二枚の写真③
莉々亜はきしむ廊下を歩きながら、保育園から続く建物の中を見回した。
ずいぶん古い木造建築のようで、カラフルにペイントされていたであろう壁や窓枠もずいぶん塗装が剥げている。柱には身長を測った跡や落書きがあり、ほほえましい歴史が刻まれていた。
「莉々亜ちゃん、ここよ」
通された部屋は、そこらじゅうがキルトで飾られた温かみのある部屋だった。
机とベッド、洋箪笥やドレッサーが据えられ、小さなキッチンもある。洋箪笥の上にはぬいぐるみや子供たちにもらったであろういびつな折り紙の作品が並べてある。家庭的な温もりが溢れていた。
「わあ! とってもかわいいお部屋ですね!」
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいわ」
花江は微笑んで、部屋の片隅を手で示した。
「かばんはそこに置いてもらっていいかしら」
「はい!」
莉々亜は花江の言ったところにボストンバッグとポーチを置くと、何気なく振り返った。
扉側の壁一面には額に収められた写真がいくつも飾られていた。ところどころに花江も一緒に写っているが、全ては子供たちが主役の写真だ。
「すごい……! これ全部ここの子供たちの写真ですか?」
「そうよ。みんなかわいいでしょ」
花江は一枚の写真に歩み寄ると、それを指差した。
「千鶴君はこれよ」
それは元気いっぱいに笑う赤い髪の少年だった。
滑走路で停止している小型飛行機のコックピットから半身を出し、大きく手を振っている。十歳前後の頃のようだが、すでにパイロットスーツを着こなしている。
「こんなに小さい頃から飛行機に乗ってたんですね!」
「ほんの一瞬アクロバットショーを見ただけなのに『あれに乗るんだ!』って聞かなくてね。飛行クラブに入れてあげたら、すぐにそのくらいの小型機なら簡単に乗り回すようになっちゃったのよ。インストラクターさんもびっくりだったわ」
花江は懐かしむように言うと、別の写真の前に移動した。
それはことり保育園の中庭で撮られた集合写真だった。手前に保育園の小さい子供たち、奥に初等学生から高等学生くらいまでの大きな子供たちが並び、右端に花江と他の職員たちが立っている。
「飛行機に出会う前の千鶴君がこれ」
花江が指差したところ、前から二列目の一番左端に、赤い髪の少年が立っていた。
驚くほど体は細く、カメラなど見向きもせずに気だるげに視線を落としている。一度も見たことがないその暗い表情に、莉々亜は言葉を失っていた。
「この頃は本当に大変だったわ。周りの私たちも千鶴君自身も、まだ千鶴君のことがわからなくて。みんなが手探り状態だったから、きっと千鶴君も疲れ果ててたのね」
「それは……どういうことですか?」
花江は「聞いてくれるのね。ありがとう」と母親のような笑みを見せた。
「その前に紅茶を入れるわね」
莉々亜を小さなソファーに腰掛けるよう促してから、花江は備え付けの小さなキッチンに立った。
「火星研究所事件のことは知ってるわよね?」
「はい……」
「火星で救助されてから、千鶴君はいくつもの養護施設を点々としてたのよ。千鶴君だけじゃないわ。きっと他の赤色人種の子供たちもそう。火星で救助され、麗櫻国各地の養護施設に送られて、やっと人間らしい生活ができるはずだった。でも赤色人種の気性に施設側がお手上げ状態。それで千鶴君もたらい回しにされていたの」
花江はキッチンで手を動かしながら続けた。
「他にも、赤色人種は火星の病原菌をまき散らすから危険だっていう根拠のない噂を信じた周辺住民から苦情が来て、他の施設に行かせざるを得なくなったりね。酷いものよ。もちろんそんな理由を施設側が小さい子供に直接言うはずないけど、なんとなくわかるものでしょ? 幼かった千鶴君はちゃんと理解してたわ」
花江はそういう話でも微笑みを崩さない。その笑みがこの話はすでに乗り越えた過去であると語っているが、莉々亜は耳を傾けるのが怖かった。
花江はティーポットとティーカップをソファーの前のローテーブルに置き、莉々亜の向かいのソファに腰掛けた。
「千鶴君がここに来たのは八歳の時。千鶴君にとっては三つ目の施設。希望も何もなかったでしょうね。どうせまた他のところに回されるって思うはずだもの。でも、そこにいたのは新米養護教員の私! 絶対なんとかしてみせるんだって、何をしたらいいのかもわからないのに私はすごく張り切っていたのよ」
花江は恥ずかしそうに笑った。
「とても素敵なことだと思います。誰もやろうとしなかったことですもの」
「ありがとう」
肩をすくめて微笑むと、花江はティーポットの紅茶をカップに注いだ。
花江から手渡されたカップからは、湯気と共に華やかな香りが広がる。
「でもいざ千鶴君を迎えてみると大変! こののどかでのんびりとしたことりのいえに竜巻が来た感じ!」
花江は紅茶を一口飲むと、莉々亜に尋ねた。
「赤色人種特有の赤い鳥の幻覚って知ってるかしら?」
「はい。赤色人種は赤い鳥の幻覚を見ることが特徴のひとつだと聞いたことがあります」
花江は頷いた。
「その通りよ。でも私はね、特徴というより症状と言うべきだと思うの」
「症状……?」
「あれは壮絶よ。何もないところで突然赤い鳥がいるって叫び出して、可哀想なくらい怯えて暴れるの。綺麗なエメラルドの目を真っ赤にして震えるから心配になって手を差し伸べるんだけど、そんな手は振り払われちゃって、落ち着くどころか余計に刺激しちゃって……。かといって放っておくなんてできないでしょ。そういうことがものすごく頻繁にあるものだから、なんとかしなくちゃって思ってね。私はへとへとになってたけど、千鶴君はもっと苦しいだろうと思って……」
花江はふと悲しそうに視線を落として言った。
「まだほんの初等学生の子が二階の窓から飛び降りようと考えるくらい苦しんでるのに、放っておくわけにわいかないじゃない」
血の気が引いて自分の体が冷たくなったのを莉々亜は感じた。
「大丈夫よ、莉々亜ちゃん。もう乗り越えた過去のことだもの」
「……どうやってそんな状態を乗り越えたんですか?」
恐る恐る尋ねると、花江は微笑んで答えた。
「強引なやり方よ。薬で抑えちゃったの。色々な病院を回って色々な薬を試して、ある抗不安剤が千鶴君の症状にぴったりだっていうのことがわかったの。副作用がきつくて千鶴君に合う薬が見つかるまでは大変だったけど、ぴったりなものが見つかったら嘘みたいに落ち着いて生活できるようになったわ。それでやっとまともに初等学校にも通えるようになって、陽介君と出会ったり飛行機に乗り始めたり、だんだん千鶴君は自分の道を歩めるようになったのよ」
辛い時期を乗り越えた今の千鶴がいるからこそ花江の表情は晴れやかだったが、莉々亜はそういうわけにはいかなかった。
「そんなに大変だったなんて、全然知らなかったです……」
莉々亜はカップを持った手の震えを隠せなかった。
「莉々亜ちゃん……?」
「そんなに苦しい思いをしてたなんて……。私、なんてことを……!」
溢れてくる涙を堪えきれずにいると、そっと温かい腕が莉々亜の震える手を包んだ。いつのまにかすぐそばに来ていた花江が、優しく背中にまで手を添えてくれる。
「大丈夫よ。人は辛いことを経験して強くなるものだもの。千鶴君は強いわ。そうやって人の痛みに涙を流してくれる莉々亜ちゃんもね」
莉々亜は必死に首を横に振った。
「そうじゃないんです。私は……千鶴君にとても酷いことを……!」
温かい手がぽんぽんと優しく莉々亜の背を叩く。
「初めからなんでも知ってる人なんていないわ。だから今教えたの。莉々亜ちゃんは千鶴君が初めてここへ連れてきた女の子なんだもの。だから泣いてくれて嬉しかったわ。ありがとうね」
「花江先生が思うような、綺麗な涙じゃないです」
莉々亜は花江のあたたかい手から逃れるように、花江の手が添えられていた方の手で涙を拭った。
「もしかして、千鶴君に何かを隠しているのかしら」
花江に図星をつかれ、莉々亜は体を強張らせた。
「いいのよ、誰にだって秘密はあるもの。でもそれにばかり囚われないでね。あなた自身をあなたの味方につければ乗り越えられるはずよ」
「私を、私の味方に……?」
「ええ、そうよ。そうすればきっと無敵になれるわ!」
その花のような優しい笑みで、少しずつ肩の力が抜けていくことに莉々亜は驚いた。「ほら、紅茶を飲んで落ち着いて」と促され、莉々亜は紅茶に口をつけた。花の香りの紅茶はまるで心まであたためてくれるようだった。
静かに紅茶を飲み干す莉々亜に、向かいのソファーに座り直した花江は言った。
「正解ばかりを選んで生きていける人間なんていない。だから間違ってあたり前。次に同じ間違いをしなければいいだけなのよ。だから前を向いて笑っていてね」
そして花江は両手をパンと叩いた。
「さあ、気を取り直してお昼ご飯にしましょう! 千鶴君を呼んできてくれないかしら。保育園の方にいなければ自分の部屋にいると思うわ」
「は、はい!」
「保育園の裏に二階建ての建物があるの。ことりのいえに住んでる中等学生以上の子供たちはそこに個室を持っていて、千鶴君の部屋は二階の奥から二番目よ。名札が扉に貼ってあるから、行ったらわかると思うわ」
「わかりました。行ってきます」
「カップは遠慮なくそのままにしていってね。私が片付けるから」
「ありがとうございます。ごちそうさまでした」
促されるままに花江の部屋を後にすると、莉々亜は古びたきしむ廊下を進んだ。




