天体観測②
「火星とアンタレスが並んで見えるときは、不吉なことが起こるって言われてるんだ」
「不吉なこと……」
莉々亜が不安そうな顔をしたので、千鶴は「大丈夫だよ」と笑った。
「俺はそんなの関係なしにどっちも綺麗だと思うよ。こうして赤い星が並ぶ天体ショーを莉々亜と観ていられるんだから、むしろ幸運の星なのかも。天体観測はいつも一人でしてたからさ」
莉々亜は「そう言ってくれると嬉しいな」と微笑んだ。
「もしかして、千鶴君は火星に行きたくて航空宇宙防衛隊に入ろうとしているの?」
千鶴は「違うよ」とすぐに否定した。生まれた地ではあるが、愛郷心というものはない。火星での記憶はほとんどなく、いいこともなかったように思える。
「できれば行きたくないな。こうして見てるぶんには綺麗でいいけど、なんとなく行っちゃいけない気がするんだ。だから火星は見てるだけで充分だよ」
莉々亜が昼間の話の続きをしたがっているのは千鶴にはよくわかった。
千鶴は野原にシートを広げると、腰を下ろして寝転がった。視線の先には、無数の星が散りばめられた空が広がる。
「莉々亜もこうして見てみなよ。すごく綺麗に見えるから」
莉々亜が隣に腰を下ろしたのが、シートのたわむ音でわかった。
「本当。まるで宇宙に漂っているみたいね。星空に吸い込まれそう」
「だろ? 見上げるだけでこんなに綺麗なんだから、実際の宇宙はどんなに綺麗なんだろうって昔から考えてた。だから空も越えて宇宙に行って、戦闘機を自由に乗り回したい。これが櫻林館で空だけじゃなく宇宙でも飛べるパイロットを目指す理由かな」
「理由って……やっぱりそらが好きっていうだけなの?」
莉々亜は驚いているようだった。
「だめかな? 莉々亜に昼間聞かれてから少し考えたけど、やっぱり『そらを飛ぶのが好きだから』っていう答えしかないんだ」
莉々亜は気を落としたように静かに空に視線を戻すと、再び口を開いた。
「千鶴君にとって『そら』って何なの?」
そう問われ、千鶴も今一度星空を見上げた。
「俺にとってのそら、か……」
果てのない暗闇の中に無数の星がまたたいているのが肉眼でも見える。しかしその星は手の届かない、ずっとずっと遠くにある。今見ている星の光は、何千年、何万年も前に放たれた光。光の速度でさえそれだけの年月をかけなければこの目に届かないほど、あれらの星たちは遠くにある。
そんな途方もなく広いそら。昼間は吸い込まれるような青、夕暮れはとろけるような橙色。太陽が隠れて大気の奥がクリアに見えた時、その広大さを思い知る。
「俺にとって、そらは自由の象徴なんだ。苦しいことから解放されて体が自由になったとき、俺の真上には驚くほど綺麗な青い空が広がってた。まるで俺を迎えてくれてるみたいだったんだ。自由へようこそ、って。あの時の空がずっと忘れられないんだ」
千鶴は夜空に手を伸ばした。星に手など届くはずもない。
「頑張って背伸びをして手を伸ばしても、空には触れられない。でもどうしてもそこに行きたかった。空の広さを知るまで、俺はずっと息も苦しくなるような狭い世界しか知らなかったから。覚えてないけど、多分火星でもそうだった。だからこの広いそらに憧れたんだろうな」
「千鶴君らしいわね」
莉々亜がくすりと笑った。
「そう?」
「ええ。きっと自分の中にある可能性を押し込めておくことができないのね。広い場所でできること、やりたいことを思いっきりやる。それって、すごく千鶴君らしいと思うわ」
「そ、そうなんだ」
急に褒められて恥ずかしくなったので、千鶴は話を戻した。
「ある時偶然戦闘機のアクロバットを見て、人間でも鳥みたいに空を飛べることを知ったんだ。それで飛行クラブに入って、そこである程度飛べるようになったら今度は空を越えて宇宙にも行ってみたくなった。もっと高く、もっと広いところへ……。それを叶えるために櫻林館を選んだんだ。だからはっきり言って、防衛官がどういうものかっていうのは莉々亜が求めるほど真剣に考えてないかな」
正直に言うと、莉々亜はとても悲しそうな顔をしていた。どうして莉々亜がそこまでこの話題にこだわるのかわからなかったが、千鶴は少しでも莉々亜に理解してもらえるように付け加えた。
「でも櫻林館でなきゃならなかった理由はあるよ」
「櫻林館でなきゃならなかった理由……?」
できれば言いたくなかったが、千鶴は打ち明けることにした。
「防衛官学校は給料が出るからな。学費がいらないどころか、少しだけど収入があるんだ。ことりのいえみたいなところで育った俺にとって、それはすごく大事なことなんだ」
千鶴は小さく吐息をつくと、苦笑して続けた。
「初等学生の時にわがまま言って飛行クラブなんて入れてもらって、経済的に迷惑かけたからな。もし民間のパイロットになんてなろうと思ったらせめて高卒か大卒じゃないと無理だろ? 学費とかで迷惑かけたくないし、そもそもそんな頭もないし。でも櫻林館なら給料もらいながら高卒の資格までくれるんだ! すごいだろ?」
笑って言ったが、莉々亜は笑わなかった。
「俺、ことりのいえに返したいんだよ。俺がここまでくるのにかかったお金をさ。何の縁もないのに、俺をここまで育ててくれた。俺なんかを受け入れてくれた花江先生の優しさだけでも充分なはずなのに、飛行機にまで乗せてもらって……。与えられてきた何もかもを、あたり前だとは思いたくないんだ。感謝できなくなっちゃうし」
千鶴は土と草の香りのする瑞々しい空気をゆっくり吸い込んで、短く吐いた。
「それに、やっぱり不安なんだよな。俺みたいな根なし草、いつどこに吹き飛ばされるかわからない。ことりのいえに部屋を持っていられるのも十八歳までだし、そこから先は自分でどうにかしなきゃいけない。昔は色々あって『今』を生きるのに精いっぱいだったけど、余裕ができて『今』を見られるようになったら、次は『未来』が不安になる。そういう意味で櫻林館は防衛官の勉強をしながら空も宇宙も目指せるし、俺にとっては一石二鳥以上の選択肢なんだ」
首を傾けると、莉々亜が心配そうにこちらを見ていた。それを紛らわせるように、千鶴は笑って言った。
「莉々亜が不安に思う必要ないって。俺は俺でこうして楽しくやってるんだし、心配しすぎだなぁ」
そう言っても、莉々亜の顔は曇るばかりだった。
「千鶴君はすごいな。そうやっていつも笑って前を向いていられるなんて……」
莉々亜は上半身を起こすと、膝を抱えこんだ。
「私ね、悩んでることがあるんだ」
そう言ったきり黙りこくっているので、千鶴も身を起こして尋ねた。
「俺でよければ聞くよ」
莉々亜は「ありがとう」と力なく笑った。




