それぞれの飛翔①
陽介は病室の扉をノックした。
「入るよ」
扉を開けると、雪輝がワイシャツの袖のボタンを留めているところだった。
「どうした?」
やや驚いた顔で雪輝が振り向く。
「どうした、って。今日退院でしょ? 見送りだよ。莉々亜ちゃんは研究室の仕事に忙殺されてるみたいで来られないから、僕だけで申し訳ないけど」
陽介は扉を閉めて、几帳面に整えられたベッドに腰掛けた。
「一人で行くつもりだったの?」
「そのつもりだった」
「また千鶴に怒られるよ。周りを見ろよ、って。僕のこと忘れないでよね。僕も怒っちゃうんだから」
陽介が頬を膨らませると、雪輝は笑った。そして小さなクローゼットから鞄を取り出し、荷物の整理を始めた。
「千鶴は?」
「まだ動けないみたい。酸素マスクは外れたけど、頭痛が酷いから要安静だって」
「ROP代謝は止まったのか?」
「うん。完全に通常の代謝に移行したって」
「それはよかった。あれは結構きついからな」
そう言う雪輝も、動けるようになるまでに三日を要していた。
ROP代謝による体内で発生した熱と、冷却システムが満足に働かなかったファルコンに蓄積された熱とで、搬送時の体温は千鶴と共に四十二度を超えていた。
四十二度を超える異常高熱は脳に障害が出る恐れがあるのだが、幸い雪輝も千鶴も異常は見られなかった。
それでも過度の高熱は冷めても体に倦怠感と痛みを残し、雪輝はそれから回復するのにさらに五日間の入院が必要だった。
「雪輝はもう大丈夫?」
「ああ。体もずいぶん軽くなったし、違和感もない。頭痛もなくなってすっきりした」
その言葉通り、雪輝はとてもすっきりした顔をしている。陽介はそれが嬉しかったが、少し悲しくもあった。
「陽介、この前は荷物を持ってきてくれて助かった。手続きが面倒だっただろ」
「ああ、それくらい気にしないでよ」
雪輝の入院中、陽介は雪輝に頼まれて雪輝の私物をここへ運んでいた。それには面倒な手続きが必要だったのだ。
雪輝の部屋は立入禁止となって警察の管理下にあった。雪輝の私物もまた然りで、それを本人に届けるとなると、それが本当に雪輝の手に渡っても問題ないか審査が必要だったのだ。
「こっちこそ早く持ってこられなくてごめんね。なかなか許可が下りなくて」
「仕方ないさ」
雪輝は小さく肩をすくめた。そして、一冊の雑誌を差し出した。
「これを千鶴に渡してほしい」
陽介が受け取ったのは、千鶴がたまに読んでいる天文雑誌だった。
「暇つぶしに雪輝が読むやつかと思ってた。最初から千鶴への差し入れのつもりだったの?」
「いや。それにしては古いだろ?」
「あ、ホントだ。去年の雑誌だ。しかも五月号」
外ではもう夏の風が吹いている。表紙に書いてあるような春のこと座流星群もとっくに通り過ぎた。
「去年の春、千鶴と流星を聞いたんだ」
「聞いた? 見たんじゃなくて?」
「ああ」
雪輝は夏用の薄手のジャケットを羽織った。
「伝言も頼んだ。『ありがとう』って。莉々亜にも」
陽介は「わかった」と頷いた。
すると、雪輝は「そう言えば」と身支度の手を止めて顔を上げた。
「パンドラはどうなった?」
「ひとまず月で保管中らしいよ。ここからは綺麗に見えるのに、もうただのゴミ捨て場だね」
陽介が肩をすくめると、雪輝は肩を落としてわずかに嘆息をもらした。
「月は世界の永世共有地だ。そんなところに一国の事情であんなものを置いたら、しばらくは諸外国からのバッシングが続きそうだな」
「悪いのは雪輝じゃないよ」
陽介は語気を強めに言ったが、雪輝は「それなりのことは覚悟してるさ」と軽く笑って流した。そしてまた真顔に戻る。
「それで、佐古は?」
「ちゃんと捕まったよ。どうなるかまでは知らないけど、多分一生牢獄からは出られないだろうね。捕まったとき奇声あげて笑ってたみたいだよ」
「驚くほど簡単に想像できる光景だな」
雪輝は苦い顔でそう言うと、陽介が言いにくそうに切り出した。
「ねえ、雪輝……。雨宮景は、いつから死ぬつもりだったのかな」
葉山家の情報網により、陽介は今回の件の全容を把握しているようだった。
全てが中途半端だった今回の件。雨宮景の明晰な頭脳があれば、こんな終わり方をするはずはなかった。陽介でさえ悟れるほどに、この件は不自然な呆気なさで締めくくられてしまった。
「最初からだろ。潔癖すぎたんだよ、あいつは」
この世界の汚職や不平等に耐えきれず、武力でそんな世界を正そうとした養父。しかし彼はそんな自分も許せず、結局王手を自ら引いた。
「だから手駒を揃えてギリギリまで攻めたのに、肝心の一手を躊躇したんだ。悪者になりきれなかったんだよ」
そんな自分の甘さまで見越して、雪輝を育てていた。『貴い希望』という名前をつけて。遅くとも、雪輝を引き取りそんな名前をつけた頃には、すでに己の甘さを自覚していたのだ。
それでも計画を進め続けたのは、それもまた彼の潔癖による意地だったのだろう。
雪輝は掛け時計を見上げた。
「時間だな。俺はそろそろ行くよ」
それは日常の中でこぼれる他愛ないセリフであった。しかし次に振り返った雪輝のまっすぐで穏やかな眼差しは、今雪輝の前にある現実を物語っていた。
「陽介も、ありがとう」
雪輝はせっかく整えた荷物を置き去りにしたまま扉に向かった。陽介は雪輝が荷物を持っていけない理由を知っているので、代わりに自分が持つことにした。
「これは僕が預かっておくから」
「ああ、悪いな」
雪輝が扉の前で立ち止まると、代わりに外から誰かが扉を開けた。入ってきたのは、ずっと雪輝の病室前で待機していた三人の黒スーツの男たちだった。
「もう準備はいいか?」
「はい」
雪輝はそう答えると、両腕を差し出した。カチャリと手錠がかけられる音が聞こえる。
繋がれた両手を見下ろして、雪輝は嬉しそうに微笑んだ。
「もう自由なんだな」
ぽつりとこぼれたその言葉に、陽介はぐっと涙をこらえた。
「荷物は預かっておくだけだから」
陽介は続けた。
「捨てられたくなかったら、ちゃんと受け取りに来てよね!」
「そうする」
その笑顔は、今まで見たことがないくらいに清々しい。
「ここまででいいよ。俺はもう自分で歩けるから」
そう言って、雪輝は警察官に引き連れられて病室を出た。
陽介は雪輝を追って廊下まで出た。
雪輝は堂々と廊下を進んでゆく。あのぶんなら、手錠など大したことはないだろう。どんな刑罰や逆境が彼を待ち構えようとも、きっとそれを乗り越える力はすでに備わっている。あの時通信回線から聞こえてきた千鶴の言葉は、雪輝の心にも確かに響いていたはずだから。
「僕も雪輝も、君に助けられてばかりだ。笑顔を絶やさず必死に前を向くその姿に、僕らはいつも憧れて勇気をもらってるんだよ、千鶴」
廊下の角で雪輝の姿が消えた。それを見届けながら、陽介は静かに微笑んだ。




