悩み③
千鶴は顔を上げる気になれず、視線を落としたまま続けた。
「赤色人種と他の人種との間に子供ができた例はまだないんだ。適齢期の赤色人種がまだ少ないってのも理由の一つだけど、遺伝的な問題もあるらしい。詳しいことはわかってないみたいだけど、赤色人種には他の人種とはまるっきり違う遺伝子領域があるんだってさ。それが邪魔して子供が作れないかもしれないって病院で聞かされた」
言葉にすると余計に辛くて、それを紛らわすために千鶴は少しだけ笑った。
苦笑になってしまったけれど、それは仕方がない。
「俺さ、遊びとか経験とか、そんな軽い気持ちで誰かを好きになったり付き合ったりなんてできないよ。もし付き合うなら、ちゃんと将来のこと考えたいんだ。そういうの考えてないと、無責任って感じがして」
「つまり、結婚前提じゃなきゃ嫌ってことか」
「そういう風に言われると、自分でも気が早すぎるって思うけど……」
千鶴は指先で頬をかきつつ、言葉を探した。
「最初に付き合った人と絶対結婚したいってわけじゃないんだ。別れるのもありだよ、それは仕方のないことだし。でももしも付き合った人とどれだけ一緒にいても楽しくて居心地よくて、相手が結婚したいとか子供が欲しいとか思い始めてくれても……。そんな風に思わせておきながらそういうのは無理だなんて、俺絶対言いたくないよ」
「なるほど。それを言うくらいなら最初から誰とも付き合わない、と?」
「そう」
一通り話し終えたのでちらりと雪輝を見上げると、雪輝はそっけなく言った。
「へぇ。お前にもそういう悩みがあったんだな。もっと能天気でもっと馬鹿なのかと思ってた」
「んん?」
雪輝の言葉の後半部分に引っかかるところはあったが、千鶴は「まあ、こんな俺でもいろいろあるよ。髪や目がこんな色だし」と言って赤い髪の頭をかいた。
わずかに流れた沈黙の中、雪輝が静かに尋ねてきた。
「お前、あの事件を起こした研究所の連中のことは恨んでるのか?」
あの事件というのは、火星研究所事件のことであろう。
雪輝の珍しい質問に、千鶴は呻りつつレモンコーヒーを一口飲んでから答えた。
「それはなかなかスパッと答えが出せないんだよな。恨んでると言えば恨んでるし、感謝してると言えば感謝してるし」
「感謝? どうして?」
意外だと言わんばかりの雪輝に、千鶴は丁寧に説明した。
「火星で生まれた赤色人種は、もとは地球で破棄されるはずだった受精卵だったんだ。例えば実験や不妊治療でヒトの受精卵が必要になったら、多めに作るから余りが出るだろ。そういうのは育つことなく捨てられる。本当は俺も捨てられるはずだったけど、そんな俺を拾って生かしたのは、あの研究所なんだよ」
雪輝は納得しきれないような顔をしていた。
千鶴は続ける。
「たとえ目的や手段が倫理的にまずかったとしても、あの研究所やあの事件がなければ俺は生まれてくることすらできなかった。それは紛れもない事実なんだ」
千鶴は自分の手を広げて見下ろした。ここに今存在するこの手、自分の身体は、火星での陰謀がなければ影も形もないはずだった。
それを思うたびに、地に足を付けて立ち、自分の意志で動くことができ、色々な感情に揺さぶられながら少しずつ時を重ねてきた自分の存在が奇跡の産物であるように思えてならなかった。
「だから俺を生かしてくれた点では感謝してるよ。でも恨む気持ちもある。研究所でどんな扱いをされていたかは覚えてないけど、辛くてたまらなかったことだけは漠然とわかる。あそこから救出されてからもなかなか普通の生活ができなかったから」
「赤色人種にされたことについては恨まないのか?」
その問いもまた千鶴にとっては一言で返せるものではなかった。
「その辺のことは詳しくわかってないみたいだから、誰を恨めばいいのかよくわからないんだよな。地球でつくられた人工受精卵が火星で育った場合に赤色人種が生まれた、ってとこまではわかってるらしいけど。人間兵器の研究を認めたやつらも、赤色人種の誕生は意図したものではなくて想定外の事故みたいなものだって言ってるらしいし」
「犯罪者の言うことを信じてるのか!」
「そういうわけじゃないけど、勝手な思い込みで恨みたくもない。そういう感情に流されるのは、なんだか自分が真っ黒に染まっていくようで嫌なんだ」
荒っぽい嘆息が聞こえた。
「お前はつくづくお人好しだよ。自分も他人も傷つけられない臆病者だな」
雪輝のその言葉にさすがにむっとしたが、千鶴は反論はしなかった。
雪輝の意見は雪輝の価値観の産物だ。そして同じように自分には自分の考えがあって、それは他人の反論一言二言で覆されるべきものではないと信じている。
必死に考えて出した意見に他人の言葉で自信を失ってしまうことこそ臆病な証拠だと千鶴は思ったし、自分の考えを人に押し付けるのも正攻法ではないと思っていた。
ただ理解はしてもらいたいとは思う。
賛成してほしいわけではなく、そういう意見もあるということに気づいてもらうことが大切だと思う。
だから反論して互いの対抗心に火をつけるよりも、話を進めることを千鶴は選んだ。
「まあ、赤色人種であることは個性の一つだと思って受け入れてるよ。そもそもみんな違うところだらけなんだから、生まれ持ったものを比べる方がおかしいんだ。全く同じ人間しかいない世界なんて気持ち悪いだろ? この考え方、受け売りなんだけどさ」
千鶴は笑ってみせた。
「受け売り? 陽介のか?」
「違うよ。昔ある女の子に言われたんだ。俺がこの赤い髪が嫌だってうじうじしてたら、全く同じ人ばっかりの世界の方が気持ち悪いよって言ってくれてさ。確かに人と違うところこそが自分らしさなのかもって、その時初めて思えたんだ」
屈託のない笑顔で新しい価値観を教えてくれたおさげの少女。
一度しか話したことはないが、今思うとあれが初恋だったのかもしれない。
「自分らしさねぇ……」
「赤色人種は個性的な部分が少し目立ってるだけなんだ。赤い髪だからニワトリだとか、赤く変わる緑色の目が怖いって言われることもある。でも赤い髪がかっこいいって言われたこともあるし、緑の目が綺麗だって言われたこともある。どっちの意見をとるかは自分次第だし、自分を生かすのも殺すのも自分次第だからな」
前向きにまとめてみたが、雪輝は不愉快そうな顔をした。
「馬鹿みたいに綺麗な考え方だな。まるで初等学校の教科書に書いてあるような答えでぞっとする」
「えー! これでも何年もかけて俺なりに一生懸命考えた末の結論なんだぞ」
「何年もかけて、か」
そう呟きながら雪輝は立ち上がる。少しだが顔を背けるので、ウェーブのかかった黒髪が雪輝の目元を隠した。
「育った環境が良かったみたいで何よりだ。助け出されてよかったな」
それは酷く乾いた声だった。
そして聞き取れるか否かというほどの小さな声で、こう続けた。
「赤色人種のくせに……」
そんな雪輝にただならぬものを感じて耳を疑うばかりの千鶴に、雪輝はこちらに向いて言った。
「ほら、帰るぞ」
それは先程の発言を聞き間違いと思わせるほどいつもと変わらぬ口調だったが、道場の扉へ向かう雪輝の後ろ姿は何か重たいものを背負っているようであった。
いつもの鋭利な部分が錆びついてしまったかのような友人の背に、千鶴は言葉をなくしていた。何かを抱えているはずなのに、それを決して人に見せまいとしている。
だからこそ、雪輝のその努力を土足で踏みにじるようなことはできなかった。
「他人から見ると赤色人種は被害者や厄介者なのかもしれないけど、俺は赤色人種でも生まれてきてよかったと思ってるよ」
千鶴は言った。なぜか赤色人種を嫌う雪輝の、何かの葛藤の狭間にある心に届くように。
「そのおかげで俺は雪輝にも陽介にも莉々亜にも出会えたからな!」
あえて隠しているものを聞かない代わりに、心からの笑顔と共に雪輝の友人でいようと千鶴は決めている。
だから駆け出して、雪輝の背を大きく叩いた。
「雪輝も、何があったのかは知らないけど、きっと大丈夫だから! 無理はするなよ!」
雪輝はくすりと笑った。
それは自嘲とも千鶴に対する呆れともとれるものだった。
「考えすぎだ。人の心配をするくらいなら自分の心配をしろよ。残りの課題は全部自力でやるんだろ? 間に合うのか?」
「自力で! えっ……、ちょっ、ちょっと雪輝さん、もう手伝ってくれないんですか!」
青くなる千鶴に、雪輝がにんまりと笑みを浮かべる。
「当たり前だろ。俺はお前の先生なんかじゃないんだ。俺がいなくても課題くらい一人で片付けられるようにならないと、後悔するのはお前なんだからな」
雪輝を追いかけ更衣室でも必死に説得と懇願を続けたが、雪輝は頷いてくれそうになかった。
「冗談きついって! 明後日提出の熱力学の課題、全然わかんないんだって! 雪輝に聞こうと思ってたのに!」
「ばーか。俺が毎回すんなり手伝ってやると思ってんのか」
「雪輝の外道! 鬼! ツンデレ! あー、もう絶対間に合わないって! 雪輝、急いで帰るぞ!」
「おいこら、ちょっと待て!」
走り出した千鶴に、ミリタリーバッグを肩にひっかけた雪輝が追う。
土と草の香りがむせ返るような春時雨の中、千鶴は雪輝と共に駆け抜けた。




