終
春の麗らかな空気の中に、ハラリ、ハラリと音もなく桜花が散っていく。
庭先の大きな枝垂桜が音もなく花弁を散らしていく様を視界の端で捉えた敦時は、口元に小さく笑みを浮かべると手にしていた三方をコトリと濡縁に置いた。伏せられた杯が二枚置かれた三方は、酒と肴が出るのを待つばかりとまでに整えられた座の真ん中に少し誇らしそうに収まっている。
「円座良し、杯と器良し、酒と肴は厨に準備済み、式の配置、良し」
ひとつひとつを指差し確認した敦時は顔一杯に満足の笑みを広げた。
「あとは時臣の到来を待つばかり!」
主上の御幸は、二日前につつがなく終了した。好天と盛りの花に恵まれた御幸は、それはそれは素晴らしいものであったという。
一時は『神泉苑に昼夜を問わず鬼が出る』という噂が流れ敢行が危ぶまれた御幸だったが、久木宮親王とお付きの陰陽師が無事にその鬼を退けたという話が怒濤の勢いで宮中を駆け巡り、御幸は当初の予定通りに行われた。
蓋を開けてみれば準備の日と御幸の当日は鬼どころか不審者や粗相を働く者さえ出ることはなく、御幸はいつになく平穏かつ素晴らしいものになったという。花の季節は天気が崩れやすいというのに天候さえもが御幸を祝福するかのように穏やかで、『今上帝は神々までをも従えておられる』と崇敬の念を強くされるほどだったとか。
──まぁ、『神さえをも従えておられる』っていうのは、今上帝ではなくて時臣の方なんだけどもね。
あの夜、宮中に急いで参内した時臣と敦時は、それぞれ持てる手段を全て使って神泉苑へ人の立入りを禁じる触れを出した。そのおかげで翌日から神泉苑を訪れる者は絶え、時臣は善女龍王と交わした約定を果たすことに成功した。
念のために敦時は御幸の前と終わった後、どちらも神泉苑に人払いの結界を展開しているのだが、その結界も必要なかったかと思うくらいに神泉苑に立ち入ろうとする者の気配はない。時臣が出した触れはそれだけ効果絶大だったということだ。
つまり御幸の成功はほぼ時臣のおかげであり、今上帝は特に何もしていないわけで。時臣に向けられるはずである賛辞がすべて今上帝に向いていることが、すべてを知っている敦時には少々面白くなかったりする。
──時臣自身はいつものごとく、全然気にしてないんだろうけども。
むしろ、今上帝への賛辞を聞いて喜んでいるくらいかもしれない。『そうだろう、そうだろう』と言ってニコニコと笑う時臣がたやすく想像できてしまう。
──天候に恵まれたのだって、時臣の誠意に感じ入った善女龍王が授けてくれたものだっていうのにさぁ……。そもそも時臣が鬼を退治したっていう事実は公表されてるのにさぁ……。何っでみんな時臣自身を褒めてくれないのかなぁ……。
敦時は最近ずっと思っていることを再度思ってぷぅっと頬を膨らます。
だがその頬はすぐにペシャリと空気が抜けた。
──ま、いいんだけどさ。僕と、善女龍王を始めとしたヒトならざるモノ達は、ちゃんと真の功労者を知ってるわけだし。
そんな時臣のために、敦時は本日、ねぎらいの席を設けることにした。酒は敦時秘蔵の極上物、肴はなんと善女龍王の眷属達がこの屋敷まで直々に届けに来たイワナである。夕餉も色々用意したから、今日の時臣には先日の分まで心ゆくまでゆったりしてもらうつもりだ。
──『主様より天子様へはくれぐれも宜しく』……とはね。善女龍王は、よほど今年の花を堪能したらしい。
そんな主兼幼馴染が誇らしくもあり、人のみならず神までをも誑し込むその人徳に溜め息をつきたくもなる。
──お付きの僕は、ほんっと気が休まらないよ、毎回。
それでも、この場所を誰かに譲りたいとは思えない。
それはきっと、誰よりも敦時自身が、時臣に誑し込まれているからなのだろう。
──『時』さえ『臣』御方、だからね。
案外、今度大旱魃が起きた時には、高名な御坊や陰陽師が加持祈祷をするよりも、時臣に頼んで善女龍王に話をつけてもらう方が効果的かもしれない。
……などと考えた瞬間、敦時の意識の端に式の反応が伝わってきた。今日こそは時臣に門を自力で開けさせなくてもいいように、時臣が通りそうな辻々には敦時の式が配置されている。その一体の前を時臣が通過したということだ。
「お出ましだね」
次々と式が反応を示してくるが、その速度がやはり尋常ではない。今日も馬か、と察した敦時は、パチンッと指先を軽く鳴らした。
その瞬間、屋敷の門の向こうで馬のいななきが轟いた。同時にその背に乗った人物が驚きに声を上げたのを聞いた敦時はしてやったりと笑みを浮かべる。
「敦時! 何で俺が来るって分かったんだ!?」
そのまま濡縁で待っていれば、聞き慣れた早い足音とともに待ち望んでいた人物が顔を出す。元から驚きを浮かべていた顔が、用意された一席を見つけてさらに驚くのを見て取った敦時は、実に陰陽師らしい笑みを浮かべてみせた。
「君のことなら、何となく分かるさ」
もしも来てくれなかったらこちらから遣いを出すつもりだった、なんてことは言わない。『来るはずだ』という確信があったわけではなく『来てくれたらいいな』という願望の下に用意をしていたのだということも、でもなんとなく来るなら今日だろうなと予想がついていたことも、敦時はあえて言葉にはしない。
ただ微笑んで、こう言うだけだ。
「なにせ僕は、君専属の陰陽師だからね」
「ああ、知ってるぞ」
そう言えば、時臣が打てば響くように、嬉しそうに笑ってそう答えてくれることを知っているから。
「この間は鬼の騒動でゆっくりできなかったからな! 今日は存分に飲むぞ!」
「はいはい、ほどほどにね」
敦時は手を叩くと用意していた式達に宴の開始を命じる。
そんな二人の姿を、麗らかな日差しの中、音もなく舞い散る桜花だけが見つめていた。
【了】