天体観測④
「ねえ。千鶴君は、ちゃんと『苦しい』って言えてるの?」
「……へ?」
「だって、さっき私に言ってくれたでしょ。苦しい時は苦しいって叫んで息抜きしなきゃって。千鶴君はちゃんとできてるの?」
しばし思考を巡らせて、千鶴は呻りながら首をひねった。
「苦しいってわけじゃないんだよな。だから苦しいとは言ってないけど……」
「自分のことに自信が持てないなんて、すごく苦しいことだと思うけど」
「このくらい全然苦しくないよ!」
莉々亜がとんでもなく重大に受け止めているようなので、千鶴は必死に弁解した。
「毎日大好きな空を飛びまわって、みんなで笑っていられるんだ。こんなに毎日がキラキラしてるのに、苦しいだなんて思ってたらばちが当たるよ!」
「本当に……?」
「本当に! さっき言ってたのは苦しいとかそういうのじゃなくて、喉に骨が引っかかってる感じかな。気にはなるけど、このくらい大したことないって!」
必死に言うが、莉々亜は納得しきれていない様子でこう言った。
「それなら、幻覚症状は完全に克服できたのよね?」
突然のその言葉に、千鶴はさっと血の気が引いて言葉を失った。
「昔、大変だったんでしょ? 今もこれからも、その苦しさはもうないんだよね?」
まるで莉々亜は肯定を懇願するように問い詰めてくる。千鶴は困惑していた。
「莉々亜がどうしてそんなこと……」
莉々亜は申し訳なさそうに目を伏せた。
「もしかして、花江先生?」
そう問うと莉々亜はわずかに頷き、「幻覚と闘って、大変だったって……」とぽつりとこぼす。千鶴は思わず立ち上がっていた。
「じゃあ、もう俺に近づかない方がいいよ。莉々亜もそう思っただろ」
「え……? どうして……?」
莉々亜の小さな声が聞こえた。それを振り切るように、千鶴は言った。
「だって、莉々亜の前でまたあんなのが出てきたらどうしたらいいんだよ!」
完全に克服できたと思っていた。あの日、格納庫での出来事がなければ。
千鶴は体をぎゅっと縮めた。
「自分で自分のことがわからなくなるくらいパニックになるんだ! あんなに優しい花江先生にだって、何度も手を上げたんだ……」
「でもそれは初等学生のときの話でしょ?」
「だからって、今もそうならないとは限らないだろ! 子供の手であんなに困らせたのに、今の俺が暴れたらどうなるんだよ!」
千鶴は歪みそうになる頭を押さえた。
「赤い鳥が……あれが出てきたら、俺が俺でなくなりそうになるんだ……! あれに全部乗っ取られたら、陽介のことも雪輝のことも……莉々亜のことだってわからなくなって、俺……」
「千鶴君!」
莉々亜の大きな声で、千鶴は我に返った。気が付くと手が震えて呼吸が上がっていた。いつの間にか目の前に立っていた莉々亜が、心配そうにこちらの顔を覗いてくる。
「ご、ごめん……」
千鶴は数歩後ずさって言った。
「千鶴君、ごめんなさい。私、全然気付けてなかった……」
莉々亜は地に視線を落として続けた。
「私、いつも明るく笑ってる千鶴君を尊敬してたの。陽介君が教えてくれたのよ。『赤色人種だって普通の人たちと全く変わらない。それを周りの人たちにわかってもらうために、千鶴はどんなときも明るく笑うようにしてるんだよ』って。だから私、いつも千鶴君のことを尊敬してた。どんな逆境が目の前にあっても、私も笑って乗り越えられる強さを身につけなくちゃって。でも……」
莉々亜は顔を上げて、大きな瞳で千鶴を見上げた。
「ずっと苦しかったんだね」
千鶴は莉々亜から目を反らした。
「もう苦しくないよ。薬で治まってるし」
「それならどうして怯えてるの? だって幻覚はもう治まってるんでしょ?」
莉々亜の問いは、千鶴でさえ意識していなかった部分を的確に突いていた。
「怯えてる? 何に……?」
千鶴はもう半歩退いた。体はそれで止まったが、意識はもっと後ろへ引っ張られてゆくようだった。その千鶴の手を莉々亜が握って繋ぎとめた。温かい手だった。その温もりで千鶴は気が付いた。
「……怖いんだ」
勝手に口からこぼれたその言葉を確認するように、千鶴はもう一度言った。
「怖いんだ。やっと手に入れたものがなくなることが、何よりも怖い」
自分でも気づいていなかった部分が、口をついてどんどん形を成し始める。
「こんなに毎日が楽しいなんて初めてなんだ。好きなことができて、友達がいて、みんなで笑って過ごせるなんて……。でも、そんなの一時の幻想なんじゃないかって思う。こんなのがずっと続くだなんて信じられないんだ」
千鶴は声が震えているのを自覚していたが、それでも止まらなかった。
「だって俺の普通は、幻覚で苦しくて、周りに嫌な目で見られる毎日だったから……。そんな毎日がきっとまた戻ってくる。いくら笑って過ごしてたって、赤い鳥が現れたら台無しなんだ! 幻覚そのものだって辛いけど、そんなことよりも、こんなに楽しい『今』を奪われるのが何よりも怖いんだ!」
言い切った千鶴の手を、莉々亜がもう片方の手を添えてそっと包んだ。
「泣かなくても大丈夫だよ」
莉々亜の声は優しかった。
「大丈夫。みんな千鶴君のそばにいるよ。誰も離れない。だってみんな千鶴君が好きだから。赤色人種だとかそうじゃないとか、そういうことは関係ないんだよ。みんなちゃんと千鶴君を見てる。たとえ幻覚の症状で千鶴君が自分自身のことを見失っても、私は千鶴君のことを見失わないから」
そして莉々亜はにこりと微笑んだ。
「だからね、大丈夫。そのくらいで誰も離れたりしないよ。だって私も陽介君も雪輝君も、千鶴君と一緒に過ごした楽しい時間を忘れることなんてできないから」
「莉々亜……」
動揺していた心が、莉々亜の声と言葉でなだめられてゆく。冷えた体が、まるで木漏れ日に溶かされるようだった。それはとても懐かしい感覚だった。
「ピクニックの時……」
千鶴は視線を落とした。
「あの時、すごく怖かったんだ。友達の誕生日をああしてみんなで祝えるのが初めてで、嬉しくて楽しくて仕方なくて……。みんなの笑顔を見ててふと思ったんだ。これが突然消えたらどうしよう、って。そう思うと怖くてたまらなくて……」
「あの時も怖くて泣いてたんだね。ごめんね、プラスの感情表現が得意だねなんて言っちゃって」
「莉々亜が謝ることじゃないって……」
なだめられていることが急に恥ずかしくなって、千鶴は涙を拭った。そんな千鶴に、莉々亜は優しく笑いかける。
「怖いっていう気持ちに気づいてたなら言わなくちゃ。ほら、『怖いんだ!』って叫んで息抜きしないと、人生やってけないよ」
「それ俺が言ったやつ!」
莉々亜は声を上げて笑った。それにつられて千鶴も笑った。
「やっと笑ったね」
しかし莉々亜はその笑みをすぐに消すと、真剣な眼差しで言った。
「お願いだから、その笑顔を失わないで。その笑顔も、千鶴君の大切な友達も、奪い去るのは幻覚じゃない。戦闘機よ」
思いがけない言葉に、千鶴は怪訝に眉をひそめた。
莉々亜は強い眼差しで続ける。
「千鶴君は大好きなそらを飛ぶためと、未来の安定や不安の払拭のために戦闘機に乗ると言ったわ。でも戦闘機は兵器よ。有事になれば命を懸けて戦うこともあるかもしれないし、誰かの命を奪うかもしれない。フェスティバルの時、それを垣間見たでしょう」
千鶴は鋭い莉々亜の言葉に息を飲んだ。
「今の理由じゃだめよ。戦闘機は他人のもそうだけど、千鶴君自身の全てを失わせる可能性がある。あれは空を飛ぶための道具じゃない。バルカン砲を、ミサイルを発射する兵器であることを忘れないで。それを知ってて乗り続けるのなら、今の理由じゃ納得できない。私が納得できないのもあるけど、何かあったとき、千鶴君が自分自身を納得させられないと思う」
張りつめた莉々亜の言葉に、千鶴はなだめるように言った。
「莉々亜、防衛隊は戦いを仕掛ける組織じゃない。軍隊じゃないんだ。日本からそういうところはしっかり受け継いでこの国があるんだ。戦力の不保持も交戦権の否認も、この国はしっかり守ってくれるよ。戦争のない国に戦闘機が戦場に出る機会なんてないさ」
だが莉々亜は納得しなかった。
「国を作ったのは人間よ。だからその国を変えてしまうのも人間なの。防衛隊が突然軍隊になったっておかしくない。そうならないなんて、どうして言い切れるの?」
今まで見たこともない莉々亜の強い眼差しに、千鶴はふつふつと湧き上がっていた疑問を投げかけた。
「どうして莉々亜が俺のこと、そこまで真剣に考えてくれるんだ?」
驚いた顔を見せた莉々亜は、うつむいて肩を縮めた。千鶴の手を包むその両手にも力が入ったのがわかった。
「だって、私……、千鶴君のことが好きだから」
その言葉は、とても悲しく重く響いた。




