天体観測③
「本当はね、櫻ヶ原大学にはいたくないんだ」
「どうして?」
「今所属してる研究室の研究テーマが合わなくて。研究の方向性がだいぶ変わっちゃって、やりたいことと全然違うことをやってるから、すごく苦しくて……」
「別の研究室に変えられないの?」
「できないんだ。私がいなくなると大変なことになっちゃうから」
莉々亜は笑っていたが、辛そうだった。
「自分のことを決めるのに周りに気を遣う必要ないって! たった一回きりの人生なのに、自分の生きたいように生きなくてどうするんだよ!」
千鶴はそう訴えたが、莉々亜は首を振った。
「それもわかるけど、そうするわけにもいかないの。確かに全てを振り切って逃げることもできるけど、私は逃げないって決めたんだ。とことん立ち向かってやろうって。……でも頭ではそう決めても、心はやっぱり苦しい。自分が決めた道だから本当はこんな弱音は吐きたくない。だって駄々をこねてるみたいだから」
莉々亜のくるりとした瞳は辛そうに揺らめいていたが、「それにね!」とあげた顔には、少し明るさが戻っていた。
「昔ね、ある男の子に言ったんだ。私の研究でその子の願いを叶えてあげる、って。そしたらね、もし実現できたら素敵なご褒美をくれるってその子も言ってくれたの」
「お、男の子……!」
引きつった声が出てしまった。
「そうよ。私に元気をくれた子なの。歳の近い友達がいなくて寂しかったとき、少しの間だったけど話し相手になってくれたんだ」
胸の奥がきゅっと詰まる感覚があったが、情けない嫉妬は振り払って千鶴は尋ねた。
「今の研究室で、その約束は果たせるの?」
莉々亜はわずかに沈黙を挟んで言った。
「研究自体は着々と進んでるけど、それは多分その子が望むものじゃない。だからもどかしいの。あそこでしか開発できないものなのに、研究の方向性には賛同できないから」
いつも朗らかに笑っている莉々亜が悩みを吐露するところを目の当たりにして、千鶴は素直に驚いていた。
「すごいな、莉々亜は。いつも誰かのことを考えながら苦しいことと闘ってたなんてさ」
莉々亜は「え?」と顔を上げた。
「俺が鈍感すぎたからかもしれないけど、莉々亜がそんな風に悩んでるなんて気づかなかったよ。だって莉々亜はいつも周りに笑顔を振りまいてくれるし、アクロバットショーを応援してくれたり、誕生日パーティーも企画してくれり、俺たちのことをいつも考えてくれただろ。自分が辛いときにそんなことはできないよ」
目をしばたたいている莉々亜に、千鶴は気恥ずかしく思いながらも尋ねた。
「覚えてる? 俺と莉々亜が初めて会ったときのこと」
「は、初めて会ったときのこと……?」
「ブルーバードにかわいい子がいるって噂になっててさ、どんな子なんだろうって俺も気になってたんだ。でも俺は赤色人種だし、かわいい子に嫌な目で見られたらさすがに辛いから、なかなかブルーバードに行けなかったんだ」
「そうだったの?」
目を丸くしている莉々亜に、千鶴は照れながら頷いた。
「あの日は暑くて、冷たいレモンティーが飲みたかったんだ。炎天下の訓練の後、自動販売機は売り切ればっかりでさ。恐る恐るブルーバードを覗いたら噂の子はいないみたいだったし、一安心してカウンターに向かったんだ。そしたら……」
カウンターの裏からひょっこり顔を出したのは、小麦色の長い髪の少女だった。
「びっくりしたよ。まさかカウンターの下に隠れてるなんて思わなかったから」
思い出したのか、莉々亜も一緒に笑った。
「私だって驚いたわ。お砂糖の袋を片付けて立ち上がったら、目の前に真っ赤な髪でエメラルド色の目をした男の子が立ってたんだもの」
「でも莉々亜はそんな俺に嫌な顔一つせず笑ってくれたんだ。『いらっしゃいませ。ご注文は?』って。そうやって普通に接してくれたことがすごく嬉しかったんだ」
「素直に素敵だなって思ったのよ。赤い髪もエメラルドの目も、すごく似合ってたから。だから緊張して間違えちゃったのよ、紅茶とコーヒーをね」
あの日、莉々亜に差し出されたレモンティーは黒かった。おかしいなと思って飲んでみると、レモン味の爽やかなアイスコーヒーが口の中に広がった。千鶴は「なにこれ、すっげぇ美味しい!」と叫んだが、気付いた莉々亜は顔を真っ赤にして慌てていた。
「美味しかったから結果オーライだよ。苦手だったコーヒーも飲めるようになったしさ」
莉々亜が恥ずかしそうに肩をすくめた。
「俺に笑顔と元気をくれたその時も、今言った悩みは抱えてたんだろ?」
話を戻すと、莉々亜の顔から照れ笑いはすっと消えた。
「ごめんな。ずっと近くにいたのに気付けなくて」
「千鶴君が謝ることじゃないのに……」
すっかり元気をなくしてしまった莉々亜に、千鶴は明るく言った。
「何がどう苦しいのか詳しくは知らないけど、そんな時も笑顔をくれる莉々亜はすごい! 俺だけじゃなく、雪輝も陽介も莉々亜にはいつも助けられてる。辛い時は自分のことで精一杯になるのに、そんな時でも誰かを支えられる莉々亜はすごく強いよ」
千鶴は大きな目をまたたかせる莉々亜に続けた。
「だから辛いことを辛いって言っても、駄々をこねてるだなんて思わないよ。むしろ時々『苦しいんだ!』って叫んで息抜きしないと人生やっていけないって! そう叫びたいときは俺が聞くから遠慮なく言ってよ。愚痴や弱音だなんて思わない。そうやって叫ぶのは強くあろうと立ち向かってる証拠なんだからさ」
大きな目をぱちくりとさせていた莉々亜は、ふと頬を緩めた。
「ありがとう」
莉々亜に笑みが戻ったので安堵していると、莉々亜は言った。
「やっぱり千鶴君は強いね」
その言葉に千鶴は一瞬口をつぐんだ。
「……俺は、強くはないよ」
本心だった。自分のことを強いと思ったことは一度もない。雪輝に見抜かれた通り、空元気で弱い自分を必死に隠そうとしている。
「どうしてそんな風に思うの?」と尋ねてくる莉々亜に、千鶴は声を落とした。
「自信がないんだ。小さい頃に周りにたくさん迷惑かけたから。今でも自分は人に迷惑をかけることしかできない人間なんじゃないかって思う。さすがにそれは極端な考えだって自覚はあるけど、どうしてもそう考えちゃうんだよな。だから全然強くない」
暗い顔で言うとますます沈みそうなので、千鶴は薄くとも笑みを消さなかった。
「千鶴君……」
莉々亜が辛そうに瞳を揺らめかせた。




