってきた。頭を地面に打ち、追跡者に上から見下ろされる格好となる。
『どうして! ど、どうして僕から逃げるのォ!』
汗や、涎や、鼻水を垂らしながら、すさまじい形相で男は叫ぶ。女の、否、俺の身体は生理的にそれを拒もうとした。だが男の腕力は鉄のように固く、恐怖にふるえた腕では敵わない。
『あ……あなた、誰なの……私、知らな……』
初めて聞く女の言葉に、少しだけ冷静さを取り戻す。どうにか逆転する方法はないか。身体に囚われているなら、逆に乗っ取れやしないだろうか。それなら力では勝てなくても頭なら回るのに。
『し、知らないィ⁉︎ とぼけるな! 嘘吐き! 嘘吐きィ!』
脂ぎった髪の毛を振り乱しながら、男は叫んだ。
『君はぼ、僕の運命の人ォ! 結ばれる運命なんだ! ずっと一途に見てきたのにィ!』
『最悪……あなたなんか知らない! お願いだから放して!』
両腕の自由を奪われながら、じたばた暴れる俺の身体。
頼む。思い通りに動いてくれ。
この男は正気じゃない。
『さ、最悪……? 最悪⁉︎ なっ……ぁ……ああああぁあああッッッ!』
己の顔面を掻きむしりながら、狂気に揺れる男。
両腕が自由になった隙に、そーっと身体が起き上がり始める。そうだ。いいぞ。このまま逃げるんだ。
かすかに希望の光が見えた。
『……君は僕の……ぼ、僕の運命の人なんだ……それがわからないなら…………永久にッ、永久に僕のモノにしてやるぅうううううううう!』
『うっ……』
──え?
腹部に、鈍い衝撃。内臓をなでる冷たい感触。
おのずと手が、そちらへ動いて。
手の平を見ると。
──なんだよ、これ。
真っ赤に染まっていた。生温かく濡れ光る、血によって。
『あああぁああああああああああああああ!』
『ぐっ……うごっ……っ』
ドス。ドス。ドス。ドス。ドス。ドス。
男が何度もナイフを突き刺してくる。胸に、首に、腕に、脚に。
痛みは遅れてやってきて、鋭利な刺突の感触が全身に伝わった。内臓を突き、骨を砕き、肌を破る感触が、冷たい痛みとなって全身を襲った。
痛い。──痛い。
──だれ、か……たすけ……。
血飛沫が上がる。上体がのけ反る。助けを求めて右手が虚空をさまよう。目が虚ろになって、視界がぼんやりとしてくる。思考が、うまく回らない。
自分の身体じゃないはずなのに、ナイフは鮮烈な痛覚となって俺を襲った。
『ずーーーっと! 僕のッ! 僕だけのモノなんだッ!』
そのうち、耳まで聞こえなくなってきて。全身から体温が抜け落ちて。
血の海の中で、やがて視界が──暗転した。
意識を手放す直前、彩陽の顔が浮かんでは消えた。