赤い目①
「千鶴君、どうしたの!」
不安げな莉々亜に「静かに」と声を落とした。
発砲音の方向を考えると、複数、五人前後に囲まれていると推測できた。長距離狙撃用ライフルではない可能性が高い。音はしないが人の気配は近くにある。
どういうわけか、その気配が幻覚症状を煽っているように感じられた。気配に感覚を研ぎ澄ませると、内側に潜む冷たい炎の勢いが増すのだ。
「寒い……」
呼吸を震わせる千鶴に「大丈夫?」と莉々亜が尋ねてくるが、肯定はできなかった。
「近づいてくる……。早くここから離れないと……!」
すぐそこには乗ってきたバイクが停めてある。けれども一本松の陰からわずかにでも出たとたんに撃ち抜かれることは明白だった。
だからといってここにとどまるわけにもいかない。相手は確実に近づいてきているのだ。
千鶴は思考が幻覚に乗っ取られそうになるのを抑えながら、必死にこの状況を打開する方法を模索した。もし完全に幻覚症状が出てしまえば莉々亜を守れなくなってしまうだろう。
悪寒と共に激しくなる動悸を抑えるように、千鶴は胸を押さえた。
その時だった。短い悲鳴や人の倒れる音が野原の奥から立て続けに響いた。次いで、野原を風のようにすり抜ける足音が発砲音と共に急速に近づいてくる。
千鶴は咄嗟に莉々亜を守るように構えの姿勢をとった。
そして――暗闇の野原から滑り込んできた黒い影が、千鶴の目の前に立ちはだかった。それはアサルトライフルを抱えた黒い戦闘服の男だった。
「遅くなってごめん! 敵の位置をつかむのに手間取って!」
黒ずくめで、小柄ながらも腰回りにハンドガンを提げて防弾スーツを着込み、ゴーグルと覆面で顔は隠されている。まるでどこかの特殊部隊のような装いだ。
「誰っ――!」
莉々亜が声を上ずらせた。
「莉々亜、大丈夫だ。心配ない」
千鶴は大きく安堵の胸をなでおろした。
黒ずくめの男は肩から提げていたアサルトライフルを後ろに回し、両手を挙げて敵意がないことを示してから、ようやくゴーグルと覆面を外した。
「僕だよ、僕。脅かしちゃってごめんね」
緊迫した状況に似つかわしくない、にこやかな声だった。
「陽介君!」
驚愕する莉々亜に、黒ずくめの陽介はこの状況で「そうだよ」と笑う。
「このことは秘密ってことでよろしくね」
何丁もの銃をまといながら、ウインクさえしてみせる。険しい顔をしている自分の代わりに、陽介は莉々亜を安心させる役に徹しているのだと千鶴はすぐ理解した。
「陽介、助かった。一体どういう状況なんだ、これは」
その問いに、陽介は真顔になって答えた。
「わかっていることは道中話すよ。今はとにかくこの場を離れたほうがいい。とりあえずこの辺にいたやつらは全員撃ったつもりだけど、ショック弾だから気絶してるだけだ。いずれ起き上がる。だから今のうちに櫻林館へ向かおう」
「陽介の家は?」
「葉山家は防衛省からの指示がないと役立たずだ。たとえ身内が危険にさらされても、防衛省命令じゃなきゃゴム弾の一発も撃たないよ。そういうところも冷徹だからね」
そんなことを言いながら、陽介は冷めた笑みを浮かべた。それは幼馴染の千鶴でも稀にしか見ることのない表情だった。
「千鶴、この無線と暗視ゴーグル使って。それからハンドガンも。ショック弾だからそのつもりで」
「助かる」
陽介に渡されたイヤホン型の無線機を装着し、ハンドガンを背中側のジーンズの隙間に突っ込んだ。ゴーグルをつけると暗闇の中の視界が一気に開ける。
続いて千鶴は急いでバイクのサイドカーを外しにかかった。取り外し可能な連結タイプをレンタルしていたのだ。サイドカーが付いたままでは咄嗟に思うような操縦ができないので、この状況では外すに限る。
千鶴がサイドカーを外している間に、陽介はゴーグルをつけなおして茂みの中に停めてあった漆黒のバイクにまたがった。エンジン音が極端に小さい軍用バイクだ。
遠くから別のエンジン音が近づいてくる。敵側の援軍のようだった。
「千鶴、急いで! 僕が後ろを走る」
「頼んだ!」
無線の声に答えると、千鶴は棒立ちになっている莉々亜に駆け寄った。
「莉々亜、ごめん!」
「きゃっ――!」
千鶴は了承を得ることもなく莉々亜を抱え上げると、そのままバイクに飛び乗った。あまりに危険なので後ろに莉々亜を座らせるわけにもいかず、莉々亜は横座りに千鶴と向かい合うように座らせた。不安定で申し訳ないと思いつつ、千鶴は操縦技術で補うつもりでいた。
千鶴はミラーにかけてあったヘルメットを払い落とした。
「しっかり俺に捕まって!」
エンジンをかけながら莉々亜に言うが、困惑した莉々亜が伸ばした腕は控えめに千鶴の腰に回されだけだった。
「もっとしっかり! 落ちるぞ!」
大声で言うと、ようやく莉々亜は千鶴にしがみついた。




