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女子高生に蕎麦を奢らされる話  作者: 塩谷 純也
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辛酸をなめて恩人を『火種』と呼ぶに至る

夏ですので、ホラーを書いてみようと思います。しかし「ジャンルは恋愛ではないか」と皆様は思われることでしょう。

ホラーとは登場人物が何らかの脅威に直面して、その脅威に恐怖する状況が描かれているものをいうのだそうです。

主人公が得体の知れないものに恐怖慄く様を読んでいただければ幸いです。


時間がある時に時々執筆します。十中八九変な話です。どうぞよろしくお願いします。



朝の通勤電車。窓から映る保育園。その保育園の中庭で遊んでいる子ども達の姿が見えてきます。楽しそうに遊ぶ彼ら彼女らを眺めていますと「労働を尊い物だ」と言い出した者の首を絞めたくなります。

学生時代に学んだ知識によれば、この呪詛に似た言葉は、宗教改革前後のキリスト教が持ち出したものだったはずです。「貧困は怠惰より生み出される」とか何とか。タブーたる怠惰を源としたものを狂信者が認めるわけもなく、その反対である労働を尊いものとしたのです。

世界で一番人を殺めた宗教の考えは、今日においても人を殺し続けていると言えましょう。とんだ邪教だ、と私は声を大にして言いたい。


ああ、心が荒んでいます。

これは労働だけが原因ではありません。おおよその原因を占めていることには相違ありませんが、現代日本において「労働は国民の義務である」と小中高大学とで洗脳的な教育を受けてきた私の心を、今更荒立てるには及びません。

思考の変化には、ほんの少しですが火種が必要です。火種。ええ、火種です。


通勤経路の停車駅。私の乗る電車は各駅停車で、その駅ごとに人の乗り降りがあります。その中に交じり、火種、いえ火種さんが乗り込んできたのでした。



■□■□   □■□■



その火種さんは、私の降りる駅の2つ後の停車駅近くの高校の制服を着ている女生徒の姿をしています。乗り込んで来るや否や、目線の合った私に声をかけてきます。


「今日は痴漢と間違われていらっしゃらないようですね。安心致しました」


自身が通りやすい声をしている自覚があろうと思われます。その上での声かけです。怪訝な顔をして私の周囲にいらしたご婦人方が移動されていきました。

これはれっきとした名誉の棄損ではなかろうか。

空いたスペースにこれ幸いと移動してくる火種さんは、とても良い笑顔で挨拶をしてきます。無視は致しません。挨拶は大事であると古事記にも書かれているそうですし。


「君の軽はずみな発言で、私の社会的な信用度が些か低下しているようなのだが。思慮深いお嬢さんならどういう風に考えるかな」

「肥満体型の40歳は、その外見だけで社会的信用度を十分に低下させています。頭髪の薄さの要素はないようなので大丈夫ですが、如何せんその見た目です。私の発言での低下など誤差の範疇です。おじ様」


・・・・・・。私以外にもだいぶ刺さっているようです。見ず知らずの女子高生に通り魔的に言葉のナイフで刺されれば、頭よりも心にくるものがあるのでしょう。項垂れている該当者が見当たります。

時代が時代であればおそらくは手をあげていたかとも思いますが、平成の世でそれはコンプライアンス違反です。ぐっと耐えるのです。


それに、この火種さんは私を社会的信用の低迷の危機から救ってくれた恩人でもあり、強い態度には出れないのです。



■□■□   □■□■



1週間前の私は、痴漢の冤罪で駅員に取り押さえられそうになっていました。


いつも通りに仕事をし、いつも通りに帰路に着き、薄暗い田園風景を電車の窓から見ていました。何も変わらない日常。家の冷蔵庫には発泡酒がまだ残っていたかな、とか考えていたくらいです。


いつもと同じように電車から出たのですが、その日は変化がありました。

見ず知らずの女性に「この人痴漢です」と金切り声を浴びせられたのです。


最初、自分のことと思わなかった私が周りを見回していますと、今度は知らない男性に肩を掴まれる始末。「なんだ、何事だ」と抵抗をしていますと次々に人の手が加わり、『振り返ってはいけない小径のチープトリック』のように身動きがとれなくなったのでした。騒ぎを聞きつけた駅員がやってきて「この人が痴漢ですか?」と声をあげました。


とっさに頭をよぎったのは、『ショーシャンクの空に』でした。

痴漢を疑われたならば「やっていないことを証明しなくてはいけない」つまりは未知証明をしなくてはならないと聞いたことがあります。本来であれば「お前が犯人だ」と証拠を集めて罪が追求されるのが証明責任です。しかし、弱者保護なのかはわかりませんが、痴漢に関しては立証責任が転嫁されてしまうのです。

「法的原則を無視した悪魔の証明をさせられる」そう考えた私は強く強く抵抗したのでした。



「その方は関係ありませんよ」

この時に救いの手を差し伸べてくれたのが、この、火種さんでした。


「その方、死んだ魚のような目でずっと窓の外を見ていました。そちらの女性とは方向が逆でした。また、ずっとつり革につかまっていらっしゃいました。お触りになるには、距離があられたかと思います」


・・・・・・。一部酷いことを言われているな、とは思いつつも、垂れている蜘蛛の糸をわざわざ切りにいくことは致しません。ただ黙って頷き続けます。


「なんでそんなことが分かるんですか?」

火種さんの言葉に対して駅員が問いかけます。


「だってその方、本当に酷い猫背でしたの。それに加えての、それはそれは虚無な視線でしたので目に付いたんです。もうこの世界に未練なんかないんじゃないか、というくらいの澱みに満ちた目でしたので、もしかしたら次の駅で降り、そのまま次の電車が来たタイミングで駅ホームから身を投げ出すんじゃないかって。そう思う程の酷いお顔をしていらっしゃいました。死相と言っても過言ではないのではないかいう面構えでした。ですからずっと気になって見ていたんです」


・・・・・・。普通につり革に掴まっていただけなのに、なんと酷い言い草なのだろうか、とも思いましたが、この言葉かけと左手に掴んでいた鞄が私の無罪の証明となったのでした。

痴漢をされた女性の方は、私に謝罪の言葉を放った後、女性の鉄道警察官とともにどこかへと移動していかれました。私のスーツの一部をほつれさせ、皺だらけにした善意の協力者達も気づけばいなくなっていたのでした。



残ったのは、疲労感と

「おじ様、何かお忘れではありませんか?」

火種さんでした。


「まだお礼の言葉をいただいていませんよ」

初対面ながらしっかりと見つめ、言い放つ彼女に定型文なお礼の言葉を伝えます。


しかし

「本当なら1つ前の駅で降りるはずでしたが、心配でしたので。予想とは違うことがおきましたが、いずれにせよ私は、おじ様にとっては恩人という扱いを受けてもよろしいのではないでしょうか」

と火種さんはおっしゃられます。積極的に恩を着せに来る。「誠意を見せろ」というヤクザまがいな要求を遠回しにしてきているのです。


「とりあえずで構いません。そこのお蕎麦屋さんなんていかがでしょうか」



こうして初対面の火種さんに、駅ホームの立ち食い蕎麦屋の丸天蕎麦を奢らされたのでした。

立ち去り際、彼女は「今日のところはこちらで大丈夫です。また美味しいもの宜しくお願いしますね」と言い放ち、反対方向へ電車へと乗って消えていったのでした。



■□■□   □■□■



それからというもの、時々ですが帰宅の途中に火種さんが同車両に乗り込んできた際には謝礼の名目での蕎麦の奢りが発生しています。先週から数え3回。1回1回は380円(丸天蕎麦)、420円(かしわ蕎麦)、350円(月見蕎麦)と安く済んでいるのですが、如何せん出費は出費。少しずつ財布が蝕まれている事実は変わりません。


労働で得た給与が、社会的信用の損失や不必要な裁判費用、解雇に伴う収入の激減で失うはずであった金額と比較するまでもなく余りあるベネフィット側であるにしても、火種さんへの謝礼に消えていく。理不尽。さながら当て逃げされた様。

かと言って路線を変えて火種さんとの接触を回避するのも、なんだか負けた感じがしますし、何より電車通勤での会社からの通勤補助が大きいのです。変えられません。


そんな私の精神下の葛藤を知ってか知らないでか。

「おじ様、お仕事頑張られてくださいね」

と火種さんに後押しされて、電車を降ります。

今日も会社に向かいます。ああ、今日も仕事です。嫌だなぁ。本当に嫌だなぁ。



この話のちょっとした解説。


自殺についてインターネットを検索すると、複数の文献がヒットします。

引用件数が多いものをピックアップしていきますと、だいたい同じことが書かれています。

例えば、Shneidman氏。「自殺の動機は精神の痛みであり、痛みの回避方法として自殺が選択される」のだそうです。罪の意識、心配、孤独感、年老いていくことへの恐怖などがその痛みに当てはまるのだそうです。また、Beck氏は「深い絶望が人を自殺に追いやる」と説いています。


一方で、Kleiman氏は「宗教的なつながりを持つ人間は67%自殺を踏みとどまる」と報告しています。宗教観に乏しい日本人はそのブレーキ構造が少ないと言えるでしょう。

近年では、推し(idol/偶像)という偶像崇拝が目立つようになってきています。これらはある種、信仰でもありますので、推しのイベントに参加する習慣がある人は自殺しにくいと言えます(宗教的なイベントを24回以上参加しているとリスクが低下するとの報告ですので、握手会に頻回に参加しているなどが当てはまるのでしょうか)。



さて翻って、主人公。孤独で老化が見え隠れする風貌。日本人ですので特定の信仰というものもなさそうだし、絶望を表情筋で作り出しているようなおじさんです。火種さんが勉強熱心な女学生であれば、どのように見えたのでしょうか。

おそらく「ここで見て見ぬふりをすることは、きっと後で悔むことになる」とか思ったのではないでしょうか。初対面の冴えないおじさんに声をかけてくる女子高生なんていうものの背景を考えるに、これくらいの精神的構造が必要なのだと思います。


主人公は火種と呼んでいますが、大変良い子なのかもしれません。



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