火星の記憶④
雪輝が立ち止まっているところへようやくたどり着くと、雪輝はあろうことか目の前の鉄格子の中に入ってしまった。
ここに入ってこいと言わんばかりに視線を投げかけてくるので、千鶴は脳が締め付けられるような感覚を堪えて檻の中に足を踏み入れた。
「ゴールだ、千鶴。その状態でよくたどり着いたな」
「こんなところへ連れて来て……一体なんのつもりだ!」
「わかるだろ。俺たちの生い立ちを教えてやってるんだ。お前だって知りたかったんだろう。そうでなきゃ、その文句はもっと早くに出てるはずだ。記憶を閉じ込めるほどの恐怖がありながら、自分への好奇心もしっかり持っている証拠だよ」
見透かすような笑みを浮かべる雪輝から千鶴は目を反らした。
ますます血の気が引き、悪寒も強くなってゆく。記憶が蘇ったわけではなかったが、自分の中の奥深くから何かが引きずり出されようとしている感覚が気持ち悪かった。
「思い出せ千鶴。ここがお前の部屋だった。俺は覚えてる。俺はお前の隣だったんだ」
鉄格子で区切られた隣の檻に一瞥だけくれて、雪輝は続けた。
「あの疑似母体装置で生まれた俺たちには、学習とテストの繰り返しの日々が待っていた。机にかじりつく勉強だけじゃない。メインは身体能力で、心理的な訓練もあった。従順で身体能力が高く、知能指数が高ければなお良し。理想の個体を選ぶために、俺たちは常に何かを評価されていたんだ。そのために俺たちは『恐怖』によって常に限界以上を発揮するようコントロールされていたってわけだ。お前の中に巣食ってるそれはその名残だろう」
歯がガチガチとなるのを千鶴は堪えていた。どうして同じように育った雪輝はそんなに平気なのか。
その千鶴の思考を見抜いたかのように、雪輝は言った。
「でも俺はちょっと異質な個体だった。知能指数が群を抜いて高かったんだよ。だから俺はすぐにこの選抜システムに気づけたんだ。能力を高めて勝ち残れば生き残れる……そして俺に備わっている能力はこの知能だってこともな。だから恐怖で操られることなく、自ら進んでこの能力を高めることに専念したんだ」
千鶴とは対照的に、雪輝はこんな場所で笑みさえ見せる。
「誤解するなよ。お前が劣ってると言いたいわけじゃないんだ。お前はお前ですごかった。俺は知能だったが、お前は身体能力でトップだったんだからな」
得意気に言い放った雪輝であったが、雪輝のその笑みはすぐに消えた。
「あの日は丁度、俺の引き渡しの日だったらしい」
雪輝は檻の外に目を向けた。そこにあるのは廊下を挟んだ反対側の鉄格子の部屋だけだったが、雪輝の目はまるで過去を見ているようだった。
「あの日、急にここが騒がしくなった。鉄板を突き破るようなとんでもない音がして、銃声も聞こえた。扉を破壊して防衛官が強行突入してきたんだよ」
千鶴ははっとして顔を上げた。
目を向けたのは雪輝と同じ方向だった。そこには寂れた鉄格子だけのはずだったが、千鶴の目に映っていたのは鮮明なあの日の光景だった。
あの日、このフロアの扉は破られた。それと同時に流れ込んできたのは、武装した防衛官だった。濃紺の戦闘服に身を包み、銃を構えていた。
千鶴はその時も、いつものように必死に鉄格子の扉を叩いていた。
「ここから出せ!」
何度もそう叫び続けていたのを覚えている。そして防衛官は千鶴の願いを叶えた。この鉄格子の鍵を壊して扉を開け、震える千鶴を抱き上げたのだ。背中を優しく撫でてくれたことで安心し、千鶴は気を失った。
「そりゃそうさ。こんな非人道的な実験、誰もが見て見ぬふりできるわけがない。誰かの良心によって俺たちの存在は密告され、そしてお前は助けられた」
「雪輝は……?」
千鶴は雪輝の据わったエメラルドの目に視線を合わせ、胸を押さえながら声を絞った。
「ここが騒がしくなったとき、俺はお前より一足先にこの檻の中から出されていたんだ。スーツ姿のビジネスマンが『助けに来たよ』と優しい笑顔で迎えにきたのさ」
雪輝はおかしそうに言ったが、その目は乾ききっていた。
「その言葉を何年も何年も、俺はずっと信じ続けていたよ。あいつは俺を連れてここから逃げる途中、強行突入真っ最中の研究所を上空から俺に見せたんだ。『僕が助けなければ、君はあそこで死んでいたね』なんて言いながらな。俺も幼かったからまんまと騙されたよ。だからずっと信じてた。助けられたのは俺だけだった。生き抜くために頑張ったから助かったんだ、ってな。……でも、本当は、俺だけが助けられなかったんだ」
あきらめのような吐息をついて、雪輝は続けた。
「そのビジネスマンってのが星間運送会社コズミックアークのCEO、雨宮景だ。トロージャン・ホークなんていうバカみたいな名前の組織を立ち上げて、反社会的な活動をしている。そのトロージャン・ホークの私兵を作るために俺を買ったのさ。後から知ったが、あいつはこの研究に多額の出資もしていたし、そもそも受精卵の密輸を担当していたのはコズミックアークだったんだ」
「雪輝が、トロージャン・ホークの私兵……!」
「実際のところは私兵のオリジナルだ。あいつらは俺の能力をクローン技術で大量生産しようとしたんだよ」
千鶴は夜の野原で襲って来た者たちを思い出した。陽介が覆面を剥ぎ取った顔は、全員同じ顔で、雪輝にそっくりだった。
千鶴は目を細めたが、雪輝は鼻で笑った。
「あいつら馬鹿だからな。遺伝子が同じなら全て同じになると思っていやがる。環境やその人間の努力なんてのを考慮してないのさ。だから気づいてないんだよ。あの私兵たちは赤い鳥を飼っていない抜け殻だってことにな」
「赤い鳥――!」
千鶴は目を見開いて反芻したが、その後に襲ってきた悪寒をぐっとこらえた。
「やっぱり……雪輝にも赤い鳥が見えるのか……?」
雪輝は「ああ」とすんなり頷いた。
「俺もここで生まれた赤色人種だからな。炎のようにゆらめくキレイな鳥だろ?」
「どうしてそんなに平気なんだ! 赤色人種は赤い鳥の幻覚で苦しむはずだ!」
千鶴はその姿を思い出しただけでも怖くなるというのに、雪輝は平気で赤い鳥の話をする。それは赤色人種らしからぬ余裕だった。
「それもここで解決したんだよ」
雪輝は自分のこめかみを人差し指で叩いてみせた。
「俺だってあれには苦しめられたさ。でもどうしたらあの発作を抑えられるか考え続けた。そしてある時気づいたんだよ。発作を抑えたいなら、あの鳥ごと抑え込んでしまえばいいんじゃないかってな」
「抑え込む……?」
よく理解できなかった千鶴に、雪輝は説明を加えた。
「要はイメージトレーニングの繰り返しだ。赤い鳥が暴れないように足枷をつけて鳥籠の中へ閉じ込める。そのイメージを何度も何度も繰り返す。そうしたら、ほら……」
千鶴を覗き込む雪輝のエメラルドの瞳は、みるみるうちに真っ赤に染まった。
千鶴の手からヘルメットが落下した音がフロアに響いた。
短い悲鳴が喉を擦ってゆく。千鶴は固まった体で必死に後ずさった。
だがわずかに下がっただけで、すぐに背中に壁が当たる。そして金縛りにあっているように体は硬直し、呼吸すら切れ切れになった。
「飼いならせば、これくらい自分でコントロールできるようになる」
雪輝はその赤い瞳を見せつけるように、さらに千鶴の顔を覗き込んだ。
「やめろ!」
自分の中の赤い鳥が目覚めてしまいそうで、千鶴は必死に叫んだ。
「なんだ、まだこんなものに怯えてるのか」
雪輝は赤い目で笑う。顔を反らそうとする千鶴の額を片手で抑えると、雪輝はさらに千鶴の目を覗き込んだ。
「千鶴、お前もそろそろ赤い鳥を飼いならせ。いつまでそんなものに怯えてるつもりだ」
「放せ! その目で見るな!」
力の限り叫んでも、雪輝の手はますます力が入り、後頭部は壁に押し付けられた。
赤い目が千鶴をとらえる。
「赤い鳥を飼い慣らせば、発狂することなくROP代謝のオン・オフを自在に操れるようになる。自由に目の色を変えられたらそれができる証拠だ。そうなれば、人口ROPシステムも完全に制御できる」
雪輝は「つまり」と、笑みを浮かべた。
「赤い鳥を飼いなすことができれば、次世代戦闘機を簡単に乗りこなせるってことだ」
目は赤くなっているのに、千鶴には考えられないほど雪輝は冷静だった。
千鶴は呼吸すら乱れて辛いのに、雪輝は千鶴の頭を押さえたまま続ける。
「飼いならせばあの鳥は意外と使える。知らないだろうから教えてやるが、あの鳥はエネルギーの塊みたいなものなんだ。あの鳥を操ることができれば、自分に備わった力を増幅させることだってできる。うまく制御できれば自分に有利に使えるようになるんだ」
そこまで言うと、雪輝はやっと手を離した。
「意外と便利だろ? とうだ、少しは飼い慣らしてみようって気になったか?」
千鶴は解放されたが、体は全く動かなくなっていた。もう押し付けられていないはずなのに体は壁に張り付いていた。
やっと首を動かして自分を見下ろすと、体は赤い炎のようなものに取り巻かれ始めていた。
「あ……ああ!」
千鶴は驚いて両手を見下ろした。手から、体から、赤い炎が噴き出している。
「わああああああっ!」
千鶴は目を真っ赤にして恐怖に絶叫した。パニック状態に陥った千鶴は雪輝につかみかかろうとしたが、雪輝は千鶴の手を避けた。
「おい、聞いていたか? 足枷をつけて鳥籠にぶち込むんだよ」
しかし千鶴にその声は届いていなかった。雪輝は千鶴の手をすり抜けて鉄格子の部屋を出た。そして鉄板の扉を閉めた。
千鶴は閉ざされた扉に飛びつき、一心不乱に叩いた。
「開けろ! 開けろっ! 外に出せっ!」
真っ赤な目で叫びながら扉を叩き続けた。雪輝はそれを眺めているだけだった。
「お前は忘れているようだが、俺はお前の両手の傷の理由を知ってる。お前は昔もそんな風に外に出せと叫んでいたよ。両手が骨折して変形するほど扉を叩き続けながらな」
鉄格子を隔てて、雪輝は必死に扉を叩く千鶴を冷静に見つめていた。
「千鶴、その扉は押すんじゃない。鍵が壊れている今は、引けば簡単に開く」
しかしそんな雪輝の言葉は、もう千鶴には届いていなかった。千鶴は呼吸すらままならない状態で、ただひたすら扉を叩き続けていた。
雪輝は静かにもう一度ため息をついた。
「お前は十年経っても変わらないな。最後の望みだったのに、残念だ」
雪輝の瞳はエメラルドに戻っていた。雪輝はうつむきがちに踵を返すと、鉄格子の中に千鶴を置き去りにしたまま、来た道を戻り始めた。
千鶴は雪輝が去ったことにすら気づかず、鉄格子を叩く自分の手や腕が真っ赤に燃え上がるのを見て、再び壁にぶつかるまで後ずさっていた。
冷たい炎が自分の体を、魂を、自由を、全てを焼き尽くすようだった。
もう悲鳴の断片がこぼれ出るだけで、叫ぶことすらできない。
千鶴の中に巣食っている赤い鳥の幻覚は、出てくるたびに千鶴の意識を乗っ取ろうとする。自分ではない異質なものが自分の意識を外に追いやり、そうしてこの体の自由を奪う。
もしこの鳥に自分を明け渡せば、きっと自分は消えてしまう。そのとてつもない恐怖が千鶴を錯乱させていた。
鉄格子の小さな部屋で、千鶴はうずくまった。体は震え、奥歯はガチガチと鳴る。
赤い鳥が翼を広げた。
頭の中が真っ赤になって、千鶴はうずくまったまま意識を手放していた。




